第053話 国防女子弓戦隊

・リーエ:二十一歳、鬱病に苦しむ徹攻兵、一年生 チーヤの歴史語りの聞き手

・チーヤ:十九歳、リーエの案内役、二年生 ゼライヒ女王国の歴史の語り手



 雪深く険しく高い、そんな山脈に三方を守られ、唯一ひらけた南岸も、崖と暗礁に阻まれた海岸線を作りとりつく島もない。

 唯一クゥル・イ・ザキザキの水道の海峡を経てソー・ネ・ザキザキの入り江に至るより道のないゼライヒの国民は、戦乱に見舞われる代わりに、身内受けの凝り性文化を発達させていった。

 「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」が騎士団としての性格をほとんど失うほど縮小しても、戦訓を求めて、ドイツ極北十字軍の受け入れを行ってきた。

 ドイツ騎士団の系譜という見方もあり、プロイセン公国と「遠くの親戚」と例えられるような細いつながりを保ち続けていた。

 ヨーロッパの貴族社会の縦横に広がる権力争いという名の戦争を体験しているドイツ極北十字軍の構成員からは時に「箱庭のような国」と評価されることもあった。

 その一つには、王統がゼライヒの秩序の中で保たれていたことがある。

 一六八六年、十一代目幼王として弱冠十歳のファゾツク二世=ケツヴェツソ・ヨコセンが即位しても、他国と紛争がわき起こるでもなく、ゼライヒはゼライヒのまま、ペーフェンの民の国であり続けた。

 十八で婚姻を迎えた幼王と妃の間に、四年後、第一子が生まれると、国中が歓迎に湧いた。

 その五年後、ソー・ネ・ネヴァネヴァの入り江の古名で呼び習わしていたサンクトペテルブルクがモスクワ大公国の首都となると、二十七歳になった青年王は特使を派遣し、フィンランド湾最奥の協商関係を維持することを求めた。

 これには、ゼライヒ正教会がモスクワおよび全ルーシロシアの府主教庁の承認の元に存在する自治教会であったつながりもえにしを深める契機となったが、この時すでにゼライヒ特使はモスクワ正教会の足下の揺らぎを察知していた。

 実際、一七二一年にモスクワ大公国がロシア帝国と国号を改めると同時に、モスクワおよび全ルーシロシアの府主教庁が制式に廃止され、皇帝権力の配下の組織として聖務会院が設置された。

 ゼライヒはサンクトペテルブルグに特使を送り、「錆びを知らぬ銃砲は、ネヴァ川を向かぬ」というメッセージを届けた。

 これは皇帝に好感され、以降、ゼライヒ正教会の首座主教は、選出のたびにロシア皇帝の息のかかった聖務会院に届け出られた。

 

 実際にはゼライヒはロシア帝国と対立するプロイセン公国に継続的に銃器を輸出していたが、それは政治的には領土問題や民族問題を間に挟まない、対等な国家同士の通商関係によるものであり、何を、幾らで、どの程度の数量販売するかは、相互の交渉によって決定した。

 従ってゼライヒがもしその気になれば、プロイセン公国側への武器の輸出を止めることで、ロシア帝国との紛争を牽制することもできた。

 ただ、ゼライヒはそのような政治的駆け引きを商取引の場に持ち込むことはしなかった。

 ゼライヒは資源と情報を常に求めていた。

 その高い品質と生産性を基礎に、大工道具や石工道具、農具や調理器具などを欧州中に売り歩いた。

 舟運を主軸にバルト海から地中海地方に進出したり、ネヴァ川を遡って、ノウゴロド、キエフを経由してクリミア半島からコンスタンチノープルに脚を伸ばしたりしていた。

 ゼライヒの商船は時に寄港先の港町から「船の妖精」と呼ばれることがあった。

 停泊料や宿代については、執拗な値引き交渉などなく、むしろ良い奉仕をすればそれに見合ったチップを置いていってくれる。

 だが、ひとたび法外な値段を突きつけたり、奉仕の心遣いに手を抜くと、何もいわずにそのまま支払ってくれるが、その後ゼライヒ中の商船が、その港には現れなくなることから、「幸福をもたらすが、過ぎた幸福を奪おうとすると、全てを失う」そんな妖精民話にそっくりだということだった。

 そしてゼライヒの商人は硝石を良く買っていった。

 欧州の列強同様、黒色火薬の原料調達に悩んでいたためだ。

 

 そんなゼライヒの歴史が動いたのは、改めての世継ぎ問題が原因だった。

 即位時には幼王と呼ばれた十一代目王ファゾツク二世=ケツヴェツソ・ヨコセンが、父王であるヴァツゾーツ=ピーゼチキ・ヨコセン王と同じ五十六歳で早世すると、センージウミノヴァ二世=ファンワツケ・ヨコセンが弱冠十一歳で十二代目女王位についた。

 そのセンージウミノヴァ二世=ファンワツケ・ヨコセンも、四十七歳で末男子を出産するも夭折されてしまい、その後を追うように五十一歳での早世を迎える。センージウミノヴァ二世=ファンワツケ・ヨコセン女王の子女は夭折するものが続出してしまい、人々はほとんど選びようがなく、第十三代目幼女王として、わずか七歳のォカ・チマツィウェノー一世=フェゼツソツーソ・ヨコセンを頂く事と成る。

 ォカ・チマツィウェノー一世の婚姻は、即位する前から、国家の大事として議論されてきた。

 即位の年、救世主教歴一七七二年には、サンクトペテルブルクにおいてプロイセン王国とロシア帝国が合意を結び、ハプスブルク帝国のウィーンでポーランドを分割統治する合意が調印された。

 翌年には、 ローマ教皇クレメンス十四世が、イエズス会の解散を命じる事態が起こった。

 これは公同教会カトリックの布教を担う集団に属する軍事力が、国境を越えて自由に活躍し、教皇への忠誠を誓うあり方が、欧州の列強からみて目障りなものとなっていたことに対する対応だった。

 幼女王をかまえた九賢人協議は、旗幟を鮮明にする必要性をいち早く察知し、伝統をおもんぱかり、プロイセン王国に対する三年任期制の千五百名の部隊の派兵協力を申し出、これは快く受け入れられた。

 派遣部隊は男性のみで構成されていたが、ゼライヒ国防軍には伝統的に弓戦兵としての女性部隊がおり、これまでは個々に弓取りの技術を教え合ってきたが、東と西に分かれたクゥル・イ・ザキザキの水道の砦から集団的に敵国船を矢射る技術が必用とされ、救世主教歴一七七五年に、国防女子弓戦隊が設立された。

 これが、王立女子士官学校の前身である。

 

 そしてォカ・チマツィウェノー一世は十六歳になると、救世主教歴一七八一年に「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」の総長、マクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒの兄カール・ヨーゼフ・エマヌエル・ヨハン・ネポムク・アントン・プロコプ・フォン・ロートリンゲンと婚姻を結んだ。

 カール王配自身、体が弱くて世嗣として選ばれなかった身であったが、調度二十歳年下の花嫁を大事に愛し、幼女王が十九歳にして第一子を出産すると、第十一子に当たる末子を出産する六十九歳まで、王配としての役割を男らしく努めてみせた。

 十一名の子供達は、一名を除いて全員が成人を迎え、数世代ぶりに、全ての州長に王子王女が一代公爵として配属される時代を迎えることとなった。

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