第039話 地理と風土
・リーエ:二十一歳、鬱病に苦しむ徹攻兵、一年生
・チーヤ:十九歳、リーエの案内役、二年生
リーエに着甲させて朝食を取ると、普段四年生が対応する四階の廊下をてきぱきと掃き掃除をして、着甲室に戻る。
壁際に並べてある長机の一卓を部屋の中央、照明の下に据えると、椅子を二脚、向かい合わせに置く。
そしてチーヤの後ろにはホワイトボードを用意すると、いよいよチーヤによる特別授業が始まる。
「まずは、リーエの当たり前もあると思うけど、この国の地理と、地理的特性から説明するね」
チーヤはそういうと、スカンジナビア半島から白海、そして反対に北海からバルト海、フィンランド湾までをおおまかに描く。
海岸線を描くチーヤの筆は
「私達の国は、北欧の海の行き止まり、フィンランド湾の奥にあります」そう、チーヤの講義は始まった。
ゼライヒ女王国は、古くは北欧、東欧の国々と同じくヴァイキング族によって開かれたこともある土地の一つだった。
地殻変動の影響で、フィンランドとロシアの間に産まれた、北東から南西に平行して連なる二つの山脈に挟まれた土地が、おおよそゼライヒとフィンランド、ロシアとの国境を作っている。
四千メートル後半の標高を誇る二つの山脈「
二つの山脈の北端は、まるで蓋をするかのように、更に標高の高い、雪深い
一方南端は、ほぼ東西に延びる崖がちな海岸線で構成される。
西暦七百年前後に、一度ゲルマン系の民族が入り、そして衰退したことが考古学的考察から理解されている。
その後、西暦九百年頃、いわゆるヴァイキングの時代に入植が計られたが、もとより舟運を得意とするヴァイキングの民にとって、唯一の港である
そんな、捨てられた土地に、北のフィンランド(スオミ)や南のルーシとも異なる言語体系、風習をもつ謎の出自の民族、ペーフェンの民が、ゲルマン系とヴァイキング系により二度栄え、そして二度寂れたこの地に移り住んだことにより、この地の歴史が始まる。
西暦一千二百年代に、現代のゼライヒ女王家につながるムソツヴェファ=ヴェファヤツゾ・ヨコセン大公が、ヤーの丘と呼ばれる北部ゼライヒより興り、ゾウモンの丘と呼ばれる南部ゼライヒをも統合し、温泉が湧くことを意味する
ペーフェンの民には、母系の血筋を重んじる風習があり、ムソツヴェファ大公も、全土統一に当たっては、南部の豪族より妻を迎え入れ、その後、子宝に恵まれたムソツヴェファ大公は、自らの女児を各地の豪族の妻とすることで、血族関係によるゼライヒ全土の支配を確実なものとした。
こうしてまとまったゼライヒの国土は、まるでコの字をめいっぱい横に伸ばしたような、ほとんど直線的な山脈の連なりにそって国境線を作り、南岸だけ、コの字を左斜め上に切り上げた形を取る。
欧州の歴史は陣取りゲームの歴史であり、国境線は右に左に、上に下に、前に後ろにと揺れ動き続けていた。
しかし隣国フィンランドがスウェーデンの土地であった時代も、千八百年代初頭の第二次ロシア・スウェーデン戦争によって、ロシアの保護国フィンランド大公国となった時代も、第二次世界大戦のさなか、枢軸国側のフィンランドと連合国側のソヴィエトでの戦争により、周囲のカレリアの地がフィンランドからソヴィエトのものとなった時代も含めて、頑として国境線の変更を許さなかった。
そのため、「フィンランド湾に差し込まれた剣」あるいは土地の古名を取って「カルヤラのくさび」と呼称されることもある。
山々に囲まれた土地ではあるが、急峻な山々は稜線からわずかの距離で麓へとかわり、なだらかな丘を形成する。
山岳部を除いた国土そのものはかなり平坦で、窪地には湖や沼が生まれ、少し盛り上がった土地は集落となり農地となる。
季節により西風や東風が吹き込んでくるが、春、夏は、高度を降ろした偏西風が、「
そのため、急峻な北の大山がそそり立つ相当北限の地まで、農作物の栽培が行われる。
基本は重要な炭水化物源である北方サツマイモを中心に、北方茄子、北方トマトやズッキーニ、パプリカなどが作られている。
リンゴや桃、栗やクルミといった果樹は、比較的土地の起伏が大きい北部で熱心に取り組まれており、対して南方では空豆や大豆などの豆類の作付けが良く行われている。
葡萄酒の元になるブドウは、その実を搾って作られるワインとともに、南部の名産品となっている。対して北部はイモを使った蒸留酒や、蒸留酒に果実を漬けた果実酒が、村落それぞれの味わいのある特産品となっている。
二つの平行した山脈の中央、つまり国土の中央を、国土の北から南まで流れる「
鉄分の多い土地柄から、河畔に赤みを添えることことがあり、古くから、高い冶金、鉄鋼業の技が輸出の一角を支えている。
南東の擁壁と呼ばれる山脈には杉が密集するように生い茂り、歴史上の様々なシーンで大国ロシアからの侵略に耐えた。
対照的に北西の山脈には様々な落葉樹が生い茂り、標高の低い土地では寒さに強い品種限定ではあるが、多様な果樹園が営まれている。
国境線も、北のフィンランドとの国境線が、北西の山脈の稜線に基づくのに対し、南のロシアとの国境線は南東の擁壁の麓までを含める。
北の山脈も同様で、ロシア側に向かって急峻な崖としてそそり立つ北の大山は、ロシア側としてもなかなかに手が出せず、その崖下の麓までが国境線となっている。
北の大山の南面は国境線側とはいささか対照的になだらかな等高線を描き、いくつかの渓谷の流れが、中つ川の支流となっている。
その麓はブナや北木楢が生い茂り、夏には山肌を覆い尽くすほど葉が茂り、秋には落葉とともに大量のドングリを落とし、それらは冬の寒さの中で発酵し、植物への滋養豊富な腐葉土となる。
秋から冬にかけては、高度を上げた偏西風が、「
高緯度地帯の例に漏れず、秋から最高気温が氷点下の日が多くなり、湖沼は凍り、一度降った雪が残るその上に雪が降る。
中でも、偏西風を直接受ける
そして春。
西から吹き込んできた風が「
雪解け水は大水となって麓の土壌を綺麗にさらい、幅約七十キロにおよぶ洪水となってゼライヒの国土全土を水浸しにして、ようやく南端の首都、ザキ・ス・ウェンの手前で中つ川に収束し
この洪水はいわば、全体的になだらかな国土を、幅七十キロの湖が、ゆっくりと北東から南西へ移動していく形をとる。
この洪水に難儀したため、ゲルマン人やヴァイキングはこの土地を放棄することになったが、ペーフェンの民はこれを神の祝福と捉えた。
自らの伝承にある
低みに貯まった汚泥は、においこそ強いものの、作物の成長を促す肥料が全土に行き渡るまたとない機会で、丘陵を隔てる道路や窪地に貯まった腐葉土を、スコップを持って丘の上の農地に運ぶのが、ゼライヒの春の風物詩だった。
この、春の洪水が肥沃な大地を生み出す結果、作物は豊富に取れ、中でも北方サツマイモは、腐葉土を得てよく太るだけでなく、葉や茎はビタミンを多く含み、主食として、副菜として、多くの郷土料理に使われている。
この結果、国土面積はバルト三国の最小国エストニアとほとんど変わらない、約四万五千平方キロメートルながら、人工は隣国フィンランドにも並ぶ、約五百四十一万人を擁する。
その構成要素は九十九パーセント以上をペーフェンの民が占め、ドイツ人、ロシア人、フィンランド人など外国人の割合は著しく低い。
国教は東方正教会の流れをくむゼライヒ正教会で、国民の九割以上が自分のクロイツを持つ。
他方、ゼライヒ女王家の始祖であるムソツヴェファ大公を輩出したヨコセン家は熊の神の八代後の子孫とされ、初代王妃のファンルシワエファ・ファンワツケ・トシセン殿下を輩出したトシセン家は狼の神の七代後の子孫とされていた。
このことから土着の精霊信仰に基づく民族風習を続けるものも多く、特殊法人精霊本庁に寄れば、国民の九割五分が精霊の子を自称するとされる。
高緯度地方の土地柄、気温は低くはあるが、四季がはっきりしている。
三月、中旬に訪れる洪水。
四月、一年生の野草ヱロイタの青き花が南から北へと次々開花し、多様な作物の作付けが行われる。
五月、流水による沼湖の水の浄化。
六月、ヱロイタの淡い青の綿毛が飛び交う夏の始まり。
七月、フェーン現象の暑さと、平坦な地形が産む遠浅の湖の織りなす湖水浴。
八月、精霊をお迎えする「先祖の日」の祝い。
九月、八花弁の花をつけるマフタの花の開花と花吹雪。
十月、収穫と早くも届く雪の足音、
十一月、国土の北から雪に覆われてゆく、雪かきのシーズンの始まり。
十二月、救世主教の生誕の教えと、精霊のもたらした一年の恵みに感謝するヨルルの祭り。
一月、その年の精霊を迎える年越しの祭り。
二月、最後の雪の降り積もる、灰色の空の日々。
国旗は、横縞の三色旗、一番下が洪水のもたらす黒土の黒、真ん中が中つ川の河岸を彩る赤、一番上が北サツマイモや北小楢の葉の色を表すはっきりとした緑。
旗の中央には斜めに組まれた剣と弓の上に重なる淡い綿毛の盾。
盾の中には右手に立ちあがる熊、左手に立ちあがる狼が刺繍され、八花弁の大小三つのマフタの花を支える。
そして盾の上、緑地の真ん中には金糸で八端十字架が刺繍される。
チーヤは、ホワイトボードの前で国旗の説明をこう結ぶ。「とまあ、ゼライヒの国旗一つとっても、この国の地理的特徴とよく結びついているの」
リーエは大きくうなずく。「今まで、もやがかかったまま聞いていた話しだったのですが、チーヤさんの説明で一つ一つが整理された気がします」
チーヤは時計を確かめながら微笑む。「それならよかった。
ちょうど、晩ご飯の時間だし、このまま晩ご飯食べて、今日は終わりにしましょう。
それにしても」
リーエがたずねる「それにしても?」
チーヤは優しく微笑む。「今日も、月が綺麗だわ」
曇り硝子の向こうは、ささめ雪の細く振る夜空で、たとえ見上げても月の位置すらわからないことは室内にいてもわかる。
そしてチーヤの言葉の真意も、リーエにはまたわからずじまいだった。
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