第051話 外交と国防

・リーエ:二十一歳、鬱病に苦しむ徹攻兵、一年生 チーヤの歴史語りの聞き手

・チーヤ:十九歳、リーエの案内役、二年生 ゼライヒ女王国の歴史の語り手



 クトテンシーヤは、六名の兄姉けいしを、それぞれ要衝の州の州長に就けた。

 これより後、二人制の九つの州長の一人は、時の王、女王の兄姉けいしが着任する習わしとなった。

 州長についた王族は、息子娘を郡長こおりおさにつけた。

 これは世襲の地位ではなく、王、女王の代替わりと供に改められた。

 現役の王、女王から四等親以上離れた傍系の親族は、王位継承権を持てなかった。

 ただ、ヨコセンの家柄とトシセンの家柄のそれぞれ当主の家系は、王統に万が一のことがあった場合の家系として受け止められ、その血筋は厳しく管理され、また、当主としてそれぞれ、冶金業と商業で成績の上がらないものが当主に就いた時は、上の兄姉けいしに党首の座を明け渡すことを求められたりもした。

 

 ペーフェンの民はその土地の開拓と供に人口を増やしていった。

 伝統のある家柄は、その土地が生み出す生産力を背景に商業への道を拡げ、大店を構えるものも出てきた。

 中にはその財力を元にローマ帝国のコンスタンティノポリスに使者を出し、爵位を買うものが出てきた。

 これには王家以上に九賢人が反発し、現代では無法の代名詞とされる事後法に手をつけてまで、外交権は唯一政府に存在するという法規を作り、財産を没収せしめた。

 これを機に、爵位は王家への特別納税によって与えられるものと成った。

 王家自体が公爵だったため、侯爵、伯爵、子爵、男爵、騎士の各位が与えられ、騎士以外は世襲を認めた。

 また、貴族に列したものが集いて協議する、貴族院が、新たな立法府として設けられ、九賢人が議論する前に、貴族院で意見を戦わせ、おおまかな方針や制度の重要性、危険性などを法案として九賢人に呈示し、九賢人の調整を経て、王または女王が承認する体裁を整えた。

 

 外交は主に武器防具などの輸出を軸に、外貨即ち金銀を得る形で行われた。

 ザキスウェンの冶金技術の高さは周囲をぬきんでており、農具や乗馬具、馬車なども売買された。

 また、ソー・ネ・ザキザキの入り江からは少数ながら、桃色真珠が産出し、球体のものよりも、いくらか歪んで尻尾の付いたものや、その尻尾が曲がっているものが珍しく、高価に売れた。

 北と西はスウェーデン、更に西にはデンマーク、東はノウドロゴ改めモスクワ大公国となっても、他国から「カルヤラのくさび」と称されるザキスウェンの地は穏やかだった。

 表面的には。

 

 フィンランド湾、ひいてはバルト海、北海にいたる海路の航海優勢を取るためには各国とも海軍力が必用だった。

 不動の立場故にいつでも船を出せるザキスウェン大公国の干渉を避け、あわよくば自陣営に引き込まんとする国は多かった。

 中でも熱心だったのが、南に位置するドイツ騎士団だった。

 ザキスウェン大公国は建国以来約七十年の年月を重ねて、三代目ビャツトッセ1世=フェゼツソツーソ・ヨコセン女王の代を迎えたにもかかわらず、大きな内乱も、他国との紛争もないまま屯林兵という陸軍兵力を抱えており、舟運も盛んで、その気になれば万に迫る勢力を派兵できた。

 他方、ザキスウェンの地からフィンランド湾を挟んで南のリヴォニアの地では、ドイツ騎士団が、後のロシアやポーランドに連なる勢力との紛争に明け暮れていた。

 ドイツ騎士団、正式名称をドイツ人の聖母マリア騎士修道会といい、古典教会オーソドックスに対する、公同教会カトリックの布教の宿命も帯びていた。

 そのような戦況の中で、万が一にも敵性兵力の援軍として、クゥル・イ・ザキザキの水道の海峡からザキスウェンの兵力が派兵されるのは命取りになる。

 幸い、その来寇がザキスウェンの国民国家樹立の契機となったこともあり、ドイツ騎士団の船の出入りに、十分な兵力を備えたザキスウェン側に抵抗感は薄く、十月の祝祭に合わせたドイツ騎士団と商人の船団の来訪は、王都ザキ・ス・ウェンの人々を、歌で躍りで、お酒でお菓子で、老若男女をあまねく喜ばせた。

 騎士団の代表と、九賢人、そして時の王、女王には別の考えもあった。

 戦訓の確保である。

 

 国土の末端に至るまで「統一民族の国民国家」という意識が染みついた国土では、個人、もしくは徒党を組んでの犯罪こそあれ、反乱らしい反乱もなく、太平の世が続いていた。

 総人口は百万人を目前としていたし、屯林兵も五万を超える、つまり市井の開拓とは別に五百もの集落ができていることを意味していた。

 そして決定的に欠けているのが戦訓だった。

 戦場での立ち居振る舞い、突発的な予想外の襲撃への対処、押すべき所と引くべき所の見極め、勝つための撤収の仕方。

 そういった、本当に勝つために必用な経験、負けるにしても被害を最小限にくいとどめ、次の戦いに備える経験がペーフェンの民にはなかった。

 如何に堅牢な擁壁となる山脈に守られているとはいえ、陸続きのモスクワ大公国やスウェーデン王国に荷担して、それ以外の国々から反発されるのは避けたかった。

 ドイツ騎士団の主戦場であるリヴォニアの地であれば、国土の南側とはいえ、間にはフィンランド湾を挟んでおり、仮に船団を組んで攻めてきても、クゥル・イ・ザキザキの水道の海峡で兵力を大幅にそぐ自信があった。

 それが決めてで、貴族院と九賢人協議はドイツ騎士団への派兵を決め、時の王、女王はそれを承認した。

 三年に一度の入れ替えで、三十隻の船に分乗して送られた南方派遣兵団は、現在の連隊規模に当たる千五百名の兵士で構成されていた。

 全員が戦場では最前線に立たされた。

 南方派遣兵団には、百名から二百名程度、懲役中の犯罪者も含まれていた。

 彼らは目立つように甲冑ではなく、熊皮を鉄板で裏打ちしたブリガンダインを着ていた。

 敵性兵士を五名ほふれば、軽犯罪のものは無罪とされ、重罪のものも仮釈放の条件緩和など刑の減免があった。

 このため、騎士団からダス彼のクリミネーレス犯罪者ゲシュヴァーダー戦隊と呼ばれた部隊は、極めて果敢に戦い、倒した敵性兵力の首を証拠として狩り上げた。

 そのため、敵性兵力の呼ぶ「熊皮兵」という言葉には狂戦士の意味が込められた。

 戦闘、もしくは訓練によって四肢の機能を失い、あるいは感覚器の機能を欠損した傷痍軍人には、犯罪者兵であれば刑の減免が与えられ、一般兵であれば、生涯の身の回りの世話をさせる使用人を雇えるだけの土地とその土地の収穫から得られる財貨が支給された。

 

 南方派遣兵団の船出が十回を数えた一三四一年、女王の・ヨコセン女王の崩御にともないビャツトッセ一世=フェゼツソツーソ・ヨコセン女王が三十歳にして三代目女王に即位すると、ドイツ騎士団から申し出があった。

 曰く「士官及び士官候補生を任期三年十名ずつの三交代で計三十名、ザキスウェンの地に駐屯させて欲しい」と。

 ドイツ騎士団の主張はこうだった、折角三年掛けて様々な訓練を施し、一人前の兵団となったところで任期が終わり、また素人同然の兵団が送られてくる。

 これでは、任期のほとんどが訓練に費やされるし、ドイツ騎士団側もザキスウェン南方派遣兵団に対する愛着もなく、結果ただただ無慈悲に最前線に送り込むだけとなる。

 実戦経験の豊富な老士官と、貴族の領地から出てきたばかりの新任士官の教育を、このザキスウェンの地で、ザキスウェン国軍の次の派兵予定の士官達を交えて行うことで、ドイツ騎士団と南方派遣兵団の結びつきも高まる。

 そして何より戦乱のつづくリヴォニアの地では、兵団同士の大規模な演習を行ったりすれば、それが元でまた戦乱を呼ばないとは限らない。

 しかしザキスウェンの地であれば、ヨツゾシューベツ北の丘の更に北部にも、いくつか開拓されたままの土地が広がっており、周囲を刺激することなく訓練が可能になる。

 ということだった。

 貴族院議会や九賢人協議の中には、帰還した南方派遣兵団経験者に担わせればいい、など、外の血が入ることに警戒する声も多かったが、基本的には賛成多数で認めることとなった。

 この、三十名は、ほんのわずかな人数ではあったが、ドイツ騎士団ことドイツ人の聖母マリア騎士修道会とは異なる組織として区別され、ドイツ極北十字軍の組織名が与えられた。

 軍団長は名誉職とされ、代々のザキスウェン王、女王がその地位に就いた。

 

 次ぎに、外交が大きく動いたのは五代目国王、ダフゥツ=テフォン・ヨコセン王の時代、一四四四年の時であった。

 ダフゥツ王は、齢い五十歳にして結果的に末女子となるウ・グィスダニィリーヤ=ヴェファソチフム・ヨコセンの誕生に恵まれたが、その段階で九人の子に恵まれるものの、夭折するものが多く、すでに七人の子を失っていた。

 これについては貴族院からも、九賢人協議でも、血筋の濃さを取りざたされた。

 王家以上に、ヨコセン堂とトシセン屋の隆盛は目覚ましく、何度も王妃や王配を輩出してきた。

 それが徒になったというはなしが膨らむと、国内の有力貴族や高額納税を果たす名家から、次の女王の王配にと、幾人もの声があった。

 これこそ、初代国王ムソツヴェファの嫌った国内の混乱だった。

 九賢人協議で、ある一人がとんでもないことを口走った。「女王はドイツ極北十字軍の軍団長と成る身。

 しからば王配はドイツ極北十字軍の名のある家から取ってはどうか」

 これには貴族院議会も驚き、根強く反対意見を唱える家もあったが、不用意に国内の序列を変えずに、中立的な新たな血を受け入れる方法としての評価も高かった。

 結局、国論を二分する議論は、ヨコセン堂とトシセン屋のそれぞれ侯爵家が、「国内の誰とも平等に縁の遠い血筋の受け入れを願う」とコメントを発表したことで、一定の決着を見た。

 ウ・グィスダニィリーヤが十五歳を迎える年に、ドイツ極北十字軍は、王配の候補としてドイツ騎士団の総長を務めるルートヴィッヒ・フォン・エルリッヒスハウゼンの弟で、十歳年下のジルヴェスター・フランク・フォン・エルリッヒスハウゼンを押してきた。

 十歳年下といっても、このときジルヴェスターは三十九歳で中年太りに頭髪も薄いという、お世辞にも「素敵」とはいえぬ容姿であった。

 ただ、粗暴にして知られる兄に全く似ず、幼い花嫁を大事に包み上げるような雰囲気を作るのが得意だった。

 翌年、二人の結婚を見とどけるようにしてダフゥツ王が病に見舞われ帰らぬ人となると、若干十六歳にしてウ・グィスダニィリーヤが六代目女王の座についた。

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