追求 残り5日

今日の復習と明日の予習を終えると、

集中していて気づかなかったが

部屋の中は薄暗くなっていた。

時計を見ると時刻は六時半を示している。

急いで制服を脱ぎ半袖短パンになると、

私は部屋を出て階段を降り、リビングへ向かった。

がさがさと何かが

動き回っている音が部屋の中からしていた。

リビングへのドアの前に立ち、

私は一度、呼吸を整える。

ゆっくりと仮面を被り、心を落ち着かせた。

「お父さん」

呼びながらドアを開けると、

彼は涙と鼻水でべったりな顔を

しわくちゃに歪めて

部屋の中を行ったり来たりしていた。

「ごめん、ごめん、許してくれ!許してくれ」

突如として落ち着いたり興奮したりしながら

ぶつぶつと何かを呟いている。

見ると、

彼は私が帰ってきた時と同じスーツを着て、

仕事用の鞄を手にしていた。

「お父さん。仕事、いかないの?」

優しく、小さい子供を諭すように言うと、

お父さんは私の姿を急にじっと見つめ始め、

そのまま十秒ほど経った。

「夕陽」

彼は掠れた声で私の名前を呼んだ後、

私の足元に近づき土下座をした。

これで何度目だ。

小さく丸まり頭を下げる

お父さんの姿を見下すのにも慣れてしまった。

特に何の感情も浮かんでこない。

「ごめん、ごめん夕陽!俺がこんなんだからお前には苦労ばっかりさせて、髪だって染めてグレて、

あいつにも逃げられて。

ごめん、本当にすまない。

許してくれ、許してくれ」

私は屈み、

お父さんと頭の位置を同じにして言った。

「大丈夫だよ」

「すまない、本当にすまない」

彼はそう言って私を抱き寄せた。

お父さんの顔が

私の腕の付け根あたりに押し付けられて、

ドロドロとした体液が付着し不快感が襲った。

「大丈夫、大丈夫だよ」

お父さんの頭を撫で、そう言った。

「ごめん、お父さん。仕事、行ってくるから」

彼は私から離れて力強く宣言した。

「うん。いってらっしゃい」

促すように手を振ると、

お父さんはリビングから出て行き、

それから玄関の開く音がした。

「はあ、疲れる」

仮面を脱ぎ捨て、ソファに寝転んだ。

部屋には酒を飲み散らかした跡と、

数年前から変わらない内装、

そして私が残された。

試しにウイスキーの瓶に残っていた液体を

コップに入れて飲んでみると、

喉が焼けるように熱くなって嘔吐した。

私はまだまだ大人にはなれないのだと悟る。

部屋の電気をつけて、掃除を始めた。

時刻は八時を回った頃、

ようやく全ての部屋の掃除が終わった。

綺麗に整頓された部屋の中を見渡すと、

達成感や快感と共にまた汚されるのだろうと、

私のしたことに意味はあったのかと

心の中に黒い何かが差し込んでくる。

リビングに戻り冷蔵庫を開け、

今夜の夕飯をどうするか悩み始めた。

結局、何か作る気力も湧かず食パンを

二枚皿に乗せてテーブルへ持っていった。

ソファに座り、

あまりにも質素な夕ご飯と向かい合う。

その瞬間に、

心の中に何か黒いドロドロとしたものが

激しく蠢き、そのうちに暴れ出した。

「どうして、どうして」

感情が溢れ出るように、無意識に言葉が漏れる。

突然、私は金切り声を発した。

「どうしてなの!」

すると、

「え」と外から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

見ると、

掃除の時に開けた窓が開けっぱなしだった。

急いで窓を閉めて、私は食パンに齧り付いた。

安物の食パンはぱさぱさとしていて飲み込めず、

いつまでも口の中に止まり続ける。

ようやく二枚食べ終えても、

私はまだ空腹のままだった。

食パンをもう一枚食べる選択肢はあったが、

これ以上食べると

喉が詰まって死んでしまいそうだと思いやめた。

ソファに横になり、目を瞑る。

気づかないうちに溜まっていた疲れが

どっと押し寄せて、私は夢を見ることができた。

夢が途切れ、私をこの世に呼び戻したのは

インターフォンの音だった。

「こんな、時間に?」

玄関に行って覗き穴を見ると、

そこには白い箱を持った薺さんが立っていた。

「こんばんは、薺さん」

ドアを開け言うと、

薺さんは「こんばんは、夕陽ちゃん」と返した。

エプロンをつけ、ジーンズを履いている彼女は

おそらくお店を閉めてすぐ来たのだろう。

よく見ると、生クリームのような白いものが

エプロンのお腹あたりについている。

「突然だけど、これ」

彼女はそう言って白い箱を差し出してきた。

受け取り蓋を開けてみると、

箱の中は宝石のような

キラキラとした輝きでいっぱいだった。

「わあ」

箱の中には、

色鮮やかなケーキがぎっしりと詰まっていた。

甘い匂いと可愛らしいケーキ達の造形は、

深海に沈められたように落ちていった私の心を

魔法のように救ってみせた。

「これ、いいんですか!」

と聞くと、薺さんはにっこり笑った。

「うん、いいよ。

どのケーキも楓君、いや、私の、

恋人が作ったレシピでね、どれも美味しいよ」

「ありがとうございます!」

きっと私は、この瞬間だけは

純粋な少女のように喜んでいた。

ふと我に帰り、聞いた。

「でも、どうして?どうして、薺さんは

私にこんなにケーキをくれるのですか?」

「うーん、それはね」

腕を組み、少し考えたあとに言った。

「私の気まぐれってことで」

「気まぐれですか」

「そう、気まぐれ気まぐれ。

だからね、夕陽ちゃん」

薺さんは真っ直ぐに私の目を見た。

彼女の人間離れした整った顔が目の前にあって、

その唇が繊細に動いた。

「大丈夫だよ」

頭を優しく撫でられた後、

彼女は私から離れて「じゃあね、おやすみ」

と笑って見せた。

「おやすみなさい」

と返すと、薺さんはお店の中に入っていった。

私も家の中に入り玄関のドアを閉じて、

リビングに行きテーブルの上に

ケーキの箱を置いた。

深くソファに腰掛け、溢れ出しそうな涙を堪える。

私は気づいていた。

薺さんは、本当は私の事を心配して、

急ぎケーキを作ってきてくれたのだろう。

箱と一緒に入っていたプラスチックの

スプーンを手に取って、

白い生クリームに可愛い苺が

乗ったショートケーキを一口食べた。

生クリームの甘さが、私の心に溶けていった。

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