変容 残り4日
ラーメン屋の中は、
黙々と麺を啜る音でいっぱいだった。
目の前では、顔よりも大きな丼に
入った特盛ラーメンを美味そうに食べている
私服姿の四葉の姿があって、
俺の手元に視点を移すと、
多量に油が浮いているラーメンのスープが
魅惑的な香りを漂わせていた。
お腹をさすりながら窓の外を見ると、
店に入る前は晴れていた空は黒い雲で覆われ、
地面に雨が激しく打ち付けていた。
壁に掛けられていた時計を一瞥すると、
時刻はもうすぐ午後六時を回ろうとしていた。
「そういやさ、朔真も傘持ってなかったよな?」
「ん」
麺を啜りながら四葉は首を縦に振った。
もし彼が学校帰りに
どこか遠くへ寄り道でもしていたら、
今頃はびしょ濡れになっている可能性もある。
お互い災難だな、と心の中で同情した。
コップを傾け水を口に含み四葉の方を見ると、
三日前より
少し肉付きがよくなっているような気がした。
「なあ、四葉。お前ラーメンばっかり食って、
ちょっと丸くなったんじゃないか?」
からかってやると、四葉は
麺を啜るのを止め、俺を鼻で笑った。
「知ってる?モデルみたいに細い女の子より、
私みたいに健康的な体つきの
女の方がモテるんだよ」
「よく知らないけどさ、
四葉のは健康的って
感じがあんまりしないんだよな。
このままいくとまずいんじゃないのか?」
「外国では、
ふくよかな体型の女の子がモテるから大丈夫」
「お前、咲凛花が死ぬより先に
外国行くことになるぞ」
「それもいいかもね。
何にしても、食べることはやめられないよ」
彼女はそう言って両手で丼を持ち上げ、
豪快にスープを飲み始めた。
「何かに取り憑かれてるみたいだな、お前。
そもそも、動物のする食事ってのは
栄養接種のためのもんだろ。
それなのに、どうしてお前は
そんな不健康そうなものばっかり食べるんだ」
スープを完飲し、丼を口から離した四葉は
不思議そうな顔をして
その油で光っている唇を震わせた。
「美味しいから?
いや、なんて言うのかな、この感情の動き。
美味しい、は純粋じゃないな。
気持ちいい、みたいな。
昨日、私がした性欲の自慰行為みたいな、
そういう中毒的な快楽が、
一日二食、私に特盛ラーメンを
食べさせているのかもしれない」
「なるほど。方向性は違うけど、
同じ本能的な欲求だしな。
感じ方も近くて、快楽を感じるのか」
四葉はテーブルの上に置いてあるティッシュで
口を拭き、水を勢いよく飲んだ。
水垢が目立つ透明な空になったコップを
静かに置いて、彼女は提案してきた。
「息吹もオナニーしてみれば?」
彼女の発言に、周りでラーメンを
食べていた客達が一斉に俺らの方を見た。
「やってみれば分かるよ、多分。
すごく、癖になるから、あれは。
知識だけじゃ、分かんないものもあるしさ。
もしどうしても不安なら、
私が相手になってもあげてもいいよ。
いや、それじゃダメか。
自慰行為にならないもんな」
腕を組み、淡々と話す四葉を見兼ね、
俺は忠告をすることに決めた。
「四葉。何でかは理解出来ないんだが、
人間の食事中には
そういう話をするのは非常識らしい。
昨日、本で読んだ」
「そうなんだ。不思議」
彼女は首を傾げながら、
俺の残したラーメンのスープに口をつけた。
会計を終え外に出ると、
雨脚はより一層激しくなっていた。
水っぽいような雨の独特の匂いと共に
コンクリートの硬い地面に
雨が打ち付ける音が俺たちを包み込んだ。
「息吹。走るよ」
「おう」
「3、2、1」
カウントが0になると同時に、
傘の一つも持っていない俺たちは走り出した。
屋根の外に出た瞬間から冷たい水滴が頭から
降り注ぎ、僅かな不快感を感じた。
「冷たい!」
四葉の声が後ろから聞こえてくる。
あんなに沢山の量を食べてしまえば、
人間はすぐには動けない。
腹痛に耐え、一生懸命走っている彼女の姿を
想像すると笑いが込み上げてきた。
止まることなく一目散に走り続けていると、
俺はすぐにアパートの前まで辿り着いた。
後ろを振り返ると、
ずっと後ろに激しい雨に打たれながら
腹を押さえ歩く四葉の姿があった。
「はあ、仕方ねえな」
俺は今来た道を走って戻り始めた。
四葉の下へ近付くと、
彼女は思っていたよりも深刻そうな顔をして
腹を押さえていた。
「おい、食いしん坊。大丈夫かよ」
聞くと、
彼女は小さくその場に蹲り口を開いた。
「私は、ここまでみたいだよ」
「食い過ぎで死ぬのってみっともなくないか?」
「なんか、カッコ悪いかもね」
「はあ、全くお前は」
俺は彼女の脇の間と膝に手を潜らせ、
お姫様抱っこのように持ち上げようと力を入れた。
「いや、重いな、お前。結構辛い」
腕に予想以上の負荷がかかり、
アパートまでの道のりが
一気に遠くなったような気がした。
「悲しい現実の話をしよう息吹君。
これでも私は、中学生女子の
平均体重を切っているんだ」
「重すぎんだろ、女」
「息吹に力が無いんだよ。
ほら頑張って、男だろ?」
「うるせえな」
彼女を抱え、
俺は一歩ずつ慎重にアパートへ向けて歩き出した。
「重かった、本当に重たかった」
俺は部屋の前で四葉を下ろし言った。
「ありがとう息吹、運んでくれて。
でも次重いとか言ったら殴るからね」
笑いながら、彼女はドアの鍵を開け中に入った。
入るなり、
俺らは着ていた服を洗濯機に放り込み、
タオルで体の水分を吸い取り始めた。
「傘さえあれば、雨も嫌いじゃないんだけどな」
軽く頷きながら、四葉は
長い髪を撫でるようにタオルを当てていた。
「確かに、悪くはないね」
不意に、四葉は聞いてきた。
「そういえばさ、結局どうするの?」
「どうするって、何がだよ」
「ラーメン屋で言ってたじゃん。
オナニーしてみる?」
少し考え、俺は答えた。
「やれんならやってみてもいいんだけど、
特別やろうとも思えないというか。
何だっけ、精通っていうのか。
この体にはそれが来てないのかもしれない」
「したくないならそれはそれで良いかもね」
四葉は自分自身の体を見つめた。
「でも、性に関することって人間、
いや動物にとって大切なことだと思うからさ。
子孫を残したいっていうのは本能だし。
だから、人間を理解するためには、
自慰もセックスも必要なのかもな、とは思ってる」
俺は湿ったタオルを洗濯機の中に投げた。
「俺の体はまだ未熟らしいし、
そういうこと本当に分からないんだよな。
性に関しては朔真とお前に任せるしかない」
四葉は悪戯な笑みを浮かべた。
「朔真君は朔真君で、
私達とは違うものを体験してるからね。
貴重な存在だよ」
「違うものって?」
聞くと、彼女は楽しげに答えた。
「多分恋だよ、恋。昨日言ってたじゃん。
菫ちゃんから、
息吹には分からない甘い匂いがするって」
「甘い匂いがすることが恋なのか?」
「分からないけど、
少なくとも、朔真が菫ちゃんを異性として
意識してるってことは確かだよ。
朔真が甘い匂いだと思っているものは、
菫ちゃんの雌のフェロモンだよ、フェロモン」
思わず首を傾げながら、俺は言った。
「まあ、俺らと違うことを
体験していることは明確だしな。
確かに恋っぽいかもな。知らねえけど」
四葉は下着を脱ぎ、これも洗濯機に入れた。
露わになった彼女の肉体を観察してみたが、
特に何の感情も浮かんでこなかった。
「実は、菫ちゃんと
朔真君は恋人同士になったって話もあるんだよ」
「へえ。まあ、あいつは頭良いし、
何を思っての行動かは分かんないけどな」
「それは、そうだけどね」
彼女は苦笑いをした。
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