堕天 残り3日

 制服に袖を通し、スカートのチャックを上げた。

いつものようにリュックを背負い、

折りたたみ式の小さな鏡で髪型を確認する。

明るい茶色の頭には寝癖があり、

前髪が少し乱れていて、

昨日までは癖があった後ろ髪は

真っ直ぐに下ろされていた。

鏡をベットの上に放り投げると、

揺れた後ろ髪からシャンプーの匂いがした。

スカートのポケットの中からヘアゴムを取り出し、

重たい後ろ髪を一本に纏める。

首筋に直接空気が触れて、清々しかった。

私は部屋のドアを開けた。

何故か、軽い足取りで階段を降り、玄関へ向かう。

リビングからは、早朝に帰ってきた

お父さんの煩わしいいびきが聞こえていた。

「行ってきます」

かつてここにいた二人に向けて、

小さな声で私は言った。

昨日菫から借りた黄色の傘を

傘立てから引き抜いた。

玄関の戸を開けると、

皮肉なくらいに明るい空が広がっていた。

雲一つ無く、均一な青色に染められた空は

それはそれで異質なものにも思えた。

目を凝らすと、

遠くに私の通っていた中学校が見える。

制服姿の私は

学校とは真逆の方向を向き、歩き出した。

目的地は、

家からは遠い場所にある美容室だった。

無理をすれば歩いて行くことが

出来るほどの距離ではあったが、

今の私にはそんな気力は無く、

まずは近所のバス停に向かうことにした。

途中、何人かの私と同じ制服を着た

中学生とすれ違った。

私の髪色のせいなのか、進行方向のせいか、

それとも晴れているのに

傘を手にしているからなのか、

彼らはこちらを怪訝そうな目で見てきた。

幾つかの信号を通り、

しばらく歩き、バス停に辿り着いた。

時刻表を確認すると、次のバスが来るのは

八時三十分らしいが、

私には肝心の今の時刻が分からなかった。

「まあ、いいか」

バス停の真横に立ち、呆然と街を眺めた。

私の目の前には

冷たく硬い四角の建物が建ち並び、

虫のように沢山の数の金属で出来た

四輪駆動の塊が車道を走り抜けていった。

向かいの歩道には小さい子供とおそらくその母親が

手を繋いで歩いていて、

私の後ろを駆け抜けていった

車輪の付いた鉄筋の巻き起こした風が

首筋を撫でスカートを揺らした。

改めて街を観察してみると、

私の目には、

人間の作ったこの世界は酷く歪なものに映った。

暖かいはずの人間が、

こんなにも冷たい世界に生きている。

この街で生活を送っている多くの人間達は、

来る日も来る日も規則的に、

社会的な何かを生み出しては眠る。

まるで、彼らの一人一人が

使い捨てのネジやバネのようで、

世界は一つの、複雑で大きな機械のようだ。

そして、人間を機械のように変え、

動かす力の正体は、きっと恐怖という感情だ。

明日、死なないために、人間達は生きているのか。

「冷たい」

この世界を支配しているのは、

そういう冷たさだと確信した。

それが人間の本質だとすれば、

なんて救いようの無い世界なのだろうか。

冷たさを振りかざすことが正しくて、

人間が、本当に欲している

暖かさはこの世界では何の価値もない。

「みんな、苦しかったんだ」

私が呟くと同時に、音を立て

目の前に大きなバスが止まった。


 「咲凛花、今日、靴あるぞ!

持ってかれてない!」

「本当だ」

咲凛花は目を見開き、

信じられないものを見たような表情をしていた。

「でも」

その表情のまま、力無く呟いた。

「これが、普通なんだよ。

今までの私が、狂ってただけで」

「普通、普通ってなんだ?」

聞くと、咲凛花は首を傾げ言った。

「分からないけど、多分、

息吹も私も、普通ではないと思う」

「じゃあ、異常なのか」

「そういうことでも、無いんじゃない?」

「難しいな」

咲凛花は小さく笑い、

生徒玄関の靴箱から中靴を取り出した。

俺も、自分の分の靴を取り出し彼女の後を追った。

乾いた、新しい汚れの無い中靴を履いて、

俺達は並んで教室へ向かった。

咲凛花の横顔を盗み見ると、

これまでの彼女よりも纏っている雰囲気は

比較的明るかったが、

目に光が無いのは昨日から変わっていなかった。

「ねえ、息吹」

彼女は軽快に歩きながら聞いてきた。

「夏祭り、誰と行くの?」

「夏祭り?そんなんやってるのか」

「まさか、知らないってことあるんだ。

結構有名だと思うけどな、この街の夏祭り」

「俺、夏祭りなんて行ったことないぞ」

「じゃあ、いい思い出になるよ。

規模の大きい、花火大会で有名なんだ」

「へえ」

「で、それが今週の土曜日にあるんだけど」

「3日後か。お、夏祭りの日が命日なんだな」

ついうっかり、口から出ていた。

「ん、命日って、何?」

「いや、何でもない」

「そう」

話しているうちに教室の前に辿り着いた。

教室からは既に多くの同級生が

集まっているようで、

沢山の話し声が中から聞こえてきた。

俺は手を引き手にかけ、

一気に開けて中に入っていった。

その瞬間に、予想通り、同級生達の視線が

俺達を貫くように一斉に向けられた。

まるでそういう訓練を受けてきたかのように

統一されたその動きには

思わず美しさすら覚えてしまいそうになる。

が、何故か、その視線はすぐに散らばっていった。

「あれ?」

俺の後ろで咲凛花が不思議そうな声を漏らした。

リュックを下ろし、周囲を見渡してみると、

すぐにこの不可解な現象の発生源は見つかった。

「夕陽ちゃんが、休んでるの?」

「そう、みたいだが。何か変だ。

あいつの隣の席、夕陽だっただろ?」

「うん」

いつものように

人だかりが出来ている中心に大地の席があり

彼はそこに座っていて、

その隣には夕陽ではない別の女の子が座っていた。

「あの子は、多分、

夕陽ちゃんの友達、なのかな」

様子を見ていると、

大地が隣のその女子の肩に手を回し、

自分の元へ手繰り寄せた。

「あ」

そのまま、彼は女子の頬に唇を押し付けた。

女子も満更では無いらしく嬉しそうで、

彼らを取り囲む同級生達は歓声を上げている。

「おい、夕陽は、どうなったんだよ。

なあ、咲凛花」

言いながら後ろを向くと、彼女は恍惚としていた。

針で口角を吊り上げたような笑顔を浮かべながら、

べたべたと触れ合っている

彼らを食い入るように見つめている。

瞳に日光が反射して、その目の中に、

新しい光が灯ったかのように見えた。

「咲凛花?」

「天罰だよね!」

彼女は明るく言った。

「怖かろうが何だろうが、

犯した罪は許されないんだよ。

私の傷は治らない、心だって元には戻らない。

天罰だよ、天罰。

散々、私を痛めつけた、夕陽ちゃんへの」

「天罰」

脆さを感じさせるような優しげな声が聞こえ、

見ると、そのには菫の姿があった。

複雑そうな表情を浮かべ、立っている。

「菫ちゃん、どうしたの?」

咲凛花は高揚したような口調で聞いた。

「夕陽ちゃんが、咲凛花ちゃんに、

最後に伝えたいことがあるって。

伝言を預かってるの」

「伝言、ね。分かった。何て?」

「ごめんね」

「え?」

「夕陽ちゃんからは、それだけ」

「罪悪感から、逃げたいんだ」

咲凛花がそう言った瞬間に彼女の視線は揺れ動き、

分かりやすく動揺した。

「さあ。その、私からは、それだけだから」

菫は逃げるように自分の席に帰っていった。

そんな彼女を、咲凛花は楽しげに見つめていた。

俺は昨夜、

朔真から夕陽に何があったのか聞いていた。

彼女は大地らに騙されたのか、

結果的に彼だけでなく複数人に、犯されたそうだ。

それで、もう学校には来ない、と

本人が言っていたらしい。

咲凛花にもそれを教えてあげようか、

という考えが頭をよぎったが、やめた。

今の彼女がこの話を聞いたら、

あの歪んだ笑顔で、

喜んでしまうような気がしたからだった。

人は何故笑うのか、以前考えたことがあったが、

その問いの俺なりの答えが、

この時、弾けて導き出された。

「咲凛花、そんな顔をするな。

それじゃお前も、あいつらと変わらないだろうが」

「どういうこと?」

「2日前に、

一緒の傘に入って帰ったことあったろ?

あの時、昔の夕陽のことを

話しているお前は純粋で、

優しくて楽しそうだったよ。

お前に何の変化があったのかは分からないし、

もしかしたら今のお前が

本当のお前なのかもしれないけど、

俺は、あの時みたいなお前の笑顔が見たい」

咲凛花は心外そうな表情をして、

呆れたように言ってきた。

「私が傷つくのは間違ってるって、

教えてくれたのは息吹だったんだよ」

その目の光は俺の方を見つめている。

「私ね、

息吹の言葉を聞いてようやく気付いたんんだ。

優しさとか、思いやりとか、

そういうものでは、

人間は生きていけないってこと。

だから、怖くても戦わなくちゃいけないんだ。

人間同士が手を繋いで

仲良く生きるなんてことはありえない幻想で、

出来るだけ非情で現実的で、

強制的な力を使って

この世界に抗わなくちゃいけないんだよ」

「なら、せめて俺と咲凛花だけでいる時でもいい。

あの笑顔を見せてくれよ」

俺が導き出した、人間が笑う理由。

それはきっと、本当は人間は暖かいからだ。

純粋な笑顔は、

当人だけでなく周りの人間すら幸福感を与える。

初めは誰もが、笑顔が好きだったのだ。

だが、冷たいこの世界がそれを歪めてしまった。

人間の幸福感すらも

相手に与える印象を変えるための

道具に変えてしまうほどに、

この世界は、冷たかったのだろう。

「条件付きで、いいよ」

咲凛花は上目遣いで言った。

「私と、二人きりで夏祭りに行ってくれるなら」

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