第052話 国号
・リーエ:二十一歳、鬱病に苦しむ徹攻兵、一年生 チーヤの歴史語りの聞き手
・チーヤ:十九歳、リーエの案内役、二年生 ゼライヒ女王国の歴史の語り手
ウ・グィスダニィリーヤとジルヴェスターの夫妻は、国家安定のためによく頑張ってみせた。
ウ・グィスダニィリーヤは四十二歳にして末男子、略名キツゼヴタンソ=レツキフォーツ・ヨコセンを出産した。
このときジルヴェスターは六十六歳、お酒をこよなく愛す王配として知られ、楽しい雰囲気を作るのが上手であったが後年は、「まだまだ、男として役に立たなくてはいかん」と深酒を避けるようになった。
キツゼヴタンソの誕生で、十子を迎え、いずれの子も健康に育っていることから、夫妻は子作りを辞めた。
ジルヴェスターは七十七歳までお酒を楽しみ、そして亡くなった。
晩年に至るまで、楽しい雰囲気を作るのがうまく、人々から「斗酒の王配」「歓楽の王配」との別名で親しまれた。
ウ・グィスダニィリーヤ女王の治世とその前後、ドイツ民族との関係を深めたことは、その後の近世ゼライヒにつづく歴史の中で、有利に働いた。
特に、ヤーの丘の俗称で知られる北部四州では、ヨコセン堂だけでなく、名のある鉄工所が次々育っていった。
一四三五年にドイツ騎士団によって重砲が持ち込まれると、ヨコセン堂は徹底的にそれを調べ、そして一四四六年に重砲の生産に成功した。
また、一四五八年には、火縄銃の生産に成功し、一四六九年には薄型に軽量化した火縄銃の量産体制を整えた。
更には、一五一二年には、ライフリングを施した、後詰め式の銃の供給を開始した。
銃器火器の生産は、主にドイツ騎士団を想定してのものだったが、ドイツ騎士団が一四六六年に十三年戦争に敗れ、一五二一年にポーランドとの戦争に敗れると、金払いが悪くなり、新たな取引先を探さなければならなかった。
結局、一五二五年にドイツ騎士団はプロイセン公国への臣従礼を行い、宗教的にも
これに慌てたのがローマ教皇庁で、そこにつけ込んだのが時の七代目公、略名キツゼヴタンソ=レツキフォーツ・ヨコセンだった。
彼はドイツ騎士団、より正確には「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」の騎士達が
騎士団の騎士達が次々と
時の公キツゼヴタンソは直接
キツゼヴタンソの依頼はこうだった「我が国はコンスタンティノープル総主教庁に司教座を置く
いま、ちまたでは
これからも我が国は「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」の良き友人であり続けます。
ただ一つ問題があるのです。
「カルヤラの楔」と称される我が国ですが、さすがに周辺の国々が情勢を変え、さばかりかドイツ騎士団が
ついてはどうかローマ帝国による正式な「王国」となりたいと思っています。
お口添え、願えませんでしょうか」
これにはヴァルターも即座に
キツゼヴタンソは、いつまでも長居することのできないヴァルターと修道士会の面々のために、国内を歴訪する使節団を組んだ。
ザキ・ス・ウェンでは海の幸と珍しい舌付き桃色真珠を握らせ、商都ラウトヤルヴィではトシセン商館で様々な民芸品を披露してみせる。
更に
そして北部ヴァルツィリヤではヨコセン堂を中心とした工業都市をみせ、錆びない鉄による小銃と大砲の量産されていく有様を見せつけた。
更には、屯林兵による開拓地を見せつけ、新鮮な果樹にて楽しませる。
この大きさの国土が、戦乱にも荒らされず、確実に農工業をにない、二百五十万人に昇る総人口を抱えているというのは、ヴァルターと修道士会の面々に改めて脅威を感じさせた。
王都に戻ったヴァルターはいった。「お約束はできないが、王位の公認をローマ皇帝カール五世に申請しましょう。
ただし一つ懸念があります」
キツゼヴタンソ公が「懸念と申しますと」と促す。
ヴァルターは毅然とした目つきで返す。「国号です。
いかな大都市、首都といえど、ザキ・ス・ウェンは辺境の都です。
国号にザキスウェンを掲げるうちは、辺境国家の印象をぬぐえないでしょう」
これにはキツゼヴタンソ公も思わぬ所を突かれたと驚いたが、同席していた九賢人の中にはうなずくものもいた。
キツゼヴタンソ公がたずねる。「もし、総長閣下であれば、どのような国号を思い当たりますか」
ヴァルターは一国の歴史に介入する重みを弁えながら答えた。「この国を
これだけ湧水に恵まれる土地も珍しい。
そうであれば
これには、九賢人も概ね好意的に受け止めた。
キツゼヴタンソ公としても、なるほど、理にかなった国号だと思えた。
貴族院議会の中には、ザキスウェン語に置き換えてヘーウィキタフィキ・ザ・ペーンを唱える声もあったが、国際的に通りがよいのはドイツ語風の名乗りだろうとなった。
これは九賢人協議でも同じ意見で、ローマ皇帝カール五世に向けて、ゼライヒ王国の国号と王国の公認を求める書状、そして十年の年限付きで貸し出される、「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」に付き従う一万の銃歩兵をつけて送り返した。
これは
国号こそ改めたものの、欧州の国際舞台の世界でゼライヒの存在は浮いたものだった。
いや、沈んだものだったといった方が的確かも知れない。
ベルリンを擁するブランデンブルグが辺境伯領とされ、更に北に離れてプロイセン公国、更に北に離れてドイツ騎士団領、そのまた更に北にフィンランド湾を挟んでようやくゼライヒが現れる。
そこまで描く地図も珍しく、まさに「未開の土地」の印象しか与えていなかった。
また、王統の維持のためとはいえ、欧州の名門中の名家、ブルボン=パプスブルク家や、それに連なる家柄も受け入れておらず、社交界に現れるでもない、謎の国だった。
ただ、交流のあったドイツ騎士団とプロイセン公国、そして隣接するスウェーデンとモスクワ大公国からは「潜在的な脅威」と目をつけられていた。
特にドイツ騎士団領とプロイセン公国には小銃を輸出しており、その錆びない銃身は、薄く軽く、丈夫で正確と、技術力の高さを知らしめるに十分だった。
ゼライヒは常に情報を求めていた。
そのため、語学に才のある人物には、国費で語学を学ばせ、身柄は「錆びない縫い針」「錆びない鍋」の行商人として、欧州はおろかオスマン帝国のイスラム世界まで、諜報の糸を張り巡らせていた。
そんなゼライヒにとって、独自の民族文化を維持する上で、のどに引っかかった小魚の骨のように、何とも気がかりなのが、ゼライヒ正教会のあり方だった。
始祖ムソツヴェファ大公の時代にコンスタンティノープル総主教庁より一教区としての認定を得たものの、その運営は常にコンスタンティノープルを意識する必用があった。
一方ゼライヒでは、事実上、救世主教
このため、コンスタンティノープルの一教区の立場を超えて、独立正教会、あるいは自治正教会として、独立した運営をしていきたい、公式には決して認めないが、古の精霊の導きに人々がすがるすがたを否定しない教会でありたいという思いがあった。
ザキスウェンの主教座には、時折コンスタンティノープル総主教庁より主教が派遣されてきた。
こういった主教達は、古の精霊に礼拝する姿を、カビの生えたアニミズムと捉え、そのような蛮行は即座に辞めさせるべきと、何度も王、女王に上申してきた。
そんななか一四五三年、コンスタンティノープルはオスマン帝国の攻略に屈し、コンスタンティノープル総主教庁も、その座所を転々とする有様で、すっかり他国を納得させる権威としての地位を崩していた。
コンスタンティノープル総主教庁の凋落と対照的に、その地位や権威を確からしくしていったのが、東の隣国モスクワ大公国のモスクワおよび全
略名キツゼヴタンソ=レツキフォーツ・ヨコセン王が一五四二年に若干五十六歳の若さで急逝すると、その後をかれの末男子、略名ファゾツク一世=フェーリーツ・ヨコセン王が若干五歳にして王位に就いた。
その幼王の末女子、略名ビャツトッセ二世=フェチーパヴェソ・ヨコセンが第一子を授かった時、救世主教歴一六〇一年、すでにファゾツク一世は六十四歳を迎えていた。
ファゾツク一世は幼子を抱えた末娘を旅に出した。
未来の女王足る王位継承権第一位を保持したビャツトッセ二世は、コンスタンティノープル総主教、アレクサンドリア総主教、アンティオキア総主教、エルサレム総主教の四人の総主教から独立した主教座を得たモスクワおよび全
そこには、ゼライヒ正教会は今後、モスクワ総主教の元で自治正教会として運営してゆきたい旨の請願が書かれていた。
つまりはゼライヒ正教会の首座主教は、ゼライヒによって選びモスクワ総主教の認可を受ける形で取り組んでいきたいという意思表示だった。
これはこれまでコンスタンティノープルに集まっていたゼライヒの喜捨がモスクワ総主教庁に集まることを意味していた。
いかな、モスクワおよび全
聖イオフの名の下に、他の四つの総主教に、ゼライヒ正教会をモスクワ総主教庁配下の自治正教会とする旨の文書が回議され、その全ての承認を得ることに成功した。
こうして、ゼライヒは、国号を変えるだけでなく、宗教的な結びつきで隣国モスクワ大公国と接するようになった。
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