茨の国のアリサ

鷹山トシキ

第1話

 アリサは1990年5月9日、茨城県水戸市に生まれた。

 1990年はこんなことが起きた。バブル景気最後の年である。翌年には土地バブルも崩壊し、平成不況へと突入していく。

 チノパンやPコート、ダウンジャケット、女子高生スタイルが流行する。

 スーパーファミコン(任天堂)やキリン一番搾り生ビール(麒麟麦酒)が発売されヒット、ロングセラーを記録する。

 水戸市は水戸徳川家所縁の地であり、水戸黄門(徳川光圀)や偕楽園が知られている。毎年2月には水戸の梅まつりが、8月には水戸黄門まつり、9月には水戸萩まつりが開催される。明治時代以降は納豆(水戸納豆)の生産が盛んになった。


 中心部を含む市域の大部分は旧茨城郡(1878年〈明治11年〉より東茨城郡)であり、茨城県の名称は県庁が茨城郡水戸に置かれたことに由来する。

 関東平野の東側に位置し、茨城県の県央地域に区分される。

 那珂川の周辺は低地となっているが、それ以外は台地が広がっている。日本初の水道専用ダムの楮川ダムがある。


 2007年4月1日、アリサはあと少しで17歳になろうとしていた。

 新潟市(新潟県)及び浜松市(静岡県)が政令指定都市となった。

 つくば市(茨城県)、太田市・伊勢崎市(群馬県)、長岡市・上越市(新潟県)が特例市となった。

 UFJニコスとDCカードが合併し、新会社「三菱UFJニコス」が発足。

 これ以降発売の第三世代携帯電話へのGPS搭載義務化。

 西鉄宮地岳線・西鉄新宮駅〜津屋崎駅間9.9 km、 

 0時20分津屋崎駅発の最終臨時電車運行をもって廃止。営業を続ける貝塚駅〜西鉄新宮駅間はこの日の始発より西鉄貝塚線と名称を変更。


 関西の私鉄で導入されているICカード乗車券PiTaPaが、近鉄、京都市営地下鉄、京阪電気鉄道大津線、神戸電鉄、奈良交通、エヌシーバスの各社で新規導入され、新たに滋賀県、奈良県と、三重県および名古屋市の東海エリアに利用地域が拡大。

東京都港区赤坂に完成した新衆議院議員宿舎の入居開始。


 内閣府に地方分権改革推進委員会及び公益認定等委員会が発足。


 モーターボート競走法改正。


 両備バスと両備運輸が合併、両備ホールディングスが誕生。


 20世紀生まれの幼稚園児・保育園児はいなくなる。


 叔父で、童話作家の一平いっぺいがクイーンと呼ばれる大洗にある貴婦人、宇喜多恵美うきたえみの邸宅に招かれ、彼らが集めた民話集を読んだ恵美から『つくばの勇者・鬼右衛門おにえもん』が気になると言われる。一平は勇者や洞窟が登場する童話を信じる人もいると一笑し、恵美は和美という名の美しい女性の肖像画を紹介しながら『ブーツ』を見せる。和美のブーツだといい、話が始まる。


 1982年、和美の母親は幼い頃に亡くなり、『佐竹氏の野望』を読めといってくれた父も富豪の娘、霧子きりこと再婚してすぐに死んでしまう。残された彼女は以後10年間、義母の久美子と、義姉妹の景子と香美から召使い扱いされる日々を送っていた。そんな和美はある日、政略結婚を迫られ城を抜け出した佐竹才蔵と出会う。召使いが奴隷に売られるのを助けようとしている時で『佐竹氏の野望』を引用する。名前を聞かれた和美はとっさに亡き母の名前である静香と名乗る。恋に落ちた佐竹才蔵は城を訪れていた白魔術師の須藤誠一に「自分で運命を動かすのだ」と激励される。ワープロやティラミスなど新しいものが好きな才蔵で、帝王になりたくないとも思っていたが「特権を持つ者には義務も課せられる」という情熱的な和美に影響され、大学や図書館を建て茨城国民に解放するといった考えまで持つようになる。和美は身分を隠したまま何度も佐竹才蔵と会うが、本当の境遇を告白する機会を失ったまま佐竹才蔵の結婚相手を発表する仮装舞踏会の日を迎えてしまう。


 仮装舞踏会当日、和美は佐竹才蔵との関係に気づいた久美子によって閉じ込められていた。須藤誠一に助けられた和美だったが、身分違いの恋を「戦国時代の豊臣秀吉はお市に思いを寄せていたが、お市はゴミみたいにしか思ってなかった」とあきらめかけていた。須藤誠一から「ピアスをあげる」といわれ、勇気を取り戻した和美は母親が残した結婚衣装を着て、両耳にピアスをつけて舞踏会に現れる。婚約発表に間に合った和美だったが、久美子にピアスをなじられ、召使いであると暴露される。傷ついた佐竹才蔵は彼女から離れ、和美はまたもとの生活に逆戻り。親子ほどの差がある商人、蘇我に父の遺品と交換で売られる。佐竹才蔵は結婚式で、妄想の中、洞窟で泣き叫ぶ和美を見て、自分が本当に愛しているのは彼女だと気づき、彼女の救出に急いで向かう。その頃和美は父から鍛えられた剣技があると暴漢の田村忠治を脅し、洞窟から自力で脱出していた。救出に来た佐竹才蔵は舞踏会でのことを謝罪し、彼女がほしがっていたブーツをプレゼントする。その後、佐竹才蔵と結婚した和美は、末長く幸せに暮らす。


 4月4日

 金融庁、三和ファイナンスに対し、違法な取立てを行った貸金業法違反に対する罰として、全店舗4月23日から6月4日の43日間、問題のあった店舗については最大66日間の業務停止命令。

 東京都内で1973年に、日本人の母親と、北朝鮮籍の6歳の娘、3歳の息子が失踪した事件で、2人の子供を北朝鮮による拉致被害者と認定。

 真冬並みの寒気の流れ込みの影響で、鳥取市沖の日本海で竜巻発生。東京都心では、4月としては1988年以来19年ぶりとなる雪を観測。


 水戸市でレストランを営む津田家は幸せの絶頂にいた。父・哲也が経営するレストランは順調そのもの、長女・俊子は結婚間近、次女・ アリサは美術部で活躍していた。

 三女・夏美は中学の陸上部で活躍の上、同じクラスの虹彦への恋心を募らせていた。

  

 4月7日、俊子の結婚式当日、結婚前に付き合っていた父の一番の取引相手の沼猫弘を庭で見かけたがすぐに沼の姿は消え、安心したまま結婚式を続けた。結婚式後、家を出る俊子に部屋を譲ってもらうよう交渉した夏美は自身の部屋を持つようになる。


 しかし、4月10日……沼が自分を裏切った俊子への復讐をしに家に忍び込み、俊子の寝室に寝ている夏美の顔に硫酸をかけてしまうという惨劇が起こる。沼は更に止めに入ったアリサや夏美の母を斧で殺害して、哲也に射殺される。


 夏美は硫酸を顔にかぶって重傷を負い、「現代の医学ではこれが限界」と包帯が欠かせない顔になってしまった。それを機に町では噂が広がり、夏美は疎外感を持ち、正当防衛とはいえ唯一にして最大の顧客を失ってレストランは立ち行かなくなり、津田家は一転不幸のどん底に転落する。


 4月12日

 ガス器具メーカーハーマンプロ、同社や大阪ガスが販売した同社製組み込み型食器洗い乾燥機で発火1件を含む185件の不具合が発生したため、約2万台を無料点検修理することを発表。


 日産自動車が「セレナ」11万2999台、マツダが「ボンゴ」など4車種5417台、ヤマハ発動機が二輪車「グランドマジェスティ」1万3870台のリコールをそれぞれ発表。

  

 宮崎県警、宮崎県議会選挙に出馬した自身の息子を当選させようと現金買収を行ったとして自民党宮崎県連会長を逮捕。容疑を認める。自民党の地方組織では1月の茨城県連副会長に次ぐ買収容疑での逮捕。


 福岡ドームおよび周辺施設を含むホークスタウンが、3月8日付でコロニー・キャピタルの特定目的会社からシンガポールの投資会社に売却されていたことが判明。運営は株式会社ホークスタウンが継続。

日中ハイレベル経済対話発足。


 東京から野原晴之のはらはるゆきって旅人が水戸市にやって来た。

 太平洋側気候の三陸・常磐型と東海・関東型の中間的な気候である。夏はオホーツク海気団からの北東気流の影響で最高気温は低めで、真夏日日数は33.6日と関東甲信越以西の県庁所在地では最も少なく、山形市より少ない。また、熱帯夜もほとんどない。


 冬は晴天が続き、最高気温は関東以西の平均的な値で日中は暖かいが、大平野の中の都市のため放射冷却現象が強くなり易く、朝晩は冷え込みが厳しい。冬季の平均最低気温は東北南部の仙台市や福島市より低い。強い寒気の元南岸低気圧が通過すると雪になるが、関東地方の中では極端な大雪になりにくい方である。冬の朝晩の冷え込みが強い他は全国的に見ても穏やかな気候と言える。

 

 晴之は水戸城にやって来た。

 水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城である。北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。台地東端の下の丸(東二の丸)、から西に向かって本丸、二の丸、三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。城郭は主に土塁と空堀で構成された戦国期東国の典型的な城である。


 城の歴史は平安時代まで遡り、当初は馬場氏の居館が現在の本丸付近にあったと考えられている。その後、馬場氏を追いやった江戸氏が水戸城を居城とした。江戸氏の時代には二の丸か築かれ、現在の本丸が内城、二の丸が重臣の屋敷地などになったとされている。1590年、小田原参陣の功により所領安堵を得た佐竹氏は水戸城を強襲し、江戸氏は滅亡した。佐竹氏は本拠を太田城から水戸城に移し、水戸城は常陸国主佐竹氏の居城となる。佐竹氏時代に、三の丸、二の丸、本丸、下の丸が連なる、現在の縄張りの基礎ができたと考えられている。佐竹氏は関ケ原の戦いで中立を守ったことで秋田に転封となり、徳川家の城として水戸城には武田信吉が封じらた。しかし信吉は翌年嗣子なく急死した事から、徳川頼宣が封じられ、以後御三家(水戸徳川家)の居城として明治を迎える。同じ御三家の尾張藩の名古屋城、紀州藩の和歌山城と違って戦国遺風が濃い連郭式の城である。水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名であったため、水戸城が藩主の居城として使われることは少なく、城内の建築物は質素であった。


 江戸時代の御殿は、二の丸に現在の茨城県立水戸第三高等学校と茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園にまたがる形で存在した。三の丸には藩校などがあり、本丸は主に倉庫として使用されていたとされる。本丸を中心として使用していたのは江戸氏の頃とされる。江戸近隣の城は江戸幕府に憚り天守建造はしないが、それは御三家の水戸も例外ではなかった。しかし、外見は三層、中は五階建ての御三階櫓と称す大型の櫓があり天守閣の代用とされた。御三階櫓は明治の解体を免れたが、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、以後再建されていない。


 三の丸付近が城址として整備されており、土塁・空堀が現存している。三の丸には水戸藩藩校であった弘道館(国の重要文化財、特別史跡)が現存しており、弘道館の西側には旧茨城県庁舎が建っている。また、薬医門(茨城県指定有形文化財)は銅板葺に変更されたものの現存しており、現在は旧本丸にある茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校に移築されている。この門は佐竹氏時代の建物と言われており現存する水戸城の建物で最古のものである。


 現在の城跡は文教地区となっており、立ち入り禁止のエリアが多い。水戸一高の他、水戸三高、水戸市立水戸第二中学校、水戸市立三の丸小学校、茨城大附属小・幼稚園が建っている。三の丸小学校は校門や塀、校舎の多くを和風にしている。


 明治期に二の丸と三の丸の間の堀は道路用地(県道232号市毛水戸線)、本丸と二の丸の間の堀は鉄道用地(JR水郡線)になった。


 水戸城の御三階櫓の初代は「三階物見」と呼ばれる三重櫓であり、1764年(明和元年)に焼失した当時は銅板葺であったが、以前は茅葺であり極めて簡素であったという。焼失後、1766年(明和3年)に再建され三階櫓という実質上の天守となった。2代目の御三階櫓は、外観3重内部5階の最上重の入母屋以外の破風のない層塔型で、櫓台はなく、地面に敷かれた礎石の上に建っているものであった。下の部分、一階二階部分は海鼠壁であり、三階四階五階部分が白壁で、外見は三層、中身は五階であった。昭和戦前期までは残っていたが、1945年(昭和20年)8月2日の水戸空襲により焼失した。なお、空襲等太平洋戦争の戦災で焼失した天守相当の建築のうち再現されていないのは現在は水戸城だけである。


 

 築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年 - 1198年)に築かれたとされる。以後、大掾氏(馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。


1416年(応永23年) 室町時代に入り、上杉禅秀の乱で、当主の大掾満幹は上杉禅秀側に加担したが、足利幕府側についた江戸通房に敗れた。これにより、代わって江戸氏が新城主となり、その支配は以後7代(約170年間)続いた。以後、江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立する。


 1427年(応永34年)[2]大掾満幹が鹿島社の青屋祭に奉仕するために常陸府中(石岡)に向かった隙を突いて、江戸通房が水戸城を占拠する。

 1510年(永正7年) 通雅・通泰の父子は主家と同格の地位を得た。

 1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸重通は北条氏側に加担し、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣した。これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられた。義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、1594年(文禄3年)に重通を敗走させた。

 義宣はそれまでの居城であった太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。ところが、佐竹義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、1602年(慶長7年)には徳川家康によって水戸から追放され、出羽国秋田に転封させられた(久保田藩)。


 同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させたが、翌1603年(慶長8年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。


 1609年(慶長14年) 頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。頼房は城と城下町を拡充して二の丸に居館を構えた。天守と称するものは幕府に憚って構えず、破風などのない、巨大な三階櫓(内部は5階建て)を二の丸に建造した。また、櫓・多聞(長屋)も極端に少なく塀を多用したが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表している。藩校の弘道館は1841年(天保12年)に9代藩主の斉昭によって開かれた(斉昭は翌年の1842年(天保13年)に日本三名園の一つである偕楽園を城の西部に開いている)。


 幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。1864年(元治元年)、遂に天狗党が筑波山で挙兵して天狗党の乱が起こった。この対立は明治維新まで続き、1868年(明治元年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この際に城内の多くの建物が焼失した。


 4月13日

 衆議院本会議で、自民・公明党の賛成多数で国民投票法案が可決。同時に米軍再編推進法も衆議院本会議で可決。

 

 経済産業省、京都議定書目的達成のため、二酸化炭素排出権合計638万トン分を、丸紅など国内外民間企業5社から取得する契約締結。

   

 森永製菓、同社が販売するスペイン製キャンディ「チュッパチャップス」にポリエチレン樹脂片が混入していたため、240万本を自主回収。

 

 金融庁への報告で、2001年から2005年の5年間に、生命保険大手12社合計で約25万件、284億円余りの不払いがあったことが判明。


 23歳の柊冬彦は婚約者をテロで亡くし、テロ組織に報復する為組織に独自潜入しようとしていた。冬彦の存在を知った公安の副長官・辺見蛍は、彼を『スパロウ』って暗殺組織にリクルートする。冷戦期に活躍したベテラン、万城目満の指導の下準軍事要員としての訓練を受け、冬彦と万城目は無差別連続テロ事件の捜査に当たる事になる。2人は無差別に行われていると思われていたテロに実は何かの意図があるのではないかと疑い始め、ついにゴーストと呼ばれる傭兵の存在を突き止めた。ゴーストは万城目の元部下で、核爆弾を強奪してそれで茨城国の人間を皆殺しにしようとしていた。核爆弾の爆発は未然に防がれるが、黒幕の群馬国王は残った。演説を終え、黒幕はボディガードと共にエレベーターに乗る。エレベーターの中には尾行してきた冬彦がいた。

 

 4月16日

 名古屋高等裁判所金沢支部、航空自衛隊小松基地周辺住民の騒音被害に関する損害賠償訴訟で、国に11億8800万円の賠償を命じる判決。ただし飛行差し止めについては、国が米空軍の活動を規制できないとして却下。

 

 房総半島沖の太平洋上で、海上自衛隊、米海軍、インド海軍による初の3ヶ国合同訓練開催。


 TOTO、温水洗浄便座ウォシュレットの一部で発煙・発火事例が29件発生したため、18万559台を無料修理。


 落語家の夢楽目羅むらくめら、東京国税局から約1億2000万円の申告漏れを指摘され、一部に意図的な所得隠しがあったとして、重加算税を含む4500万円を追徴課税されていたことが判明。


 旅人の野原晴之は水戸市の愛宕山古墳に来ていた。那珂川西岸の河岸段丘上に位置し、標高約40メートル、周辺からの比高約25メートル、主軸は後円部を北西に置き、前方部を東南にむけて築造されている。

 墳丘長136.5メートル

 後円部径78メートル・高さ10メートル

 前方部幅75メートル・高さ9メートル

 幅約23メートルの周濠をもつが、現在では宅地化している。

 1978年(昭和53年)の範囲確認調査で、周濠内から比較的大型の円筒埴輪片や須恵器が出土している。

 茨城県内では最大級の前方後円墳で、墳形や出土品の埴輪(円筒埴輪III式と須恵器(壺)などから、5世紀初めごろ(5世紀前半)または6世紀に造られた古墳と見られる。古代にこの地にあったとされる仲国造の初代である建借間命の墓と推定する説があるが、国造が成務朝に設置されたとする伝承や、愛宕山古墳に先行する常陸鏡塚古墳の存在から、建借間命の二、三世代後の人物が被葬者ではないかと推定する説もある。


 後円部上に愛宕神社が鎮座する。主軸線上に参道が前方部に続いており、石段が設けられ、後円部西側にも設けられている。


 周辺には、姫塚古墳をはじめとするかなりの数の古墳が存在し、古墳群を形成していた。

 

 4月17日

 JR水戸駅前で、選挙演説を終えた直後の茨城国王、百瀬弥吉が栃木国の幹部に銃撃され、翌日に死亡した。

 エジプト検察当局、イスラエルのためにスパイ行為を働いたとして、日本人2名を含む外国人3人を訴追。

 

 水戸で暮らす結城洋平と息子の雷矢。洋平には現在付き合っている恋人、アリサがおり、雷矢にも彼女を受け入れてもらいたいと思っている。しかし雷矢は、『サンダーアロー』として勇敢なロボットと共に闇の帝王から「魔法の粉」を取り戻すため戦っている、という空想に耽るばかりで、一向に取り合おうとしない。 そんな折、平和維持軍として南北戦争の頃のアメリカにいる元カノ、梨子から、雷矢に自然を楽しんでもらいたいし、近くに住む梨子の両親にも会わせてやりたいので一時預けて欲しいとの話が持ち込まれる。洋平は迷いつつも雷矢を送り出し、恋人と二人きりのバカンスへ出かける予定を立てる。彼女は、ミシシッピやフロリダに軍隊が集結しており、開戦が時間の問題とされていることを知らなかった。


 事態を知った洋平はすぐに雷矢を帰すよう雷矢に電話するが、梨子と会ったばかりの彼は反発し受け入れなかった。彼は梨子との関係を優先しようとするばかりか、洋平に対して傲慢な態度を取る。見切りをつけた洋平は、自ら息子を取り戻すためフロリダへ向かう。


 現地近辺は混乱していたが、どうにか目的地へ向かうバスを見つけることができた。しかし山岳地帯を走行中に突如ロケット弾を被弾、バスは大破し、多数の死者が出た。洋平は通りがかった南部連合軍の車に同乗してフロリダまで送ってもらうが、彼らと別れたところで北米軍による砲撃が始まってしまう。

 南部連合軍はロバート・E・リーやストーンウォール・ジャクソン、ジョセフ・ジョンストン、それにP・G・T・ボーリガードなども加わっており、南北戦争を長引かせるひとつの要因となった。

 避難する中で雷矢と連絡が取れ、洋平は雷矢に「おまえは自慢の息子だ」と、話した。


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茨の国のアリサ 鷹山トシキ @1982

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