堕天 残り3日

急に、手を繋がれた。

右手に吸い付くように咲凛花の

少し濡れた肌が絡みつき、

彼女の低い体温と俺の体温が

交わっていくのが分かった。

「ごめん、ちょっと手汗かいてる、から」

彼女は目も合わせず、

地面に向かって震えた声で言った。

握り返し、「別に気にしない」と言うと

彼女は右手で口元を隠し嬉しそうに笑った。

午後の授業が終わり、

咲凛花と二人で下校をしている時のことだった。

空には天高く太陽が登り、

昨日とは打って変わって雲一つ無い、

青色の絵の具で

塗りつぶしたような快晴が広がっている。

「よかった」

咲凛花は口元を隠したまま、呟いた。

彼女の横顔は、

俺が学校に通い始めた初日の彼女のもの近くて、

純粋に魅力的に見えた。

そのまま少し歩いていると、

前方から自転車が来ているのを確認し、

俺は彼女の方に一歩寄った。

彼女は何故だが緊張したような面持ちで

一直線上に歩き続け、

互いの肩とそこから伸びる腕が触れ合った。

「えっ」

咲凛花は驚いた様子で声を漏らし、

その後に溜息とは違う、

恥じらいを含んでいるような生温かい息を吐いた。

「あれ」

俺は思わず、呟いていた。

彼女の恥ずかしがる表情を目にした途端に、

視界が揺れて心が跳ねた。

つい先程まで見えていた

彼女の横顔の見え方が一変して、

甘い香水のような匂いが鼻を突き抜けた。

「なんだ、これ」

唐突に起きた体の変化に恐怖を覚え、

彼女から距離を置こうと

すると今度は彼女が俺を引き寄せた。

「危ないよ」

咲凛花の少し低い声がいつまでも耳の中で

残るかのように鼓膜を振動させ続け、

その中で俺のすぐ後ろを

自転車が通り抜けていくのが分かった。

彼女は真っ直ぐ俺の目を見つめ、聞いてきた。

「息吹、大丈夫?なんか、ぼーっとしてる」

咲凛花の息が顔に触れて、

甘い匂いが俺を支配していくのが分かった。

朔真の言っていた、人間の動物としての本能が、

俺の中で目覚めたのだと思った。

俺は今、咲凛花のことを異性として、雌として、

認識しているのだと自覚すると

より一層匂いが強くなった。

目の前には咲凛花の白く綺麗な肌があって、

その上を伝っていく一筋の汗が

俺の中の黒い塊を衝動的に刺激した。

「そんな顔、しないでよ。

変な気になっちゃうから」

心の中に生まれた俺の雄の部分を奥へ奥へ

押し潰して、俺は咲凛花と向き合った。

「大丈夫だ、行こう」

「うん」

彼女は優しそうな目で俺の事を見つめていた。

それから彼女と別れ、

俺は見慣れたアパートに帰ってきた。

鍵を開け中に入ると、

風邪で学校を休ませたはずの朔真の姿が

無かったが、俺にはそんなことを

気にかけている余裕は無かった。

彼女と離れてからも、

甘い匂いと、衝動が収まらないのだ。

体の奥の、本能的な部分が俺に訴えかけてくる。

頭では理解出来ないが、

体では何を求めているのかが明瞭に分かっていた。

俺はベットにリュックを放り投げ、

トイレに駆け込んだ。


 買った掛け時計が入った紙袋を

店員から受け取り、僕は店から出た。

ショッピングモールの中は人で溢れていて、

この場所にいるだけで目眩がするようだった。

それに、出掛ける前から覚えていた頭痛や倦怠感、

寒気は一向に収まらず、

それどころが悪化しているような気もしていた。

「あ」

歩いていると、

急に頭が一瞬真っ白になって、視界が暗転した。

「ああ、あれ」

平衡感覚が狂い、

転倒しないように足に力を入れる。

そのまま数秒耐えていると、

薄らと前が見えてきて、

段々と立っている感覚が戻ってきた。

このままでは危険だと判断し、

僕はどこか、休憩できる場所を探しに歩き出した。

見つけた場所は、飲み物の自動販売機が

並んでいる休憩場のような場所だった。

数個のベンチが設置されていて、

人気が無く、安心感があった。

自動販売機に数枚の硬貨を入れて、

お茶を購入しベンチに腰を下ろした

楽な体勢で座り目を閉じ、

深く深呼吸をして出来るだけ体に負荷を

掛けないようにしてみた。

しばらくそのままの体勢でいると、

周りの音に敏感になってきたように感じた。

五感のうち一つを働かせなくすると

他の四つがより敏感になる。

体感するのは初めてだったが、

世界に干渉している感覚がいつもと全く異なり、

新鮮で少し怖くもなった。

生まれつき、目の見えない人間や

耳の聞こえない人間などには

この世界が一体どう見えているのか、

興味が湧いた。

もし、僕が嗅覚を持っていなければ、

菫に惹かれることもなかったのだろうか。

彼女の顔が見えていなければ、

儚げな声が聞こえていなければ、

僕が恋を知ることはなかったのだろうか。

無意識のうちに、僕はそれを否定していた。

匂いや光、音などの無い世界だとしても、

だからこそ、その世界でしか知り得ない

彼女の甘い匂いも愛らしい顔も綺麗な声も

絶対に存在する。

大切なことは、

生まれついたその世界を愛すること

なのではないのだろうか。

「痛い」

考えていると、

頭痛がひどくなってきたような感覚がした。

目は閉じたまま、

思考を中断し、聴覚に集中することにする。

多くの人間の足音、話し声、笑い声、

機械音、何かを引きずる音、

こちらに近づいてくる、足音、柔軟剤の甘い匂い。

匂い?

「大丈夫?」

敏感になった聴覚から、

聞き覚えのある声が聞こえてきた。

昨日は沈んでいた声色だったが、

今日は明るさと

暗さを半分ずつ混ぜ合わせたような口調だった。

何せ、大変なことがあった後だ。

少しでも彼女から明るさを感じられたことは、

僕を嬉しい気分にさせてくれた。

「大丈夫、ただの風邪らしいから」

声の方向を向き目を開けると、

映し出された世界に

僕は思わず目を疑ってしまった。

中学校の制服を着ている、

黒髪でショートカットの見知らぬ女子が、

屈んで僕の顔を覗き込んでいた。

おまけに、この天気の下で傘を持っている。

「え、誰!」

僕は驚き、反射的に言っていた。

すっかり声の感じから夕陽だと思い込んでいたが、

もしかして、

ただ不調そうな僕に声をかけてくれただけの

人間だったのか。

女子中学生は不思議そうに首を曲げ、

髪を触り、何かを思いついたように悪戯に笑った。

「ねえ、どう?この髪型。似合ってる?」

「いや、似合ってるけどさ」

言うと、彼女は嬉しそうな顔をして口角を上げ、

口元に小さな笑窪が見えた。

「ほら、これ昔の私の写真」

彼女はスカートのポケットから

一枚の写真を取り出して手渡してきて、

僕のすぐ隣に腰を下ろした。

写真には、

小学生中学年くらいの女児が二人映っていた。

二人とも髪は短く

顔立ちは異なっていたが、

雰囲気からなのか、表情からなのか、

どこか根本的な部分が似通っているように見えた。

「可愛いでしょ」

写真を覗き込まれ、耳元から声が聞こえてくる。

「どっちが君なの?」

「ん、こっち」

「へえ、なんか、変わったね」

素直に感想を口にすると、

彼女は「へえ」と感心したような声を出した。

今の彼女と写真を比べてみると、

外見的な観点からは

顔立ちから幼さが薄くなった位で

大した変化は無いのだが、

何かが、

決定的に違っているのが感覚的に分かった。

住んでいる世界が変わってしまったかのように、

写真に比べて

彼女の目の中にある光はくすんだ色をしている。

彼女は溜息をつき、前髪を弄りながら言った。

「まあ、髪色も髪型も変わったし、

朔真には菫ちゃんがいるから私のことは

分からないか。夕陽だよ、私」

「一瞬、分からなかった」

「嘘。私が言うまで分かってなかったでしょ」

「ごめん」

「いいや、全然いいよ」

夕陽は優しそうに微笑んでみせた。

彼女は聞いてきた。

「学校はどうしたの?」

「風邪だから休めって言われた」

「休日を楽しめって意味じゃないと思うけどな」

「でも、せっかく空がこんな綺麗に

晴れてるんだしさ、寝てるんじゃ勿体無くて」

僕の手にあった写真を手に取り、

大切そうに見つめながら言った。

「自由だね」

「そりゃあ、自由だよ。

夕陽だって、僕と変わらないはずだけど」

「そうかな、いや、そうだね。私も自由」

ペットボトルのキャップを開け、

お茶を一口飲んだが

ほとんど味が分からなかった。

違和感と不快感だけが口内に残り、

それは、案外、人間は体を失うことよりも

得られる快楽を失うことの方が

余程恐ろしく思うのではないかと

僕に感じさせてしまうほどのものだった。

「買い物もしたし、僕は帰るよ」

言うと、夕陽は立ち上がった。

「私も丁度、帰るところだったんだよ。

一緒に行こう」

「わかった」

ベンチから腰を上げると、立ち眩みに襲われた。

程なくして、

僕らは並んでショッピングモールから外へ出た。

空には変わらず雲一つない青空が広がっていて、

昼間よりは通行人の数は少なくなっている。

他愛もない会話を繰り広げながら

バス停へ向かい、

僕らはやってきたバスに乗り込んだ。

入ってすぐの席に座り、一息つく。

「その袋の中身って何?」

僕の持っていた大きな袋を

見ながら彼女は聞いてきた。

円形状の大きな物体を取り出して見せる。

「掛け時計。僕らの家には

今日までこれがなくて大変だったんだ」

「それは、色んな意味ですごいね」

「そんなこともないよ」

「いや、すごいよ。それは。人間じゃないみたい」

彼女は軽快に笑い、

口元に愛嬌のある笑窪が現れた。

僕には、その笑窪のせいで目の前にいる

女子中学生の正体が

夕陽であることを認めきれなかった。

外見的な要素だけではなく、

ここ数日間見てきた夕陽の姿と、

彼女の素朴で可愛らしい笑顔が

どうしても重ならなかった。

人間は、自分を偽る生き物である。

どうして人間は笑うのか、

という問題を息吹達と話した時に知った。

茶色髪の彼女と、黒髪の彼女では

まるで別人であるかのように

人格が異なるように見える。

どちらの彼女が、偽りなのか。

僕には分からなかった。

「数日前の夕陽は、何処に行ったの」

聞いてみると、

彼女ははっきりとした口調で言った。

「食べちゃった」

「食べたって、どういうこと?」

聞き返すと、夕陽は自分の胸に人差し指を差した。

「お昼に食べたハンバーガーと

一緒に食べちゃったんだよ。その私は。

飲み込んで、私の、一部になったんだ。

今、ここにいる私は、

昔の私を消化して生まれた

新しい夕陽ちゃんなんだよ」

思わず首を傾げると、

夕陽は恥ずかしそうに目を背けた。

「いつか朔真にも分かるよ。

自分に、嘘をつかない人間なんていないんだから」

「なら、分かるのを楽しみにしてる」

答えると、彼女は「変わってるね」と笑った。

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