1-3 独りぼっち、同志
月の光が真っ暗なダイニングキッチンに差し込まれた。
霧雨、否、安藤翔梧は自らの幼い手が血に塗れていることに驚いた。彼の目の前には、血の床に横たわる両親と妹がいた。
「僕、ぼく、どうして――――」
戦慄いて顔を埋めた時、彼は視界の端に異物を捉えた。てけてけと細長い足を奇怪に動かして、暢気に血の海を泳いでいる。
「うちゅう、じん……?」
彼が認識した次の瞬間、翔梧は普段なら到底出せないような、俊敏な動きで近くにあったジャム瓶を異星人に被せ、慎重に蓋を閉めた。
苺の酷く甘ったるい香りと錆びた血の匂いが混ざり合って、翔梧を襲う。
「おえぇええぇえええ」
吐瀉物を吐き出したあと、彼は口元を乱暴に拭いながらすっくと立ち上がった。本当は今すぐにでも死んでしまいたかった。だが、それと同じくらいに恐ろしい予感が己の中に立ち込めていたのだ。もしもその推測が真実であるのなら、彼には家族と共に死ねる権利はない。
彼は震えながら夜の街を歩いた。どこに行くべきであるのかは本能が分かっていた。それすらも推測の証明のようで彼の孤独な恐怖は膨れ上がった。
そう、しとしとと霧雨が降っていた。だから彼の肌には濡れた服が張り付いて、身体の熱を奪っていった。それなのに、寒さで震えることも、くしゃみ一つを出すことも今の翔梧には出来なかった。
そして一晩中歩き続けた後、重たいジャムに押しつぶされた異星人を片手に彼はEBE対策特殊部隊・日本支部の扉を叩いたのであった。
「おい、何があった!」
扉を開けた隊員はとても驚いていた。それも当然のことだろう。まだ幼い寝巻き姿の子どもがこんな時間にやって来る理由など、喜ばしいものでないことだけは明白なのだから。
彼は恐怖に足を震わせながら、それでもジャム瓶を掲げてしっかりと告げた。
「僕、宇宙人に乗っ取られたかもしれません」
こうして、翔梧は急遽検査を受けることになった。そして、検査結果として安藤翔梧の脳内に寄生虫型異星人が入り込んだ形跡が見られたのであった。
次に通された長官室で翔梧を待っていた人物こそ、朝倉千鶴その人だった。
「初めまして」
十五歳という史上最年少の若さで長官の座に君臨した彼女は、翔梧に向けて柔和な笑みを見せたのであった。しかし、千鶴の笑顔も虚しく翔梧は緊張を崩さず、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「僕が、殺したんでしょうか」
つぶらな瞳で千鶴を見上げた翔梧の姿は死刑宣告を受ける罪人のようでもあり、教会で祈りを捧げる敬虔な信徒のようでもあった。
千鶴は跪いて、彼の小さな身体を抱き締める。ふわりと温かな体温が翔梧の冷え切った心に注ぎ込まれてくるのが分かった。
「それは違う。寄生虫型異星人が君を操ったんだ。そこに君の意思は介在していない」
温かさに包まれて、ようやく翔梧は初めて嗚咽を漏らした。それは愛する家族に向けた弔いの涙だった。
「……う、うぅ。う、わぁぁぁぁあ‼」
千鶴は、しがみついた翔梧の柔らかな背中を優しくあやすように叩いた。翔梧の涙が枯れ果てるまで、彼女は彼を抱き締めたままであった。
その後、翔梧は母方の祖父母に引き取られることになる。だが、幼い翔梧を待ち受けていたのは人権の失われた日常だった。それは子どもであった彼にとって安易に絶望を感じさせる毎日でもあった。
愛する家族を殺した者に向ける憎悪の眼差しだけならまだ耐えられたのかもしれない。しかしながら、異星人が体内に入り込んだ人間を他者は同種族であるとどうしても認めたくないらしい。憐憫を含んだ顔は翔梧を引き取った初めのうちだけであった。次第にその感情は言葉の通じない怪物に向ける恐怖へと変化していったのだ。
そうして二年もの間、翔梧は親戚の家を渡り歩いた。その中に、翔梧のことを千鶴と同じように人間として存在を認めてくれた人物は終ぞ現れなかった。
その次の年の春。彼は再びEBE対策特殊部隊・日本支部の扉を叩いた。今度は自身を怪物へと貶めた異星人への報復者として。
そのとき、翔梧の身元引受人として名乗りを上げたのが千鶴だった。彼女は部下を手に入れた一方で、研究対象として翔梧を明け渡さなかったことにより降格処分を受けることにもなった。
幼稚な仄暗い喜びと罪悪感を抱え、翔梧は千鶴の元で「霧雨」として生きることにした。その名前には、彼が人間であることを放棄した意思と異星人への報復を決して忘れない決意が孕まれていた。
霧雨として生を受けてから約十年も過ぎると、異星人に寄生されたことにより色の抜け落ちてしまった白髪や白濁色の瞳にも慣れてくるものである。そんな折、千鶴に連れられてやってきた正真正銘の異星人こそが、まさにシュウであった。
霧雨がシュウと対面した時、まるで昔の自分を見ているようだと思ったことをよく覚えている。
シュウの鋭く尖った指先が異星人たちに突き刺さる。牙の生えた口が、唾液を滴らせながら咆哮を生み出す。その真っ黒な瞳に映る世界に果たして光はあるのだろうか。
霧雨は、シュウの戦闘を静かに見守っていた。そして、彼が最後の一体を両手で引きちぎった時、霧雨はすとんと理解した。
――――あぁ、そうか。私と彼は同じだ。独りぼっちの異星人なのだ。
霧雨はシュウに嫉妬を抱いていた。自分と同じように周囲から忌み嫌われてきたはずなのに、それも地球人ではないくせに、どうして千鶴と対等に笑い合えるのだろう。どうして、きらきらと純粋な好奇心に満ちた瞳をこの薄汚れた惑星に向けられるのだろう。
「貴方はいつもそうです。私の理想を全て攫ってしまう……」
オーバーヒートの解けたシュウが、どさりと硬い地面に倒れ込む。霧雨の足がシュウの元へと向かった。
純潔な異星人である彼こそが霧雨の弱点(コンプレックスス)であり、憧れでもあった。そのことに、霧雨はようやっと気が付いたのであった。
霧雨の腕がシュウの身体の下に差し込まれ、そのまま彼を軽々しく抱き上げた。今にも泣いてしまいそうな表情で、霧雨はシュウを見つめた。
「馬鹿なことをしたものですね。……貴方にそんな弱った姿は似合いません。永遠に、私の憧れでいてもらわなくては」
――――無鉄砲で、純粋で、まるで地球人の幼児のように脆くて危うい彼を、私は守る必要があるのかもしれない。
霧雨は初めて芽生えた感情に戸惑いながら帰還する足を早めた。とにかく今は、一刻も早くシュウを無事医務室に届けなければ、と。
霧雨は長官室に来ていた。本日のミハイルはナポリタンを食べている。
「何か用かな?」
口の周りをオレンジに染めたミハエルが問う。霧雨は真剣な目で彼に伝えた。
「例の件ですが、お断りします」
ふぅん、とつまらなさそうに呟いて、それからミハイルは不敵な笑みを浮かべた。
「どうなっても知らないよ? 御上からのお願いを断ったってこと、いつ火が吹くか、見ものだねぇ」
しかし、あくまでも霧雨は冷静だった。
「ご心配なく。何が起きても、彼を守る覚悟は出来ましたので」
澄ました表情でそう告げたあと、綺麗な敬礼をして霧雨は長官室を出て行った。そんな彼の背中を見てミハイルは口を尖らせた。
「つまんないの……ねぇ、ちづちゃん?」
ミハイルは通話したままの個人用端末をポケットから取り出した。
「良い弟子を持ったねぇ。羨ましい限りだよ」
「べっ、別に⁉ 弟子とかではないけどね!」
画面越しに、ふんっとそっぽを向いた千鶴の耳が赤く染まっているのを確認して、ミハイルは柄にもなく微笑んだ。
だが、千鶴はすぐに真剣な表情に戻り、口を開いた。それは誤魔化しを一切許さない、強い口調であった。
「それより、霧雨に渡した錠剤は本当にただのビタミン剤だったのよね?」
ミハイルはナポリタンを一口啜ると、もぐもぐしながら答えた。
「それはもちろん。無理矢理オーバーヒートさせる薬を作る、なんて研究自体ないし。シュウくんのためだけにそこまで割く予算もないでしょ」
「それなら、シュウがオーバーヒートしたのは……」
「そう、紛れもなく彼自身の意思によるものだろうね。何が彼をそうさせたんだろう。……ま、何はともあれ、良いデータが手に入ったよ」
にこにこと上機嫌なミハイルの思惑は、いつだって不透明だ。
「はぁ、相変わらず腹の底が見えないわね」
「そりゃあ、どうも?」
「褒めてないわ。でも、ありがとね。私の頼みを聞いてくれて」
「ちづちゃんはやっぱり甘いよね。部下の本心なんて知らなくても、部下同士が理解し合えなくても、活動自体に問題は起きないのにさ?」
カチャカチャとフォークが皿を滑る音が響く。千鶴は唇の下に指を当てて、悩ましげな表情になる。
「うーん、でも、私はやっぱり二人には仲良くいて欲しい。だってそれがチーム、でしょう?」
「ふふ、やっぱり変だねぇ、ちづちゃんは」
ナポリタンをさらに一口頬張るミハイルに、千鶴がぴしゃりと言い放った。
「ところで、こんなすぐに雑魚敵が出没なんて話、よく出来ているとは思わない? それに、予算がなくてオーバーヒートの薬を作れない研究チームでは、地球製異星人の発明を進めているらしいじゃない? そのことについての説明はないのかしら」
問い詰める千鶴にミハイルは長いまつ毛をばさばさと瞬かせて、首を傾げた。
「ん? なんのこと?」
千鶴は頭を抱えて、溜息を吐いた。
全く、どこまで行っても一枚岩ではないらしい。ミハエルも、この組織も。まぁ、シュウのオーバーヒートだけで事が済んだことを良しとするしかない。少なくとも、今は。
「おーい、早く来いよ! 霧雨!」
シュウが大きく手を振って霧雨を呼ぶ。彼はやれやれと呆れたように、けれどもどこか楽しそうに嬉しそうに不満を垂れる。
「全く、どうしてあんなにも元気なのでしょう。朝倉さんも、よく付き合っていられますね」
「いいじゃない。今日くらい無邪気に遊んだって」
千鶴は霧雨の頭をわしゃわしゃと少し乱暴に撫でた。
「乱れるじゃないですか……」
視線を逸らした彼の表情は喜びに溢れていた。こんなやり取りはまるで親子の戯れのようで、霧雨は震える心が落ち着くのをじっと待つ。そんな柔らかな空気に落とされたのはシュウの快活な声だった。
「早く早く! じぇっとこぉすたぁ? ってやつ! 乗ってみてぇんだよ!」
痺れを切らしたシュウが二人の手首をがしりと掴んだ。
「よぉし、いっくぞー!」
それから、目にも止まらぬ早さで遊園地のゲートを通り抜けて行ったのであった。
「あはは!」
声を上げて笑ったのは、紛れもなく霧雨の方である。
やけにすっきりとした清々しい心で、彼は晴れ渡る蒼穹を仰いだ。今の霧雨にはこの先に続いていく道筋がくっきりと見えていた。
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