堕天 残り3日

初めは、ある時に起きた些細な衝突だった。

まだ小学生だった私にも、

くだらないと思えるほどに小さな衝突。

皿洗いをしろと言ったのにしていないとか、

洗濯機を回せと言ったのに回していないとか、

その程度のことだったと思う。

だが、それからお父さんとお母さんの間に、

徐々に変化が生まれていったのは

確かなことだった。

私の知っていたお父さんは、優しくて、強くて、

他人を尊重することのできる人間だった。

お母さんは、おおらかな人柄で、

他人を思いやれる人間だと思っていた。

子供ながらに、

私は二人を尊敬していたのを覚えている。

恐らく、それまで二人とも、

心の中に巣食う怪物を抑え続けていたのだろう。

衝突の後、

何かを閉じ込めていた蓋が開いたかのように

彼らは日常的に不満を言うようになった。

仕事のこと、家事のこと、生活のこと、私のこと。

それに伴って、似たような衝突が増えていった。

どうだっていいような事で、

言い争う声がいつもリビングに響くようになった。

まるで、化けの皮が剥がれたかのように、

尊敬していた二人の姿は掠れていった。

その時、自分を取り繕うということの恐ろしさを、

私は自分の親から学んだはずだったのだ。

いや、だからこそ、

私はもう一人の私を演じたのかもしれない。

怪物に変わる前の両親は、

作り物のように美しかった。

衝突が起きてからお母さんが家を出ていくまでに、

それ程、時間は掛からなかった。

細長い薬指から外された、所々汚れた結婚指輪に

お母さんが金槌を振り下ろすのを間近で見ていた。

綺麗な円形だった指輪が歪み、

装飾として組み込まれていたサファイアが

砕け散る様はどこか幻想的だった。

お母さんが出て言った後、

お父さんは仕事を退職し、酒に溺れた。

夜勤のよく分からない仕事をしながら、

私に彼の生きる意味を背負わせた。

「お前の為だ」と言いながら

稼いできた僅かな給料のほとんどを酒に費やす、

人間性の歪んだ怪物に成り果てたのだ。

お父さんは、きっと長く、辛い夢を

見ているような気分なのではないだろうか。

手放したくてたまらない命を、

人間性と本能が拒み続けているのだ。

だからこそ、彼は溺れる。

溺れるしかないのだろうと、私は思う。


 ショッピングモール内にあった

ホームセンターで購入した包丁の包装を、

気を張りながら剥がした。

柄の部分を手で確認し、

押さえて袋の中で緩く固定した。

そうするのは、酒に溺れ続けるお父さんを、

私の手で救ってやるためだった。

菫の家を出た時には五時半を回っていたから、

おそらく今の時刻は

既に六時を経過していると推測した。

空は夕陽で赤く染まっていて、

太陽は半分落ちていた。

「ふう」

一度深呼吸をして、心臓の拍動を落ち着ける。

隣にある薺さんの喫茶店から、

甘い良い匂いが風に乗って私の元に届いた。

人形のように美しい彼女の顔が思い浮かんだ。

「よし」

ポケットから鍵を取り出し、玄関の鍵を開けた。

無機質な金属の音を確認し、

私は薄暗い家の中に侵入する。

玄関には、お父さんの汚れた革靴があって、

いつもなら充満しているはずの

酒臭い匂いはしなかった。

今朝、私が寝ているお父さんの

財布から酒代を盗ったからだろう。

袋の中に手を入れ、右手で包丁の柄を握った。

極力音を立てないように靴を脱ぎ、

床で滑らないように靴下も脱ぎ捨てた。

そのままの体勢で、

忍び足でリビングに近づく。

リビングへのドアはしっかり閉ざされていた。

中からは、お父さんのいびきも聞こえてこない。

不気味なほど、音が無かった。

袋を左手首に提げ、

空いた左手でドアノブを回した。

ドアの外から見えたリビングの範囲の中には、

お父さんの姿は無かった。

「夕陽」

中へ足を踏み入れようとした時、

奥から、あの頃の彼の声が

聞こえたような気がした。

だがそれと同時に、

私の体にも、違和感を感じていた。

脳と聴覚がずれているような、不思議な感覚。

あの頃のお父さんの声が聞きたいという、

私の願望が脳を錯覚させたのかもしれないと、

頭では理解していた。

が、気づけば私は、

無防備にリビングの中へ歩き出していた。

右手に握っている包丁が簡単に人の肉を切り裂き、

命を奪えると思っていたが故に、

私は最後に、お父さんに期待をしてしまっていた。

それは私が、彼を愛していたからに他ならない。

次の瞬間、頭上で何か、ガラスのような物が

破裂する大きな音が鳴った。

反射的に上を向くと、

鈍い緑色のガラスの破片が酒の匂いと共に

降り注いてくるところだった。

咄嗟に顔を両腕で隠したが、

雨のような、鋭い痛みが体中に走った。

「夕陽、俺が、何をしたっていうんだよ」

酒瓶が投げられた方向から彼の声が聞こえて、

私は破片のない方向へ跳ね退いた。

「俺は、お前の為に生きてるつもりだった。

お前の為だ、お前の為に、俺は働いて、

必死に生きてんだよ。

それなのに、ただ俺に寄生して

生きてるだけのお前が、

この俺に酒も飲ませないって言うのか」

彼は、リビングの隅に丸まって、

いくつもの酒瓶を抱いて涙を流していた。

シワだらけのスーツ、熊のひどい目元、

血走った光の無い目、空いたまま塞がらない唇。

お父さんの姿は、獣のようだった。

だが、私には彼が変わってしまったというよりも、

纏っていた幻想が消えて、

本当の姿を現したと言う方が

しっくりくるような気がした。

この世界の人間の本質は、

幸福を求め続ける怪物である、と、私は考えた。

幸福のために世界に従い、

そのうちに自分すら欺き、自由を捨てる。

閉じ込められて、何も知らずに死んでいく。

お父さんは、

幸福に形があると世界に教えられたのだろう。

そうして生まれたのが私だったのだろう。

右手に酒瓶を握り、彼は口を開く。

「その髪、染めるのに何円かけたんだよ。

俺の稼いだ金だろうが。

親不孝なガキだよお前は、

生まれてこなければよかったんだよ、

俺も、お前もだ」

「お父さんは、

これからも生きていたいって、思う?」

私は突然聞いた。

「私は思ってるよ。

丁度今日、やりたいことを見つけたんだ」

「生きていたいわけがないだろうが!」

彼は吠え、

右手を振り上げこちらに酒瓶を投げつけてきた。

黒い酒瓶は私の遥か頭上で円を描きながら通過し、

壁に当たって割れる音が聞こえてきた。

お父さんの見ている世界では、

私こそが巨大な怪物に見えているのかもしれない。

彼は頭を抱えて、呟き出した。

「人間って何なんだろうな、

幸せって何なんだろうな、

俺のこの気持ちは、

一体どうしたら晴れるんだろうな、

教えてくれよ、夕陽。

こんな世界だって知ってさえいれば、

俺は生まれてきてなんてやらなかったんだよ」

私は、教えてやった。

使い物にならなくなった、

歪んだネジのようなお父さんに。

「お父さんや、私達人間は全て、世界の奴隷だよ」

「何だよ、それは。何を、言ってる」

「私達は、この世界を動かす

小さな部品でしかないってことだよ。

お父さんの中の幸せは世界が作った幻で、

幸せになるために人はその幻に向かうんだ。

幸福は、人間を動かす燃料の一つで、

誰もを縛りつける鎖なんだよ。

まあ、そうでもしないと、

人間は何をするか分かんないもんね。

要するに、世界が見せた幻と、お父さんの望む、

本当の幸せが偶然噛み合わなかったからだよ。

お父さんの心が晴れないのは、運が悪かったから」

彼は項垂れ、吐くように言った。

「俺は、何のために生まれてきたんだ」

「この世界の、部品になるためだったね」

私はお父さんの丸まっているリビングの隅に

ゆっくりと歩き近づいていった。

手を伸ばせば届くほどの距離まで接近した時、

彼は生気を感じさせない口調で話し出した。

「夕陽、お前のやりたいことって、なんだよ」

私は包丁を袋から出し、振り上げた。

「最低な元彼と、私を犯した奴らに、

天罰を下してやること。

脂っこいジャンクフードを沢山食べること。

私らしく、生きること。

咲凛花に、償いをすること」

「お前も、大変らしいな」

そう言って彼が肩を震わせて笑い出したのを見て、

右手を勢いよく振り下ろした。

「あとは、お父さんを、救ってあげること」

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