堕天 残り3日

トイレの個室の中に留まり続けるというのは、

心情的にも身体的にも、

存外疲労が蓄積するものなのだと実感し、

意外に思った。

普段のように座って排泄をするだけなら

気にならないのだが、

長時間そこで待てと言われると

途端に個室の中が閉鎖的で息苦しく感じる。

ここに入ったのは、

確か四時十五分くらいのことだった。

咲凛花によると、四時半から五時の間に

いつも彼はやってくるのだそうで、

五時十五分にはトイレの個室の中で待機するように

言われているらしい。

上を見上げると、

仕掛けてあるビデオカメラが見えた。

以前、朔真が買ってきたものだ。

何かの役に立つかもしれない、

と三人で話してはいたが、

まさかこんな場面を盗撮することになるとは

思ってもいなかった。

「ふう」

高揚する自分を抑え、熱い息を吐き出した。

内心、私の胸の中は期待感で一杯だった。

人間の覚える快楽というものは、

大抵が本能的に都合のいいことが

起きた時に起こる。

そして、都合がいいだけ、快楽は大きくなる。

性行為。

繁殖をすることは、生物の、最も原初的な欲求だ。

それだけに、覚える快楽は最大級に大きいはずで、

今からそれに触れられると思うと

興奮が抑えられなくなりそうだった。

脱ぎやすいように

スカートのチャックを少し下ろすと同時に、

遠くから足音が聞こえ出した。

慌ただしい感じがして、重たいその足音は

直感的に男性らしい感じがした。

時刻的にも、

遂に花水木先生がやってきたのではないかと思い、私はスカートを下ろした。

器用に折り畳み、個室の壁の上にかける。

アパート内以外で

下着姿になるのは初めてのことだったが、

肌を撫でる風が冷たく、

異様に興奮を覚えている私がいることに

自分自身で驚いていた。

「これは純粋じゃない、私が人間だから。

歪んでるから、恥ずかしいのが、興奮するんだ。

変だけど、悪くない、この感じ」

体中に鳥肌が立ち、

胸の中を幸福感とも充実感ともつかない

弾けるような黄色の感情が満たしていった。

足音は段々と大きくなっていき、

私のいる、女子トイレの前で止まった。

数秒間の間の後、

大股で中に入ってくる音が聞こえた。

真っ直ぐに足音はこちらに近づいてくる。

私は急ぎ、制服の上を脱ぎ捨てた。

露わになった下着を見て、

少し子供っぽいかもしれない、と思ったが、

人間は歪んでいることを思い出し

気にしないことにした。

そもそも、相手は中学生に手を出す教師だ。

大人なものより、子供っぽい下着の方が、

お好みなのかもしれない。

急いでここまで来たのか、

それとも咲凛花との性行為が待ちきれないのか

荒い息づかいがトイレの中に響いた。

少なからず私の息も荒くなっていたが、

彼の吐息に掻き消されたようだった。

足音が私の目の前で止まり、

2回ノックをされた。

それを合図に、私はかけていた鍵を開ける。

ゆっくりと、扉は開かれていった。

今日、花水木先生の着ていた

白いシャツが見えた瞬間に、

私は彼の腕を引っ張り個室の中に引き摺り込んだ。

濃い汗の匂いがして、驚いたような顔をしている

花水木先生と目があった。

私はそのまま彼の腰に足を絡め、

腕を首に回し強引に

彼の口内に唾液いっぱいに舌を捻じ込んだ。

味はよく分からなかったが、

嗅覚は汗の匂いに支配されていた。

朔真が言っていたような、

香水に似た甘い匂いは一切感じることはなかった。

おそらく予定外の私からの接触に

花水木先生は一瞬怯んだが、

次の瞬間には彼の右手が私の性器に触れていた。

彼は静かに扉を閉め、鍵をかけた。

一言の言葉も交わさないまま、

私達は濃密に絡み合っていった。


 昨日もこの場所に来たはずなのに、それが、

まるでずっと昔のことのように思えてしまった。

今日、私は生まれ変わった。

外見を変え、自分と向き合って、

新しい自分になったのだ。

私は自由。

この冷たい世界に縛られず、

機械ではなく一人の人間として、

選択をし、生きていく決意と意志を持っている。

私は一歩を踏み出し、家のチャイムを鳴らした。

「はい。あ、夕陽ちゃん。

髪、黒くしたんだね」

中から体半分だけ出てきた菫は、

私を見て嬉しそうに言ってくれた。

「そっちの方が、断然可愛いし似合ってるよ」

「そうかな、ありがとう」

思わず笑みを溢した私を見て、

また彼女は嬉しそうな顔をした。

「買い物もしたんだね」

菫は私の左手の大きめの袋を見て言った。

「あ、そうだ」

私は彼女の家を訪ねた訳を思い出し、

右手に持っていた傘を差し出した。

「傘、ありがとうね」

「あ、大丈夫だよ。どういたしまして」

傘を手渡すと、彼女は手際よく

玄関に置いてあった傘立てに傘を差した。

「じゃあ、改めて昨日はありがとう。じゃあね」

それを見て、私は

別れの挨拶を口にしながら手を振った。

菫は私の顔をじっと見た後に、

聞いたこともないほどの強い口調で言った。

「それは駄目」

「え」

子猫がいきなり豹に化けたかのように、

彼女の目は光り、変貌した。

先程まで穏やかだった空気は一変し、

殺気に似た切れ味のある雰囲気で満ちた。

彼女は玄関から飛び出し、

勢いよく私に抱きついてきた。

「何、どうしたの」

爽やかな柔軟剤の匂いと共に、

菫は私の腰に手を回し制服に顔を埋めてきた。

その直後、彼女は目一杯に私の服の匂いを嗅いだ。

私はどうすればいいのか分からず、

戸惑い続けていた。

「やっぱり」

彼女は呟き、

私へ明らかな敵意のある視線を向けた。

「何が、やっぱり、なの?」

「朔真君の、匂いがする」

菫の視線は私を貫かんばかりだった。

彼女の様相は、人間というよりも獣に近く見えた。

「どうして、

夕陽ちゃんから朔真くんの匂いがするの?」

感情のこもっていない声で、聞いてきた。

「それは、一緒にいたからだと思う、けど」

「どういうこと?」

「たまたま、ショッピングモールで会って」

「朔真くんは風邪で学校休んでたんだよ。

そんな所にいる訳ない」

「本当だって」

「嘘つかないで」

「自動販売機の前のベンチで休んでたんだよ」

「だから、嘘つかないでくれない?」

「嘘じゃないってば」

断じて嘘はついていないのだが、

私は肉食動物から逃げ惑う草食動物のように

彼女に襲われ続けた。

それから、彼女の部屋に連行され、

徹底的に尋問を受けさせられた。

不安感や嫉妬、否定的な感情は、

時に菫のような優しい子までを

獣に変えてしまうのだと思うと恐ろしく思えた。

獲物を逃さんとする

彼女の豹を思わせる目を見ていると、

猟奇的な美しさを覚えると同時に

彼女の本性を覗いているような実感があった。

そして、誤解を解くまでに一時間以上を有した。

「わかった。明日、朔真君にも聞くから。

絶対、手、出さないでね。私のだから」

菫は私を見下ろして、

刃物のように鋭い声を出した。

「はい」

私にはそう返事をするのが精一杯だった。

菫の部屋の中は、窓から夕陽が差し込んできて

オレンジ色に染まっていた。

部屋の中央に配置されているテーブルには、

私が持っていた袋の中身が

警察に押収された証拠品のように並べられていた。

「それにしても、夕陽ちゃん」

肉食動物から

いつもの優しげな菫の口調に戻りつつ、

彼女はテーブルの上にある物体に目を向けた。

「カメラと、包丁と、カラースプレー、

よく分かんないガス缶と、これはエアガン、かな。

何の目的で買ったの、これ。すごく怖いよ」

「菫の想像してることで、多分合ってる」

私が言うと、彼女は一歩後ずさった。

「ああ、でも大丈夫。菫ちゃんにも朔真君にも、

危害を加えるつもりはないよ。

私は、これ以上大地が誰かに乱暴することが

ないように、止めたいと思っているだけだから」

菫は昨日、私を憐れんだ時と同じ目で、

心配そうに見つめてきた。

「止めるって、何をするつもりなの。

勝てる訳ないよ、夕陽ちゃんは女の子なんだよ。

どうしてそんなことしようとするの。

せっかく、逃げられたのに」

「それは、私が、自由だからだよ」

菫の視線が、異質なものを見るような目に

変わったのが分かった。

「やりたいことを、やるんだ。

自分で選択して、実行するんだよ。

世界の流れのままに耐え続けるんじゃなくて、

力にされるがままにされるのでは無くて、

私は、私の生きたいように生きたいんだ。

学校に居場所が無くなって、

私は初めて自分が自由だって知ったんだよ」

私は言い放った。

「夕陽ちゃんが決めたことだもんね。

だったら、どんな結果になっても、

夕陽ちゃんは幸せかな」

「うん、幸せだよ。

私が私でいられるのなんて、しばらく振りだもん」

「夕陽ちゃんはすごいね」

彼女は窓の外に目を向けながら言った。

「怖くて、そんなの私には絶対出来ないよ。

自分が自分でいるためだけに、

世界に叛逆するなんてこと。

誰もが、どんなに辛くても、

怖がって受け入れていることなのに。

でも、この世界の普通の人には、

夕陽ちゃんは言われちゃうだろうね。

狂ってる、とか。

でも、私にはね、

今の夕陽ちゃんは、一番人間らしく見えるよ」

「私が人間らしいと言うよりは、

周りが人間じゃないみたいなんだよ」

「そうかもしれないね」

彼女はテーブルの上の物を袋に丁寧に詰め、

両手で渡してきた。

受け取りながら、最後に私は聞いた。

「咲凛花、なんて言ってた?」

菫は目を合わさず、答えた。

「罪悪感から、逃げたいんだって、言ってた。

後、天罰だ、とも」

心に穴が空いたような喪失感を覚えながら、

私は首を縦に振った。

「そりゃ、そう思うよね」

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