第056話 どうしよう

・リーエ:二十一歳、鬱病に苦しむ徹攻兵、一年生

・チーヤ:十九歳、リーエの案内役、二年生

・ヴィセ:十九歳、リーエの同室、一年生

・ファラー:十九歳、背の高い一年生



 一月の良く晴れた日、二一六号室の二人は、窓側に設置された勉強机に向かって、印字されたコピー用紙の束と、リングノートを前にして、左肘を机についた手のひらで頭を支えてゆっくりとページをめくっていく。

 内容はゼライヒ語に翻訳された、フランス軍の交戦典範。

 そもそもゼライヒは、歴史的に自らを「ドイツ」と規定する民族と軍事的なつながりを保ってきた。

 さばかりか、そのような起源をもつ集団に向けて、しばしば具体的な軍事力として兵団を送り出し支援してきた。

 基本的に派遣兵団は男性のみで構成されてきた。

 これに異を唱えてきたのが、王国国防軍の中でも弓兵をになう女性兵士達からだった。

 彼女たちは権利ではなく義務を主張してきた。「男性の進軍を後方から弓矢で的を牽制することで、部隊の侵攻を支えてきたのがザキスウェンの伝統的な女子の戦い方だ。

 国外でも、この力を発揮して、国防政策の一翼を担いたい」

 この心がけは大変責任感のあるものとして受け止められた。

 しかし九賢人会議の中では、こんなことも議論された「戦場の非情さは現実として悲惨なものよ。

 もし弓戦隊が戦場の混乱で絡め取られてみよ。

 彼女らは身ごもるまで、いや、その後も激しい陵辱にさらされ、子を成せば裸一つで戦場に放り出される。

 幸運にも自軍に発見されればよいが、戦場私生児を抱えた女子おなごを娶るものなどおらん。

 女手一つで子供を育てても、私生児には縁談もない。

 わしはな、国のために力を尽くした弓兵にそんな未来を与えたくはない」

 こうして、女子の派兵は見送られたものの、男子と同じように義務を負い国防の担い手として、東と西に分かれたクゥル・イ・ザキザキの水道の砦から集団的に敵国船を矢射る技術が必用とされ、救世主教歴一七七五年に、国防女子弓戦隊が設立された。

 弓戦隊には儀礼的役割も与えられ、南方派遣軍の一番艦がクゥル・イ・ザキザキの水道にさしかかると、南の沖合のフィンランド湾に左右の崖の上から破魔の鏑矢かぶらやが一斉に打ち放たれる。

 これは戦地に赴く兵士達に武功の上がらんことを、国家として時の国王、女王自ら祈っていることを意味した。

 そして艦隊の最後の船こと旗艦がクゥル・イ・ザキザキの水道を抜けて外洋に出ると、今度は崖の上からクゥル・イ・ザキザキの水道の入り口に向けて破魔の鏑矢かぶらやが一斉に打ち放たれる。

 これは後方の、本国の守りは女子弓戦隊にお任せあれかし、という女子弓戦隊の国防意志の表れとして行われてきた。

 やがて銃砲が武器の主役となり、近代的な軍隊の編成がしかれるようになっても「男子は外、女子は内」のしきたりは維持され、士官学校が設立されるようになると、男子士官候補生の育成は準々同盟国であるドイツの軍事大学にて、女子士官候補生は国内の王立女子士官学校にて行われるようになった。

 

 このため、ゼライヒの軍人には、国際公用語としての英語の会話力だけでなく、ドイツ語の日常会話力も求められた。

 そして着甲科の生徒には、フランス語の日常会話力が求められた。

 更には、他科の生徒はNATO軍の交戦規定、ドイツ軍の交戦規定を理解することが求められる中、着甲科の生徒はそれに加えてフランス軍の交戦典範も記憶する必用があった。

 なぜなら、公式にはゼライヒからは徹攻兵を輩出して居らず、徹攻兵を保有するのは、偶然にも現代版五大国こと、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、そして日本に限られいた。

 実質のところは、自国から徹攻兵を輩出できるのはアメリカ、ドイツ、日本だけで、コモンウェルスの長は南の大陸から先住民にして素質があるものを借り受けており、そしてゼライヒは、ドイツ、イギリス、フランスとの協議を経て、その徹攻兵の全てをフランスに貸し出すことで、ロシアの旧都、サンクトペテルブルクから余りにも近すぎる地政学的軍事均衡を維持する行きかたを選んだ。

 その結果、着甲科の生徒は他科の生徒と比べて、一言語多いフランス語への対応力と、フランス軍交戦法典の理解を求められるようになったのである。

 

 ゼライヒ語に翻訳されている、とはいえ契約書や法律の条文というのはある種独特な言い回しであることは、世の東西を問わない事で、「あー、もーぉ」と頭を抱えたヴィセが背もたれにのけぞり、何なのこの言い回し、といおうとしたところで「ぉっ、思い出した!」と更に大声を上げた。

 「はえ、なになに」とリーエもいささか寝ぼけ眼でヴィセの方を向く。

 ヴィセはらんらんと輝かんばかりの目つきで話しかけてくる。「月が何とかってさ、日本の古語だった気がする。

 ファラーがナダーウィッメ日本風フツソツセフォチー文化論を取っていてさ、リーエがまだ登校してくる前に私も講義に一緒したことがあったんだよね。

 その時に確か、日本の古い時代の作家が、なんとかって英語を日本語訳する時には『月がなんとか』と訳しなさい、っていってた気がする」

 リーエが微笑む。「なにそれ、なんとかがなんとかじゃ分からないよ」

 ヴィセも苦笑いする。「ごめん。

 でも、ファラーに聞くか、ナダーウィッメ日本風フツソツセフォチー文化論の講師に聞くだけ聞いてみようよ」

 

 

 

 扉に手書きの木の札で、ナダーウィッメム日本風フツソツタヴォーファ文化研究室と掲げられた校舎の端の小部屋が、ナダーウィッメ日本風フツソツセフォチー文化論の教育のために雇われた、特別講師、霜辺しもへ惟兵いへいの研究室だった。

 ファラーをともなって尋ねてきたリーエとヴィセに向かって、真円を二つ繋げた丸眼鏡をかけた小柄な男が、腰掛けた椅子を回し振り向きながらいった。「ふむ、それは夏目漱石だね」

 リーエが繰り返すように呟く「ナツゥメ・ソーシキ?」

 霜辺は薄く苦笑いを浮かべながら「ソーシキ、じゃなくてソーセキ、ね。

 ゼライヒャリンゼライヒ婦人はみんなそういうね」

 そういわれたリーエの頬に、少し赤みが差す。

 霜辺は優雅に左手を横手に振ると、「適当にあいているところに腰掛けてもらえるかな」という。「僕は話しを短くまとめることが苦手でね。

 でも、なるべく要点だけ話すよ」

 そういわれた三人は、部屋の中央におかれたテーブルに寄せてあった、背もたれのない椅子を引き出して座る。

 ちなみに部屋は、霜辺が長年かけて持ち込んだのだろう、日本のものと思われる書籍や仏像、軍艦、仏閣、ロボットといった様々な模型が、他人目にはかなりばらばらに、壁に据え付けられた棚と、中央のテーブルの上に飾ってある。

 「君、そうヴツレムサーさんに月が出ない日も『今日も月が綺麗だね』といってきた男性に、どこまで真摯な想いがあるのか、それとも冗談としてごまかそうと奥手になっているのか、それは分からないけれど、彼が日本の古い小説に親しみがあるなら、それは間違いなく英語の『I love you』の意味のはずだな」

 それを聞いて、ファラーは両手を口に当てて喜びに驚き、ヴィセは、良くわからないぞ、という顔つきで、床とリーエをなんどもみつめなおす。

 リーエは、顔を霜辺の方に向けたまま、目線だけを天井に上げ、そのまま必要以上に瞬きを繰り返していた。

 霜辺は三者三様の反応を楽しそうに眺めつつ、続ける。「でもね、これ、絶対じゃないんだ。

 本来『I love you』は日本語では『私はあなたを愛します』だからね。

 漱石は当時の日本人には珍しく、英語が得意で何人もの英語の生徒を抱えていた。

 その中でひとり、『I love you』の訳し方で悩んでいる生徒がいたので、周りの生徒に聞いてみた。

 すると周りの生徒は『私はあなたを愛している』とか『ワレ、ナンジヲ、アイス』と応えてきた。

 それを聞いた漱石は長嘆息するといった。

 「君たちは自分の思いを伝える時にそんないい方をするのかね?

 しないだろう。

 そこは『月が綺麗ですね』とでも書いておきなさい」と、指導したそうだ」

 ファラーが気持の逸りを抑えながら、小さく手を挙げて尋ねる。「日本人ってそれで伝わるんですか?」

 それを聞いて霜辺は、闊達な声で笑い上げる。「漱石はね、一九〇五年から一九一五年に活躍した作家でね、その頃の日本は気持を率直に表現するのは恥ずかしいこと、とされていたようなんだ。

 それに漱石の生徒達は、将来の翻訳家も目指していたから、売り物になるような翻訳表現としていってみた、という感があるかな」

 今度はヴィセが小さく手を上げる。

 霜辺が右手をさしのべる。「どうぞ、セーチシェンさん」

 「先生のご説明だと、現在はもう使われていない表現、ということですか?」

 霜辺は、いつの間にか腕を組んでおり、やや右に傾けた形で、更に右上に視線を配る。「うーん、二〇世紀初頭の日本人でも、そんないいかたして伝わると思っていた人なんていないと思うんだよね。

 多分大勢の若者は、顔を真っ赤にしながら『俺、お前のことが好きだ』というのが精一杯だったんじゃないかな。

 もし、本当に使われて、そして伝わることがあるとすれば、お互い夏目漱石のファンで、且つお互いがその作品のどこの表現が好きだと語り合うほどの中だったら、男性の方は……。

 敢えて晴れた新月の日に『今日は、月が綺麗ですね』っていったかも知れないね。

 月の出ない日に月が綺麗だということは、その意味は一つしかなくなるから」

 チーヤ、ヴィセ、ファラーの三人は、いつの間にか三人とも霜辺の様に腕組みをしたまま、床や天井に視線を向けて考え込んでしまう。

 すると、ファラーがまた小さく手を上げて質問する。「そもそも、なんで月なんですか?

 太陽でも、湖でも、山でもいいと思うんですけど」

 霜辺は、丸い眼鏡の中の瞳を開いて喜ぶ。「いい質問だね。

 君たちは今、少しずつ日本人の感性に歩み寄っているんだね。

 そうだな。

 うん。

 そもそも古来の日本には、今の支那大陸から渡ってきた陰陽五行思想を独自に改変した陰陽道というものがあってね、世の自然現象はプラスの要素である『陽』と、マイナスの要素である『陰』が入り交じってできていると考えていたんだ。

 陽、とは太陽のことであり、昼間のことをいみする。

 そして陰とは夜のことであり、その最も象徴的なものは月だ。

 これを生き物に当てはめてみると、力が強い、外に出て狩りをする男性が陽とされ、家や村を守り共同体の中で暮らす女性が陰とされた。」

 ここでリーエが手を挙げる。「つまり男性は太陽で、女性は月、そして月が綺麗ということは女性が綺麗ということですか?」

 霜辺がぽん、と両手を打つ。「察しがいい。

 だから月の出ない日に『月が綺麗』といえば、それは月のことをいっているのではなく、女性を月に例えて言葉にしている可能性が高い、と考えられるんだ。

 男性にしてみれば、その本意をくみ取ってもらえなくても次の話題に流せちゃうし、女性にしてみれば、『え、なに、え、本気』とドキドキしながらその後を過ごしていくことになる。

 なんて、ロマンチックじゃないかい?」

 ファラーは興味津々でリーエの表情を伺うが、リーエは返って悩み込んでしまう。

 そもそも、ヴィセはこの話をファラーに打ち明ける前に、リーエに、発現の主は街であった男友達ということにしよう、と提案した。

 万が一、霜辺の解釈がたとえば呪いの言葉だったとしたら、あれだけリーエに親身になって、休日も街に連れ出してくれるチーヤがそんな意味を込めているはずがないし、何も知らないはずのファラーに、チーヤのことを悪く思って欲しくないからだ。

 ヴィセなりに万が一のことを考えての配慮だったが、よりによって愛の告白の意味があるって「どーゆーことなの」と頭の中でのつじつま合わせがグルグルと回る。

 するとリーエが再び手を小さく上げる。「あのー、それってやっぱり返事が必用ですよね?

 フツーに、私も好きです、とか、私にその気持ちはありません、とか返すんですか?」

 リーエがそうたずねると、霜辺は一旦、胸元で右手の人差し指をリーエに向け、たのになぜだか考え込んでしまう。

 先ほどリーエに向けた人差し指を顎に移して、人差し指と親指で、あごひげの生えた顎をつまむ。「ちょっとごめんね、僕の勘違いだったら申し訳ないんだけど、着甲科の鬱病の生徒って、もしかして君かい?」

 リーエは何事もなく首をたてに振り「はい、そうですけどなにかありましたか」

 霜辺は続ける。「あの、質問に質問で返すのが愚か者っぽくっていやなんだけど、君はダ・ブロッサムのことを知っているかい?」

 それにはリーエも、やや後ろのヴィセも、テーブルを挟んで反対側のファラーもうなずいた。

 それを受けて霜辺は「なるほど」といってみせる。「僕はね、日本にいた頃、何度かダ・ブロッサムとあったことがあるんだ」

 そのひとことで三人とも目を見張る。

 「彼は人付き合いが嫌いで、でも、物わかりが良く、話しを進める質問が多くて、そして博学だった。

 ヴツレムサーさん、あなたにはダ・ブロッサムと同じ雰囲気を感じるよ。

 きっと君は、これからも伸びていくんだろうね。

 さて、質問だったね。

 答え方なんだけれどもさ、これはもう漱石とは関係無しに、色々と作られていてね、まず、定番はyesなら『死んでもいいわ』、noなら『私はまだ死にたくありません』なんだ。

 これは漱石よりちょっと前に活躍していた翻訳家二葉亭四迷が本来『あなたのものよ』と訳すべき所を『死んでもいいわ』と表現したことに由来するとされている。

 文学家の告白の表現に、別の文学家の受け入れの表現を使うなんて、双方が文学を広く知らなければならない、もっとも知性のある返事の仕方といえるんじゃないかな。

 そのほかに相手の思いを受け入れるんだったら、

 『このまま時が止まれば良いのに』

 『今ならきっと手が届くでしょう』

 『私にとって月はずっと綺麗でしたよ』

 『あなたと一緒に見るからでしょう』

 『綺麗な月を見れて嬉しいです』

 『私とずっと一緒に月を見てくれますか?』

 『今日は少し肌寒いですね』

 『私はあなたの瞳に映った月を見ていますよ』

 『傾く前に出会えて良かったです』

 逆に断るんだったら、

 『宵待草(よいまちぐさ)が咲いています』

 『私には月が見えません』

 『星の方が綺麗ですよ』

 『私の夜空は真っ暗です』

 『手が届かないから綺麗なんですよ』

 『秋風が立ってしまったように感じます』

 『雨音が響いていますね』

 『夜更けには沈んでしまいますよ』

 『青くはないですね』とかかな」

 立て板に水を流すような霜辺の言葉の勢いに、三人が三人とも前のめりになって目をぱちぱちと瞬かせてしまう。

 その様子を見て霜辺は一つ高笑い。「大丈夫、これ以上会話で説明しちゃうと、僕の長話の癖が止まらなくなっちゃうからね。

 エディタでまとめて、印刷してあげるよ。

 ヴツレムサーさん、明日か明後日、この部屋まで取りに来られるかい?」

 そういわれてリーエは、少しまじめな顔で「はい」とうなずいた。

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