第045話 徴税

・リーエ:二十一歳、鬱病に苦しむ徹攻兵、一年生 チーヤの歴史語りの聞き手

・チーヤ:十九歳、リーエの案内役、二年生 ゼライヒ女王国の歴史の語り手



 全ての手続きを終え、ドイツ北方十字軍騎士団遠征軍の艦隊を送り出すと、ムソツヴェファは乗馬のままザキ・ウェンの取引場に入る。

 彼の登場は、大きな歓喜の声につつまれた。

 やらねばならぬことは、膨大にあった。

 ペーフェンの民はこの、緩やかな丘が急峻な山岳に囲まれた地で、大きな意味での一族意識と、村落、集落単位での大きな家族意識を持っていたが、国民国家という意識はなく、中央政府というものもなかった。

 「我々は、一つにまとまらなければならない」

 ザキ・ウェンの取引場は全国から商いにいそしむものが集まるので、話しを地方隅々に拡げるとっかかりとしてはちょうど良かった。

 ムソツヴェファは、今は老夫婦しか棲まっていない元大商館だった建物を借り受けると、実家の工房、ヨコセン堂の経理を担う兄弟弟子を中心に、事務所を構えさせた。

 北部諸村落で最も大きいヴァルツィリヤの一帯は広い意味で別名ヤー・ウェンとも呼ばれ、それがそのまま北部諸村落を示す言葉でもあった。

 ムソツヴェファは北部諸村落を回って話し込んだ。

 村落、それぞれに神々が有り、言い伝えがあり、住まい方があった。

 いきなり、統一国家というのは無理もあった。

 ペーフェンの民の多くは、何らかの農耕に携わって生活を成り立たせていた。

 ムソツヴェファはペーフェンの農耕が農閑期を持つことと、末子総相続の伝統に目をつけていた。

 

 ペーフェンの、特に北部で良く口にされることわざに、「貧乏人の土地子分け」という言葉がある。

 ほとんど同じ意味のことわざに、「親なき後の畑分け」という言葉もある。

 また、愚か者、と誹る代わりに、子分け者、とののしることがある。

 ペーフェンの民の土地は、ピ・ソテーヱン氷の神のゼム・フェヴァッケンム目覚めのゼム・ヲフィヤミョフィヱンによるブトーマー・ヴェツフ・フィル・ヨツゼン北の大山に蓄えられた肥沃な腐葉土の浸出と、秋までの期間を通じて雪解け水が清らかに流れる岩清水に恵まれて、人が手を入れないと自然と森になる性格を持っていた。

 森には、様々な動植物が宿り、中には、熊や狼といった直接人間の脅威となる生き物も、鹿や猪といった農害を与える動物も棲まう。

 それらを退けて、数十年、数百年もかけて木々が根を張り巡らせた原生林を開拓するのは容易なことではない。

 いきおい、大家族の方が開墾に有利であり、農地を大きく拡げた。

 人々はクツム・フィン・ゼファ・リッセ中つ川の河岸に始まり、山の手に向かって地形を探り、丘の天辺てっぺんを見つけては、そこから開墾していく。

 しばらくは良いのだが、それを繰り返すうちに、各一族の土地がまだらにばらばらとなる。

 同じ農作業をするなら、土地は隣り合ってる方がなにかと管理しやすい。

 そこで一族同士の土地交換の話し合いがなされる。

 その時、代表となる一族の長は、末子系の末子がつとめるのがペーフェンの民の習わしだった。

 どの家庭でも、長子、第二子の養育は、親にとって手探りの中での教育となる。

 自然、親とそりが合わずに育つものも多い。

 それが、三人目の子育てとなると、親も子供のあしらいがうまくなり、なにかと親や、兄姉けいしと折り合いをつけるのがうまい子が育つ。

 また、寿命の面でも、一族の系譜を長く保つに有利する。

 末子相続とはいえ、やはり男子が好まれ、末男子の下に二人程度女子がつづく場合は、末男子が一族の私産を受け継いだ。

 末男子の下に三人以上女子がつづくと、一族によっては女子が総私産を引き継ぐこともあった。

 ペーフェンの民の婚姻では、男性側の名字を継ぐことがほとんどだった。

 名字は、出身地から離れて暮らす時に、元々の出身地を名乗ったり、家族がある程度大きくなった時に、その家長が営む職業から取られることが多かった。

 男性が、婚姻によって女性側の一族に婿入りする時は、相手の女性が自身の一族の末子で、私産を全て受け継ぐため、その女性を支援する配偶者として女性側の名字の他に家族名を継ぐ習わしだった。

 家族名は基本的に、祖母の名前と母の名前を繋げて、腹から腹へと命が続いていくことを示していた。

 その場合でも、あくまで一族の代表は末子である妻側であり、そして一族の財産を左右するのも最終的には女主人の役割だった。

 

 このため、長男の長男のそのまた長男の家族となると、一族の中で農奴に近い扱いを受けるものも多く出た。

 そういった家庭の子は、幼くしてその才を目にかけてもらえると、職人の元に奉公に出て、石工や仕立て師になるものもいた。

 その才もないものは、一族の下男、端女として本家筋の家事から含めてなんでもやらされた。

 とはいえ、世代を経た家系ともなると、長子孫の筋の家も増えてきてしまい、割り振る仕事もなくなってきてしまう場合がある。

 それでも、一族の長として、各家庭に冬が越せるだけの食料を分け与える必用がある。

 これが、役務に就いている家と、役務からあぶれてしまっている家で、同族内での不公平感を生む要因になってしまっていた。

 

 ムソツヴェファとその一党は一族という単位ではなく、家族という単位に目をつけた。

 

 南のドイツから救世主教徒の軍団が攻めてきていること。

 軍団は徐々に規模を大きくしており、時には、数百隻の規模で一国、一地域を攻めることがあること。

 救世主教に改宗させられたら、いまのペーフェンの民が大切にしている古の神々への祈りが否定されること。

 救世主教徒として教会に税を納めねばならず、その税は遠くローマの教皇を潤すために使われること。

 これに対向するために、我々は国家としてまとまらなければならないこと。

 金を出せる家は金を、金を出せない家は人を出して欲しいこと。

 課税単位は、人一人が一年間に食べる量の一石(六十キロ程度)の芋と、半石(三十キロ程度)の野菜類のその年の相場から決められること。

 他家よりも、最も多く納税した一族が、その集落、地域の郡長こおりおさとなること。

 

 これを説いて回ったのだが、必ずしも素直に受け入れられたわけではない。

 特に、家族単位としての負担を求めたことに、各一族の宗家たる族長からの反発が強かった。

 曰く、分家筋のあれこれは宗家が決めることだ、と。

 逆に、分家筋からはあからさまな態度には表れなかったが、好感された。

 本来、武具や馬を揃えられる本家筋しか参加出来ない国防を、体一つで担えるのは、経済的に本家筋から離れる道とも受け止められた。

 最後には、武力を持って説得することとなった。

 有力氏族の同意を得られない集落、地域には、ムソツヴェファの一党が乗り込み、一党の中から群長むれおさとしての人員の指定や、納税額の指定をするというと、どの集落も、自分たちに任せて欲しい、と答えてきた。

 こうして、ヤーの丘とも呼ばれる北部四州、五十ばかりの集落の説得を終えると、やがて、ゾウモンの丘とも呼ばれる南部五州、六十ばかりの集落の説得を終え、百十の集落から集まる軍団の長として、ザキ・ウェンに乗り込む。

 この時、ムソツヴェファの一党は三百名ほどの女性を含む、一万名余りの大勢となっており、糧食も四万三千石を超える量になっていた。

 

 商都として街の機能が完成してしまっているザギ・ス・ウェンは、丘の頂点に構えられた市場会館を中心に、街区を、継ぎ足し、継ぎ足しで育ってきた街の経緯があり、いわゆる計画都市の碁盤の目のような大通りの組み合わせはなく、ある種迷路にもにた町並みの複雑さを持っていた。

 そして、街の南側、緩やかな丘の中腹から湧き出す湯量の豊富な温泉。

 その温泉を使った市民大浴場。

 その先には、湾としては南端から北側へと、奥に進むにつれ複雑に入り組んだソー・ネ・ザキザキの入り江がある。

 逆にフィンランド湾からソー・ネ・ザキザキの入り江への入り口以外は断崖に覆われており、大小の暗礁も多く、容易に接岸を許さない。

 自然、海峡のようになっている、細長いクゥル・イ・ザキザキの水道を通ってソー・ネ・ザキザキの入り江へと辿り着く。

 

 ムソツヴェファの一党には、石工や大工、仕立屋や織物職人、調理師や杜氏、鍛冶や木組み職人など、多様な経験を持つものが加わっていた。

 その中でも、土木工事の経験があるもの数名を連れ出し、ザギ・ス・ウェンを広い視点で見た場合の防衛計画を立てた。

 ムソツヴェファの一党の目的は、国民国家の樹立と、国家としての防衛軍の成立にあったため、ザキ・ス・ウェンから南に広がる港湾部の守りを固めるのは、一丁目一番地の大仕事だった。

 一党は結局、ザキ・ス・ウェンの市場会館の北西、クツム・フィン・ゼファ・リッセ中つ川の西岸にある丘が森で覆われているため、その丘の開墾から着手した。

 もともと地元では、クツム・フィン・ゼファ・リッセ中つ川の東岸と西岸の区別なく、誰とはなしに「北の森」と呼ばれていたが、開墾が進むにつれて、ザキ・ス・ウェンよりやや高いことがわかり、いつしか、手つかずの東岸は「北の森」のまま、開墾された西岸は「ヨツゾシューベツ北の丘」と呼ばれるようになった。

 ペーフェンの民の土地はおしなべて、人の手の入っていない土地は短くとも数百年を経た森となっていた。

 開墾する一番の力仕事は切り株として地に残った木の根を掘り起こすことだった。

 一族経営で開墾する時の一番の難関ではあったが、ムソツヴェファの一党には頭数があり、みるみるうちに丘の姿をあらわにしていった。

 切り倒した木々は、将来の城塞建築に向けた材木用として、木こりや大工の覚えがあるもの達によって加工されていった。

 

 ムソツヴェファの一党、一万名余りの人員を泊めおく程の旅籠はたごはなく、一党は、地元の人々と相談し、開いている土地に天幕を張った。

 さすがにザキ・ス・ウェンの町並み付近だけでは収まらず、天幕は海岸地域にまで及んだ。

 そのため、ヨツゾシューベツ北の丘の開墾が進むと、木組みだけの石を使わない、取り壊しも容易な寝所が作られた。

 石材は、クツム・フィン・ゼファ・リッセ中つ川の河口近くから枝分かれする支流の一つがクツム・フィン・ゼファ・リッセ中つ川の東岸から東の方角に延びており、四十キロほど遡った所に石切場があった。

 その石は硬かったが、楔を丁寧に使うことで、思い通りの形、大きさに割り取ることができた。

 川沿いのため、舟運を使えるのも都合が良かった。

 ムソツヴェファとその取り巻きは、各方面の調整に奔走する毎日だった。

 農閑期が終わってしまうと、里に戻って実家の手伝いをするものと、「戻ってもすることもないので」と残るものが出てきた。

 調度、半数が里に戻り、半数の五千名が残った。

 この五千名が、ゼライヒ国防軍の遠い由来となった。

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