第046話 即位

・リーエ:二十一歳、鬱病に苦しむ徹攻兵、一年生 チーヤの歴史語りの聞き手

・チーヤ:十九歳、リーエの案内役、二年生 ゼライヒ女王国の歴史の語り手



 ムソツヴェファの一党はすでに、鍛冶を営むヨコセン家の由来のものに収まらなくなっていた。

 総勢一万余り、繁忙期に実家に戻らなかったものだけでも五千名余りともなると、多彩な人物が集まっている。

 ムソツヴェファはその中でも、まじめにコツコツ作業に取り組むものに目をつけた。

 ペーフェンの民の土地の最大都市といえるザキ・ス・ウェンでは、日々様々なことが起き、簡単に離れるわけにはいかなくなっていた。

 しかし一方で、年次での徴税や、地元に戻ったもの達への再参集の呼びかけ、あるいは新たな人材の調達など、地方を経巡り、民草と交渉を重ねなければならないことも山のようにあった。

 そこで一党は、北部四州、南部五州のそれぞれに州長しゅうちょうを送り出すことにした。

 主な役務は年次の徴税と、納税高による郡長こおりおさの任命、人材の調達で、副次的な役割として、そこに暮らす人々の間で争議が起きた場合の一次裁定所の役割、傷害など事件に対する治安維持、そして郵便事業の拠点の役割も求められた。

 州長役は必ず二人一組で送り出すこととなった。

 州を南北、あるいは東西に分けて、自分が分担する地域の租税と、相手側の租税事務の確認役、つまり監視が求められた。

 他に五十名程からなる職人の一団をつけ、州庁舎の設営や租税事務の分担に当たらせた。

 

 逆に北部四州、南部五州の中から、特にその州を代表すると思われる上人をザキ・ス・ウェンに呼び寄せた。

 法律の制定のためである。

 初めは、租税法、徴用法から手をつけた。

 そして交戦規定を元とする軍法、改訂によって現代にまでつながることとなった、刑法、民法、商法が用意された。

 ムソツヴェファは、どんなに忙しくとも立法会議には、少なくともその制定の会議には必ず出席し、そして最後にサインを書いた。

 この、九賢人協議はペーフェンの民の国民国家の成立初期の、まだ議会もない中で、様々な立法、裁定、行政指針を決めることになった。

 その、どのような決定事項にも、ムソツヴェファは立ち会い、最後の署名を担った。

 会議の九賢人は、ムソツヴェファの指導力を捨て置かなかった。

 九賢人は密かに、いくつかの法案を作り上げた。

 完成したところで、ムソツヴェファに呈出した。

 それが、王位への即位と譲位、議会の制定する法律を承認することのみ託され否認することができない裁可権などを盛り込んだ、即位のことわり

 王位の継承と議会による退位勧告、王室財産の相続と王族の範囲を定めた王室典範。

 そして、正統な王位を継ぐものの証として、三つの宝を差し出してきた。

 一つは、二メートル四十センチの刀を槍頭として、三メートル二十センチの鋼鉄製の柄を継いだ斬魔槍、その名即ち「ゼファ・ボッセムラーザ神殺し」。

 一つは、特に格式の高い儀式や、即位の式に用いる香木の一品、その名即ち「タン・ニャ・サフィ東の果て」。

 一つは、薄く赤みを帯びた真珠が、伸ばした舌を逆巻きに丸めた宝玉、その名即ち「ジ・ギザー・カーヘン霊獣の逆鱗

 

 九賢人から即位を迫られた時、ムソツヴェファは最初「お心遣いはありがたいが、がらではない」と答えた。

 この遠慮はたしなめられた。「もはや時代はお主の働きによって動き始めておる。

 誰かが最高司令官として、この土地の代表としてまとめなければ、烏合の衆となりいずれ霧散する。

 それだけならまだいい。

 なまじ武装と集団戦闘を覚えだけに、戦乱の土地となることもあり得る。

 ムソツヴェファ、お主が王と成り国をまとめかし」

 ムソツヴェファは、少し時間が欲しい、というのが精一杯だった。

 

 ヨツゾシューベツ北の丘は、切り開いてみるとザキ・ス・ウェン全体の三倍ほどの大きさがあった。

 ほど良く北西側に頂点があり、なだらかに南東側に下る丘で、所々からわき水も出た。

 木こりや大工といった職人達による、森林の開拓が一通りの区切りをみせると、石工達の出番と成る。

 丘の形に添って、北北西の角から東北東の角に向かって低い石垣をつくり、春の洪水がきたときの擁壁となるように整えた。

 その外側の枯沢を掘り下げ、簡易的な空掘りとした。

 将来的には、新しく開拓したヨツゾシューベツ北の丘全体と、ザキ・ス・ウェンを城塞で覆い、城塞都市としての機能を高めるべく、外側には水堀を掘る構想があった。

 開拓してわかったことだが、丘の頂点の北側に、三つの巨石をくみ上げた遺跡があった。

 やや縦長の巨石三本で、三角錐の頂点を作ろうとするその形は、自然にできあがるものではなく、古代の民の英知を感じさせるものだった。

 ムソツヴェファはその巨石に祈る礼拝の場を巨石の南側に作ると同時に、自らも毎日の朝夕、巨石に祈った。

 丘を囲む城塞は数世代、世紀を超える取り組みとして黙々と毎日拡張されていった。

 平行して、城の内部を固める建築物の取り組みが始まった。

 城の縄張りを定める内堀は、丘の頂点から、右回りに拡大し、最後に大外堀につながる配置が選ばれた。

 丘の頂点には、土塁と石垣で基礎を固めた物見櫓、狼煙櫓としての機能を持つ天守楼が設けられた。

 天守楼の西隣には、九賢人が協議を行う「賢人議事堂」が設けられた。

 そして天守楼の南には、柱のない大講堂が組まれた。

 これは、取り急ぎとしては、ソー・ネ・ザキザキの入り江に敵襲があった場合に、ザキ・ス・ウェンからの避難民を受け入れる場所であり、ゆくゆくは国民の代表を集めた議事堂としての役割を期待された建築物であった。

 

 天守楼の落成は、時に救世主教歴一二五九年の春。

 その年の夏、ムソツヴェファと九賢人は、海外に派遣していた三人の使者を迎えた。

 三人は一二五四年の第二次シュラヒト・フォン・ザキス・コーフザキの入り江の戦いの後に、ニケアに亡命政権を立てていたローマ帝国に送り込み、救世主教は古典教会オーソドックスの洗礼を受けてきたものだった。

 いずれも元々、名のある土地の上人で、九賢人とも縁があり、無事の帰国と再会を喜んだ。

 そしてその年の八月一日、ムソツヴェファは三使者より古典教会オーソドックスの洗礼を受けた。

 次いで、九賢人も三使者より洗礼を受けた。

 これまで、伝統的なペーフェンの民の生活とは別に、我が道を行くといわんばかりに活動してきたムソツヴェファの一党と九賢人だったが、ムソツヴェファが救世主教の洗礼を受けたことは口づての噂として、わずか三日で北端の集落まで伝わった。

 ただ、ムソツヴェファも九賢人も、ヨツゾシューベツ北の丘で行われている各々の工事を見回りながらも、朝夕の巨石への礼拝を怠らなかった。

 そして洗礼から一週間後、九賢人の式辞に乗っ取って、ムソツヴェファは三種みくさ神宝かんだからを授かり、そしてその至宝の意味する「ペーフェンの民」を守るものとして世襲の王位に就いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る