堕天 残り3日

美容室から出ると、高級そうなシャンプーの

匂いと共に私の黒い髪が揺れた。

耳がギリギリ隠れるくらいの長さの横髪に

男の子みたいに短い後ろ髪。

私が遂に捨てることが出来なかった、

綺麗に切り揃えられた前髪は健在だった。

美容室のガラスの前に立ち、

ポケットから一枚の写真を取り出した。

見ると、そこには

小学生の頃の私と咲凛花ちゃんの姿があった。

咲凛花ちゃんは今と変わらない

短い髪型をしていて、当時の彼女はいつも、

「ショートカットじゃなくて、

長くて女の子らしい髪型がいい」

と言っていたのを思い出した。

一方、その隣に映っている

私の髪も彼女と同じく女の子にしては短かった。

昔、大人たちは私たちのことをよく、

似ていると言っていたが、

髪型の影響も大きかったのかもしれない。

目線を上げ、ガラスに映る自分を見た。

写真の頃よりも随分と大人びた顔になり、

中学生の制服を着た私がそこにはいた。

写真の中の自分と目の前にいる自分を見比べると、

小学生の頃の私がそのまま、

純粋に大きくなったように見えた。

「私、可愛かったんだ」

茶色髪の私と1年間付き合ってきたからか、

いつからか私は、

本当の私を見失ってしまっていたらしい。

出来るだけ純粋に近づけた自分の姿を見て、

私は感動していた。

そして、ふと思った。

大人になるとは、どういうことなのだろうか。

私は、あの頃から大人になったのか。

思い返してみれば、

小学校を卒業して、中学校に入学して、

大きくなる度に、私の心は濁って

汚らわしくなっていく一方だったような気がした。

体ばかり成長して、心は幼稚なままだった。

学校では、自分や他人の騙し方、

我慢の仕方、社会での生き方、

そんなことばかり学んできたからかもしれない。

そのうちに体は汚され、心は壊れ、

私を、哀れに思った人間に助けられた。

本当に、黒くて汚い。

純粋な昔に寄せたこの姿が、

汚れを隠すための

浅い言い訳のようにすら見えてきてしまった。

昔の私と、演じてきた今の私。

どちらが本物かは、誰にも、

自分自身にすら分からない。

どちらも本物で、偽物の私のペルソナ。

だったら私は、

私の一番好きな私で、生きていきたい。

私は、茶色の髪を捨てた。

汚い自分を許して、飲み込んで自分の一部にする。

私はそれこそが、

大人になることなのではないかと推測した。

「少しだけ、大人になっちゃったんだ」

純粋なまま、何も知らずに生きていけたら、

きっと幸せだろうと私は思う。

ずっと子供のままでいたくて、

絶対にこれ以上、大人にはなりたくなかった。

この先の未来、

私の中で、新しい私が生まれては飲み込んで、

また生まれては飲み込んでを

何度も何度も繰り返して生きていく。

そして最後には、本物の大人に、

この冷たい世界の機械に変わり果てる。

車の走り去る音に混じって、

上空からカラスの鳴き声が聞こえてきた。

「それでも、私は自由なんだよね」

どうせなら、この世界の癌細胞に

なってみるのも面白い生き方かもしれない。

全ての人間は、本来機械なんかじゃなくて、

唯一無二の存在なんだから。


 温かい袋を片腕に抱え、

空いた片手には冷たい白いシェイクを持ち、

今さっき出てきたハンバーガーショップの

近くにあった公園のベンチに腰掛けた。

一旦シェイクを隣に置き、

好奇心を煽る

ざらざらとした材質の紙袋を開けていく。

中から爆発するように広がっていく

食欲を刺激するいい匂いが

私の抱えている期待感を更に加速させた。

手を入れて中身を探り、

薄い袋に包まれた大きなハンバーガー二つと

ポテトの存在を確認する。

公園の時計を一瞥し、現時刻が

もうすぐ一時になろうとしているのを知った。

一度天を仰いだ後に、両手を合わせ、言った。

「いただきます」

ジャンクフードが好きなのは、

数少ない、

私の昔から変わっていない要素の一つだった。

計算し尽くされたペースで

飲んできたシェイクの残り一口を啜った。

そして、再び手を合わせ言った。

「ご馳走様でした」

ハンバーガーの包み紙やシェイクのカップ、

ストローを紙袋に纏めて

公園に設置されていたゴミ箱に捨てた。

「ふう」

腹を擦りながら一度呼吸を整える。

久しぶりにこれほど油だらけで

化物のようなカロリーの食べ物を食べた気がする。

数年間食べることが

出来なかった好物にありつけたことによる

満足感と幸福感が私を満たしていくのがわかった。

お父さんの財布の中から、

数枚の一万円札を盗んできただけの価値は

充分にあったと言えるだろう。

彼が溺れるために際限なく飲む酒代

に消えるくらいなら、

私が使った方がまだマシというものだ。

「さて」

軽く体を伸ばし、私は歩き出した。

次の目的地は、

この公園の近くにあるショッピングモールだった。

腹ごしらえをしたおかげで

身体中から力が溢れてくるような感覚がして、

軽快で力強い足取りで横断歩道を通過していく。

この瞬間だけは、

私はどこへ行くのも自由で

何にも縛られていないような

錯覚に陥る事が出来た。

程なくして、

私はショッピングモールの入り口に辿り着いた。

平日の昼間だというのに絶えず客が入り、

中は様々な人間で溢れかえっていた。

休日の客層に比べると、

家族連れが減って、

サラリーマンらしき中年の男性や

スーツ姿の女性が多いような気がする。

これまで見てきた、

どんな幸せそうな顔をした家族も

この世界の一部で、機械として決められたように

動いているのだと思うと寂しい気分になる。

彼らが自由の中で、

その道を選んだのならそれは幸せだと思うが、

この世界に何の疑問も持たず、

鳥籠の中で生きていることを知らずに

その道を選び、自分の意思だと

勘違いしてしまうのは盲目的で可哀想だ。

いや、本当に可哀想なのは私のように、

この世界に疑問を持ってしまった

人間の方なのかもしれない。

盲目的であることは、本質的に

この世界に対して純粋であることと相違ない。

ワイシャツの袖を上げ、

夏の暑さと戦っているサラリーマンの群れに

混じり、私は店内に入っていった。

中は冷房が効いていて、

サラリーマン達も嬉しそうな表情をしている。

彼らは一つの大きな塊の様に

ラーメンやクレープ、コーヒーといった出店が

並んでいるフードコートに移動していった。

群れから離れた私は一人、

電化製品売り場へ足を運んだ。

エスカレーターに乗り、2階に上がると

すぐに目的地に到着した。

最近、流行しているのだとかいう

様々な色の四角い形のスマートフォンが

一列に並び私を出迎えてくれた。

この店のイメージカラーの青を基調とした制服を

着た若い男性の店員がその前で懸命に

笑顔を作りティッシュを配っている。

が、あまり相手にされている様子も無く、

彼の努力は無視され続けていた。

それでも頑張って笑顔を作り続ける彼の姿に

どこか感心してしまい、

私は彼からティッシュを貰った。

「お疲れ様です」

私が言うと、彼は目を見開き驚いた。

「ありがとうございます!

そんな風に労って貰えるの、初めてですよ」

名札を確認すると、花水木、とあった。

あの犯罪者教師と同じ苗字で兄弟か、

血のつながった人間ではないかと疑ったが、

彼からは背が高く清潔な感じがして、

その説の信憑性は一気に薄くなった。

彼からは、花水木先生の纏っているような

不快感が無い。

「いえ、大変だと思いますよ。

お兄さんの仕事。

笑顔作るのって、体力要りますからね」

花水木さんは笑顔を崩し暗い表情に変わり、

俯きがちに吐いた。

「ええ、全くです。

本当に辛い仕事ですよ。

給料も大したことありませんし。

どうして僕が

こんなことをしなければいけないのか、

神様に問いただしたいくらいですよ」

「案外、ちゃんとした理由なんて無くて、

面白いから、とか言われちゃうかもしれませんよ」

と茶化すと、彼は指の骨を鳴らし言った。

「もしそうなら、

神様なんてぶん殴ってやりますよ。

僕以外の現実に

苦しんでいる社会人の分まで何百発も!

あ、いや、中学生にする話でも無かったですね、

こんな悲しい社会人の話」

「いえ、立派ですよ。お兄さんは」

「そうですかね」

彼は頭を掻き笑った。

「では、お仕事頑張ってください」

私はそう言い残してカメラの売り場へ向かった。

「ありがとうございます!」

背後から花水木さんの声が聞こえてきた。

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