粛清 残り2日

一時限目の授業が自習に変わり、

先生の居ない教室は

賑やかな話し声で溢れかえっていた。

空席は二つあり、

それぞれ夕陽と四葉の席だった。

夕陽がいなくなってから、

咲凛花には誰かに悪戯をされることも

靴がゴミ箱に入れられていることも無くなり、

そのおかげで、隣を見ると甘い匂いと共に

優しげな表情で応じてくれる彼女がいてくれた。

教室を見渡すと、

今日も大地の周りには人だかりが出来ていた。

彼は時折強い言葉を使いながらも

楽しそうに話していて、

咲凛花が虐められなくなった理由は、

彼女を虐めるより楽しい事を彼は

発見したからなのではないかと俺は推測している。

彼は、空席の夕陽の席に座っている

女子の肩に手を回し、

互いにべたべたと触り合っていた。

もしかしたら、今の彼は

彼女との交際に夢中なのかもしれない。

彼女も彼女で、嬉しそうに

制服のポケットに手を入れ、

小さなカメラを取り出して

ツーショット写真を撮っていた。

朔真の方を見ると、

彼は隣の席の菫と仲良さげに話していた。

やけに距離が近く、観察しているうちに、

直感的に彼らの求め合い方は特殊だと思った。

互いに、肌の奥深くにある

何かを求めているようで、

溶け出してしまいそうな粘度の高い空気が

彼らの間には流れていた。

「何か、平和だな。これまでが嘘みたいだ」

隣に向けて話しかけると、シュールな表紙の本を

読んでいた咲凛花は栞を挟み、本を閉じた。

「今は、平和だね。

でも、どうせまたすぐに何かが起こるよ。

このままじゃ、夕陽ちゃんがいた頃に

楽しく過ごしてきてた子達は、

怖くて怖くて仕方なくなっちゃうからね」

「どういうことだよ?」

「人間は、怖がりだから。

誰かが下にいないと、安心出来ないんだよ。

だから、ずっと、虐めは終わらない。

見てみなよ、みんなの顔。

次、虐められる番が自分に来ないように、

精一杯笑ってるでしょ」

注意して見ると、彼らの笑顔は

どこか引き攣っているようにも見えた。

「まあ、確かにな」

「やっぱり、学校は怖い所だよ。

現実は小説よりも奇なり、って言うし、

学校は社会の縮図だとも言うよね」

「そう思うと、苦しいな。未来」

俺が吐くように言うと、

彼女は肩をすくめて笑った。

「本当だね」


 「何事も無い、一日だった」

俺がそう呟いたのは、放課後、

咲凛花と並び校門を出たところでだった。

一切の不都合もなく、

思い返してみると、

まるで夢を見ていたかのように思えてしまうほど

時間の経過が早く感じた。

「でも、何も無いのはつまらないかもな。

何かが起きてほしいって訳じゃ無いけど、

平坦な日常は面白くない」

「いやいや、

平坦な日常は平和で、それが一番だよ」

咲凛花は穏やかな口調で言った。

「不思議で優しい夢を見続けて、

布団の中で、夢から覚めるみたいに最後を迎える。

そういうのが、私は一番素敵だと思う」

「人間の生きていられる時間なんて、

せいぜい100年程度だ。

そんな風に溶かしてしまうのは勿体無くないか?」

「別に」

彼女は青色の空を見上げた。

「私、神様に何を求めた記憶もないよ。

ただ、気づいたら生まれてて、

当たり前のようにこんな冷たい世界にいる。

この世界で、息吹みたいに

逞しく生きる気なんて私には起きないや」

空の光が彼女の瞳に反射していた。

「私達って、

何のためにこの世界に生まれたんだろうね」

彼女の言葉を聞いた時、

俺は神の命令を思い出した。

六日後に死ぬ弟切咲凛花の魂が、

善いものか悪いものか判断せよ、

というものだった。

一つ、嫌な考えが頭をよぎっていった。

神が咲凛花を作った理由とは、

彼女が生まれてきた意味とは、

あと3日後に、

彼女が死ぬことにあるのではないのだろうか。

咲凛花が苦しんできたことも、悩んできたことも、足掻いてきたことも、俺と一緒に過ごしたことも、

それではあまりにも無意味なことに感じてしまう。

俺は彼女の手を握り、口を開いた。

「神なんていない。

お前が生まれてきた意味は、自分で作ればいい」

神は何を思い、この世界を造ったのか。

そんな疑問が頭に浮かんだ次の瞬間には、

俺は手に回答を握りしめていたことに気付いた。

神だって、平坦な日常は嫌いだからだ。

それが正しければ、

この世界は、所詮神の玩具にすぎないことになる。

「息吹は、本当に人間じゃないみたいだね」

咲凛花は小さく笑った。

俺には、彼女の笑顔は

神の作り物にしては酷く粗く、拙くて、

愛おしく見えてしまった。

後ろを振り向くと、

生徒玄関から出てきた生徒達が

群れる虫のように笑い、歩いてきていた。

その中には、大地も、手を繋ぐ菫と朔真も、

制服のポケットに

手を突っ込んで歩く四葉の姿もあった。

この世界が神の玩具だと思うと、

必死に生きようとする全ての人間達が、

哀れに思えた。

この世界に生まれてさえこなければ、

そんなに苦しまなくてよかったはずだったのだ。

「帰ろう、咲凛花」

言うと、彼女は腕を絡ませてきた。

「うん。帰ろう」

香ってきた強い甘い匂いが、

俺の奥の何かを変えていくのが分かった。

すぐ耳元で、低くて粘度のある咲凛花の声がした。


 すっかり通い慣れた店内には

変わらず油っぽい匂いが充満していた。

毎日欠かさずこの店のラーメンを食べている

私が思うに、この店で一番美味しいのは

シンプルな味噌ラーメンの特盛。

朔真が頼んだ塩ラーメンは三番目、

息吹が頼んだつけ麺はラーメンじゃないので

私は食べてすらいない。

「花水木先生は警察に連れていかれたよ。

ただ、性的趣味が変わってるってだけで

罰を受けたのだと思うとちょっと可哀想かもね」

テーブルを挟んだ向こうに息吹は座っていた。

彼は水を一口飲み、聞いてきた。

「花水木は、どうなるんだ?

教員はもう出来ないんだろうけど」

「有期懲役は間違いない。

彼は多分、数年牢屋に入れられるんじゃないかな。詳しく無いから、定かではないけど」

息吹の隣に座っている朔真は答えた。

「なら、良かった」

息吹は目を瞑り、安堵の声を出す。

「これで、少しは咲凛花の負担は減るはずだよな」

それを見た私は、ずっと抱えてきた疑問を、

彼にぶつけてみることにした。

「それにしてもさ、

息吹は何でそんなに咲凛花ちゃんに肩入れするの?

匂いを感じる前、というか、

初めからずっとだよね」

彼は腕を組み、少し考え、言った。

「魅力的だったからだ」

「魅力的、それは純粋じゃないよ」

「ああ。今思えば、

初めは保護欲だったのかもなって思うんだ」

息吹は昔を懐かしむようだった。

「初めて会った時の咲凛花は、

俺よりもずっと弱そうだった。

怖がってて、我慢してたように見えた。

それが、

俺の本能的な保護欲を刺激したんだろうな。

そうして欲に従って彼女と関わっていくうちに、

段々と、保護欲は歪んで絡まって、

甘い匂いに変わったんだと思う」

「人間は、感情しか理解出来ないもんね。

歪んで絡まって、甘い匂いに変わるんだ」

「もしかしたら、

四葉が甘い匂いを感じられないのは、

他人に微塵も興味がないのかもしれない」

朔真はじっとこちらを見つめて言った。

「かもね」とだけ、私は返した。

それから運ばれてきたラーメンを食べ終わって、

私達は店から出た。

空は青色から赤色に変わり、

オレンジ色の夕陽はどこか寂しげだった。

膨らんでしまったお腹をさすって歩いていると、

息吹が不意に聞いてきた。

「なあ、お前ら。

明日祝日だけど、どっか行く?」

「ん、祝日?え、私知らなかった」

「僕は菫と一緒に過ごすよ」

「お前もか。俺も咲凛花と遊びに行くんだ」

「へえ」

朔真は気怠げに返事をした。

「私知らなかったんだけど」

言うと、息吹は悪戯っぽく笑った。

「じゃあ、一人で

お留守番でもしてればいいんじゃないのか?」

「酷い、こんな可愛い私にそんな事言うなんて」

「まあ、俺も知らなかったんだけどな。

咲凛花に誘われて知ったんだ」

「じゃあ、何。私は明日一日暇ってこと」

「そうだ」

わざとらしく泣く仕草をして、

上目遣いで同情を誘ってみても

笑われるだけだった。

「じゃあ、いいよ。

私は朝から晩までラーメン屋巡りでもするから」

頬を膨らませそう言った。

体の異変に気付いたのは、

アパートに帰ってきて、しばらく経った後だった。

既に日は落ち、掛け時計は午後八時を指していた。

急に、体の奥の何かが、疼き出した。

初めて自慰行為をした時のように、

胸の中で

黒いどろどろしたようなものが暴れている。

だが、今の私には

この疼きの正体が感覚的に分かっていた。

性欲。

抑えようとしなければいけない程に

雄を求めてしまう本能的な欲求と、

人間特有の社会性がぶつかり合って、

私の中で、衝動が連鎖的に起き続けているのだ。

私は急ぎトイレに入り、

何度も何度も自らを慰め続けた。

だが、絶頂を迎えるたびに、

疼きは激しさを増していった。

「狂う、狂う、おかしく、なる」

ぼやけていく視界の中で、

止まらなくなった両手の感覚と

物足りない快楽だけが明瞭に分かった。

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