第041話 先史時代

・リーエ:二十一歳、鬱病に苦しむ徹攻兵、一年生 チーヤの歴史語りの聞き手

・チーヤ:十九歳、リーエの案内役、二年生 ゼライヒ女王国の歴史の語り手



 前日よろしく、着甲し朝食を済ませて着甲室に戻ると、椅子と机とホワイトボードを整える。

 チーヤが口を開く。「さて、今日はゼライヒの歴史です」

 そして不敵に笑む。「歴史はね、得意なのよ」

 そういうだけあって、実に饒舌だった。

 

 ゼライヒにおける、人類の定住の歴史はいささか浅い。

 というのも、定住するには農耕が求められてくるが、ゼライヒの場合、春の洪水が全土を洗い流してしまうため、土木技術の低い住居や建築物は、一切が流されてしまうのだ。

 それでも、紀元前三世紀頃に、謎の民族が移り住んでいたことが考古学的研究から判明している。

 彼らが、独自の文字を持っていたこと、鉄器の製造技術を持っていたことだけがわかっている。

 独自の文字は石版に掘られ、およそ南部ゼライヒより多く出土する。

 十九世紀の民俗学者ゴツクバンブ・ハビューヴァが比較的全文が残っている石版に遺されている碑文の解析に成功した。

 これは、北欧諸国に広く伝わる「高貴な狼の詩」であることがわかり、ゴツクバンブはその後、最初の出土地の地名から「ホツ・マヲシ・テ文書もんじょ」として知られる多数の文書の解析に成功している。

 ただし発音はわからず、隣国フィンランドのフィン語の方言ともいわれるカレリア語の古い外来語に、一部の発音が隠れているとされている。

 また、紀元前二八〇年頃のイタリア半島南端、ターラントの地で繰り広げられた「タレントゥムとの戦い」で、ローマ側に意匠の異なる槍が複数存在し、近年の科学的な組成分析の結果から、ゼライヒ中央部の鉄であることがわかり、謎の民族は、欧州諸地域に武器の輸出をしていたことがうかがえる。

 また、その出土品から、鋼における炭素量を用途に応じて調整していた傾向が伺え、当時の水準で高い冶金技術を持っていたことがわかる。

 住居跡が全くといっていいほど残っておらず、高身長で巨人属のモデルとなったとも、低身長でドヴェルグのモデルとなったともいわれており、実像は定かではない。

 ただ、巨石信仰があったようで、ゼライヒ各地に、巨石を組んだ祭祀の場が遺されている。

 その謎の民が去るなり滅ぶなりした後は数百年にわたり、捨てられた地となり、天然の王国となっていた。

 何しろ地域の三方を、急峻で山頂付近には万年雪につつまれた永久凍土を持つ山々に囲まれ、南部の海岸線も、崖がちで波が荒く、船を寄せる隙がなかった。

 唯一、最奥部にザキの丘を擁するソー・ネ・ザキザキの入り江は、丘より豊富に湧き出す温泉が流れ注ぎ、毎年一月頃、恒例のようにフィンランド湾全体が凍結しても、ソー・ネ・ザキザキの入り江だけは凍らない港を作った。

 そのため、人の入植はいつもソー・ネ・ザキザキの入り江からだったようで、ゼライヒ南部には、西暦七百年前後に、一度ゲルマン系の民族が入り、そして衰退したことを示す考古学的遺跡がのこされている。

 その後、西暦九百年頃、いわゆるヴァイキングの時代に入植が計られたが、もとより舟運を得意とするヴァイキングの民にとって全ての水路が、山々によって閉ざされたこの地は使い勝手が悪く、短期間で放棄されたことが、これも発掘調査より理解されている。

 そんな、捨てられた土地に、北のフィンランド(スオミ)や南のルーシとも異なる言語体系、風習をもつ謎の出自の民族、ペーフェンの民が、入植したのがちょうど西暦一千年頃。

 ゲルマン系とヴァイキング系により二度栄え、そして二度寂れたこの地にペーフェンの民が移り住んだことにより、この地の今に連なる歴史が始まる。

 

 そもそも隣国フィンランド自体、その独特の言語体系で周辺諸国と異なる、「難解な言語を話す民」として扱われるが、それでも大きなくくりの中で、ウラル語族に類される。

 そのフィンランドに根付くスオミの民からして、「ゼライヒの民は何を話しているかわからない」と揶揄される。

 ゼライヒ語は、基本語形が名詞を修飾する形容詞の意味を持つ。

 その形容詞に音を付属して名詞化し、あるいは別の音を付属して動詞化する。

 格変化も複雑で、例外も多く、時代を経て外来語を取り入れることが増えても、ほとんどの場合において、自分たちの発音に読み替えるか、近い意味の言葉から造語して取り込む傾向があり、周囲からの評判だけでなく、自らをして「孤高の民」としての振る舞いを好んできた。

 

 ペーフェン人は移住当初より高い治水技術、土木技術を発揮し、春の洪水を前提とした建築物、土塁や遊水池などを整備し、一世紀と待たずして、北部ゼライヒまでの全国土を居住地とした。

 また、同時期に古代ゼライヒ人と替わらぬ高い冶金技術を用いて、鉄剣や、槍などの武器、鎖帷子といった防具だけでなく、車軸や車輪、農具、馬具など、日用品にもその高い技術を応用し、この土地での流通を整えた。

 元来、北の土地では農作物の実りが薄く、他国の人々は狩猟や漁を生活のかなめに置くことが多かったが、ペーフェン人は、自ら持ち込んだと思われる、北方サツマイモ、北方茄子、北方トマトといった品種を中心に、農地を開拓し、農業に根付いた生活を始め、定住者としての地位を揺るがぬものにした。

 ここに、一つの謎があった、茄子は東インド、トマトは南アメリカ、サツマイモは中央アメリカをそれぞれ原産としている。

 いずれも、温暖な気候に根ざす作物である。

 たとえばサツマイモなどは普通、痩せた土地であるほど根塊こんかいを大きくし、肥沃な土地では蔓ばかり伸びて根塊が太らない性質を持つ。

 ゼライヒの北方サツマイモは、ゼライヒの北の大地でもよく根を張り、そして肥沃な土地でこそ、根塊も蔓や葉もよく茂らせた。

 一体、どのようにしてそれらの品種を手に入れたのか、まるでこの地に来る事を用意していたような植生の適性。

 そして巨石信仰。

 ペーフェン人は古代ゼライヒ人が遺した、巨石を組んだ祭壇跡を壊すことなく、大切に守り、守り屋を構えると床の代わりに玉砂利を敷き詰め、祈祷台と呼ばれる、膝をついて前を向いた時に、肘を立てるのにちょうどいい大きさの石を並べ、聖堂として、人々がその気が向いた時に祈りを収める場として整えてきた。

 

 これらのことから、ペーフェン人はこの地を一度離れた古代ゼライヒ人が、東欧州から中央アジア、インド亜大陸、ヒマラヤ、東アジア、ベーリング海峡を抜けて南北アメリカを経巡へめぐり、北大西洋のグリーンランド、アイスランド、フェロー諸島をわたって、再びこの地に戻ってきた民族なのではないか、と考える向きもある。

 

 この考えには、何の根拠となる考古学的資料も、文献的史料もなく、少し、浪漫ろまんあふれる「お話し」の一つとしてしか取り上げられない。

 その説の否定的な要素としては、ぺーフェン人が、典型的な北欧人種の容姿であることが上げられる。

 背が高く、掘りがはっきりしていて、髪と瞳の色は薄く、寒さに強く暑さに弱い。

 いわゆる金髪碧眼の数も多く、黒髪は異国情緒溢れるクールな特徴としてもてはやされる。

 入植から二世紀を待たずして、人工を十数万にまで増やしたと見られ、そもそもの入植の段階で、数千人の一団だったと思われる。

 そのような一団が世界を移動すれば、他国の歴史に何らかの形で跡を残すはずだが、それもない。

 また、そのような一大旅団が移動すれば、その先々で混血の子を取り込むことも想像されるが、二十一世紀の現在に至るまで、見事に単一民族、単一人種としての国家を形成しており、少しでも容姿の特徴があるものは、異邦人として丁寧に、且つ疎遠に扱われ、恋愛や婚姻の相手と考えられることはほとんどない。

 

 そんな、孤高にしてのどかな生活を送っていたペーフェンの民に事件が訪れたのは救世主教歴一二五五年の六月。

 三隻の大型のコグ船が、マストの先に白地に黒い十字の旗をなびかせて、ソー・ネ・ザキザキの入り江に侵入してきた。

 ソー・ネ・ザキザキの入り江には、漁師の使う荷揚場を除けば、大型船の停泊する桟橋などなく、コグ船は沖合に碇を下ろすと、さほど広くもない砂浜に押し上げてきた。

 三隻の船からは、胸から腹と、頭だけ鉄板を用いた防具を装備した下級騎士による工兵隊が、背丈を超える大型の盾を両手で掲げ砂浜を上がってくる。

 やがて盾兵に隠れるように同じ武具を着けた工兵隊が、丸太を荒縄で縦横にくみ上げた板状の、いかだのようなものを次々と船から運び出す。

 

 穏やかな浜辺が、瞬く間に緊張感につつまれた。

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