第057話 独り事

・リーエ:二十一歳、鬱病に苦しむ徹攻兵、一年生

・チーヤ:十九歳、リーエの案内役、二年生

・ヴィセ:十九歳、リーエの同室、一年生

・ファラー:十九歳、背の高い一年生

霜辺しもへ惟兵いへい:王立女子士官学校の日本文化講師



 リーエは自室に戻ると、校内webポータルを開き、霜辺の次の空き時間と、自分の空き時間が重なるところをさがした。

 そしてヴィセに向かって話しかける。「ねえ、ヴィセ」

 「なに?」と返事をするヴィセはヴィセなりに平静を保とうとして、少しこわばってしまう。

 「霜辺センセのプリントなんだけど、独り占めさせてもらえないかなあ」

 それを聞いてヴィセは、左手の甲を腰に当てると、首を右に傾け右に視線を傾けてほんの少し考えた。

 そしてヴィセはリーエに目を合わせる。「心配?」

 リーエはそう聞かれて慌てる。「いやその心配じゃなくてさ、私が月の話しを知っていることを、チーヤに知られたくないんだ」

 ヴィセは、あー、という形に口を開けて、そして閉じた。「うん、分かった、それがいいね。

 ファラーには私から口止めしようか?」

 ヴィセが気遣うと、リーエは眉間に皺を寄せて首を横に振る。「ありがとう。

 でもこれはきっと、私の問題なんだ」

 

 時間を見計らうと、リーエは霜辺の研究室に向かった。

 ノックをする。

 「どうぞー」と中から返事がある。

 リーエは扉を開けるとかかとを合わせて敬礼する。「失礼します。ゼライヒ国、王立国防軍女子士官学校所属、一年生ファゾツリーエ・ヴツレムサー、入ります」

 これを受けて霜辺は律儀にも立ち上がり敬礼の姿勢を取ると、「ゼライヒ国、王立国防軍女子士官学校所属、ナダーウィッメム日本風フツソツタヴォーファ文化研究室室長、イヘイ・シモヘ、入室を許可します」と返礼してくる。

 リーエは一歩踏み出し、振り返ると扉を閉め、改めて振り返る。

 霜辺が腰掛けながら微笑む。「今回は、一人で来たんだ」

 「はい、これは私にとってとても重要なことなので」

 霜辺は会話の先回りをする。「もしかして、まだ質問があるかい? あ、もっと入ってきていいよ」

 霜辺に促されて、リーエは四歩、脚を進めと匂うために鼻を吸う。「今日は、何か燃やしたような、でもいい匂いがしますね」

 霜辺が手を差しのばすと、テーブルの端に、香皿がおかれ、線香が焚かれている。

 リーエは合点がいったと呟く「ああ、ガフィトーカ・ビュスッフお線香

 日本の香りなんですか?」

 霜辺は次いで椅子に手を差しのばすと、リーエも話しを聞きながら椅子に腰掛ける。

 「いや、これはドイツ産。

 レモングラスの香りが好きでね。

 日本でよく使っていた香ととても似た香りのものを見つけてね、時々落ちつきたい時に使っているんだ」

 「そうなんですね。

 それで、あのー」

 「なんだい」

 リーエは、真っ直ぐな瞳で霜辺と目線を合わせて話す。「『月が綺麗』に対して、態度を保留する言葉はどんな答え方がありますか?」

 霜辺は、丸い眼鏡の裏で眉毛を上げて「ほう」と呟く。

 そして続ける「ない、か、な。

 一応今回のプリントにまとめた返事のうち、態度保留に使えると解説されている断り文句はあるけど、君たちくらいの年になると、男性だって恋に急ぐ。

 そんな相手に対して、断り文句だけど曖昧、なんて言葉を返したら、相手はきっと『終わった、か』と、筋の通った日本人なら潔く距離をあけるだろう。

 だから、そんな言葉を放ったら最後、相手をつなぎ止めておくことはできないと考えた方がいい」

 リーエは、少しがっかりして肩を落とす。「ないんですかぁ」

 その表情を慈しむ様に霜辺は笑顔を作る。「君にとっては、とても大事な選択なんだね。

 たださ、『月が綺麗』っていうのは文学から生まれた言葉だから、はなしを先に続けるためには、ナーはいヤフィンいいえを返さないとさ、続けて興味深く読んでもらえなくなっちゃうから、だから特に用意もしていない、というのがほんとの所だろうね。

 『月が綺麗』という言葉で、あなたが好きだ、という気持をあらわそうとすること自体、本気の本気を伝えるには相手にもまだ迷いがありそうに感じるかな」

 リーエが残念そうな顔で「なるほどぉ」と納得してみせる。

 霜辺は、椅子を回して事務机に向かい、三人分のプリントをクリアフォルダに収めてそれをまた一つにまとめた封筒を取り出す。「はい、これが今君が一番気になっているプリント。

 セーチシェンさんと、ファヒピンバーさんにも渡してもらえる?」

 リーエは受け取って立ち上がり、敬礼をすると「分かりました、では、失礼いたします」と答え、きびすを返す。

 扉を開けて振り返ると今一度敬礼。「それでは、失礼します」

 そういって扉を閉めようとすると奥から霜辺が声をかけてきた。「独り占めは駄目だよー。

 でも、君の判断に任せるよ」

 

 リーエは、その脚でファラーの寄宿室に向かう。

 ノックして「リーエです、ファラーいます?」と尋ねると、中から出てきたのはファラーと同室のフィーバだっだ。「あら、また来たんだ。

 今度は一人」

 「うん、ファラーはいる?」と、リーエが聞くと奥から「いるよー」と声を張り上げてくる。

 部屋の入り口まで来てくれたので、リーエが、「ファラー、ちょっと部屋の外で離せる」と聞くと「いいよー、ちょっと待ってね」と、部屋の中の片付けものを簡単にして「さあいこう」と再び出てくる。

 二人が並んだところをみて、フィーバは「ふむ、王子様とお姫様か、悪く無い取り合わせね」といってくる。

 リーエが、訳が分からず首をかしげ、どういうこと、と尋ねようとすると、ファラーがリーエの背中を押して、「いこいこ」といってくるので聞きそびれてしまう。

 ファラーが「どこで話す」と尋ねると、リーエは「食堂で」と答える。

 するとリーエの足が速くなり、ファラーがついていく形となる。

 ファラーは、リーエはいつもゆったり歩くのに今日は真剣だなあ、と感心してしまう。

 食事の時間を外した食堂は、ほとんどというか、全く人気ひとけがない。

 そして二人とも、寄宿舎と校舎を結ぶ回廊を歩いているところを、チーヤが目撃してしまったことに気づいていない。

 チーヤは、胸のクロイツをそっと握ると、きびすを返してリーエ達の視界が届かないところに移動する。

 素知らぬリーエとファラーは、誰もいない大食堂の真ん中辺りに腰掛ける。

 それは、リーエが壁に反射する音を嫌ってのことなのだが、食卓を挟んでの対面だと、いささか距離がありすぎて、となりの席を促して座る。

 そして、リーエから話し出す。「えーと、ファラー。

 お願いがあるんだけど」

 ファラーは興味津々に、真剣な顔を作ろうとしてにやけてしまうによによ顔で「なになに、なんでも聞くよ」と返す。

 その顔をみて、リーエは気まずそうに右頬を人差し指でかき、左に目線をそらす。「あー、あのねっ」

 ファラーはによによ顔で「うんっ」と被り気味に返事をする。

 「この間の霜辺先生の話、まだしばらく、私だけの秘密にさせもらえないかな」

 ファラーは「うん、いい、」とまで言いかけたところで天井に視線を移して、驚き顔に表情を変えてリーエと見つめ合う。「よって、ん、どゆこと」

 リーエは少し頬を赤らめ、ファラーからの視線を交わすように、やや下に視線を降ろす。「霜辺先生から、三人分のプリントはもらってきたんだけど、今回の事は一人でしっかり考えたいから、ファラーも、しばらくの間聞かなかったことにしてくれないかな」

 それを聞いてファラーは、長くため息をつく。「そっかー、そっかぁー、うーん、分かった。

 でも、いくつか聞かせて」

 リーエが、不思議そうに目線を合わせてきて「なにを?」と尋ねる。

 ファラーは前のめり気味に小声で聞いてくる。「相手の男の人は、幾つくらいでどんな雰囲気の人なの?

 それだけ、それだけでも教えて」

 そして、リーエの両手を自分の両手でつつむ。

 リーエは、顔を更に赤らめて、目線を右に向けながら「ええと、えーっと、えっと」

 その様子を見て、ファラーは即座に手を離す。「ごめん、心に負担かけちゃったかな?

 ごめんなさい」

 リーエは、慌てるように両手のひらをファラーに向けて左右に振る。「違うの、そうではなくて、私さ、ずっと入院生活だったじゃない。

 あの時は本当に意味もなく怖くて不安で苦しくて、自分が恋愛に関わるなんて想像もつかなかったの。

 でも、淡いあこがれがあって。

 だから今、ちょっと頭が混乱しているっていうか、ちょっと落ちつきたいんだ」

 ファラーは、リーエの言葉に力強くうなずくと「わかった。

 リーエの身の回りの事は誰にも言わないし、月の話しも黙っておく。

 約束するよ」

 そういってファラーは、右手の人差し指と中指だけを伸ばした形で、こめかみから星を飛ばし、ウィンクをしてみせた。

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