尊い弱さ
「誰? 誰なの? なんでここが分かったワケ?」
「──黙れ。口を閉じろ」
「っ」
「お前は……私の腕の中に手を出した。償いを受けてもらう」
先程とは一変した口調と立ち振る舞い。黒衣が顔を隠していたフードを取り、自らの素顔を晒すのと同時にヘレンはナイフを構えた。
「獣人……!」
小麦色の髪の上には獣のような耳が二つ。平常時であれば穏やかさを感じさせるだろう下がり目でヘレンを強く睨みつけるその視線には、誰が見ても分かる感情──怒りが込められていた。
「は、は……なるほどね。そういえば、獣臭かったかも。アンタにとってはよっぽど大事っぽいね、それ」
「……」
「イイ……イイよっ! 人間の体の中身も、そろそろ飽きてきた頃だからさっ! 次は……獣人って事でっ!」
ヘレンが動き出した。残虐な本性を言葉として吐き出しながら、表情から怒りさえも消え去った黒衣へと向かって。
「臓物見ーせてっ!」
右手でナイフを振り上げ、一直線に駆ける。距離は元々短い。すぐに両者の距離は縮み、ヘレンは振り上げたナイフを黒衣の腹へ──。
☆
「──はっ!?」
振り下ろした筈だった。ヘレンの視界は突如切り替わったように光に塗り潰されたような光景へと変貌する。
「え……えっ?」
『やっ……やめてくれえぇぇぇぇっ!!』
「こ、これはっ!?」
目の前を流れていく映像と頭に響く音声。それをヘレンはよく覚えていた。
「ジャック!」
初めてヘレンが手にかけた男、ジャック。悲鳴や呻き声といった多種多様な声と反応は、ヘレンの記憶に鮮明に刻まれている。
「ハンサ!」
身体中が穴だらけになっても中々生き絶える事無く、掠れた音と声を響かせ続けた男、ハンサ。
「ペローとガラン!」
趣向を凝らした仕掛けの中でお互いを蹴落とし合い、両者共に醜い死に様を見せてくれた二人、ペローとガラン。
「な、なんで私の愛しい記憶達が? ……そうだっ、私は今あの獣人と戦って──」
☆
「あがっ……!」
ヘレンの意識が現実へと帰った時、その顔面は上を向いていた。顎を起点に頭部を襲った衝撃で意識を朦朧とさせながら。
対する黒衣は向けられたナイフの軌道を左手で腕ごと掴む事で逸らしていた。そして、空いた右手の掌は天を向いている。
掌底。掌を使ったかち上げが、ヘレンの顎を射抜いていた。
「そ、走馬──ああああっ!?」
間髪入れず、黒衣は掌底後の自身の右手の肘をナイフを持つヘレンの腕へと振り下ろす。骨が砕ける音と共に、激しい痛みによってナイフが手放された。
「──ごげっ!?」
武器を失い、無防備になったヘレンの腹に黒衣の膝が突き刺さる。反射的に蹲ろうとする体は即座に掴まれ、宙を浮く。そして僅かな浮遊の後、ヘレンの五体は地面へと投げ飛ばされ、叩き付けられた。
「……」
「下衆が」
凄まじい衝撃を背中に受けピクリとも動かなくなったヘレンを黒衣は一瞥し、すぐさまマルクの下へと向かった。ヘレンが落としたナイフで縄を解き、その手を握る。
「──マルクさん、終わりました。もう大丈夫ですよ。……とりあえず、外まで運びますね」
ともすれば子供を慰めるような声音と仕草。そこに、直前までの荒々しさは微塵も無かった。
☆
円森の内部に存在する広大な土地。そこでは古くから様々な獣人達が生まれ、暮らし、そして戦っている。
獣人達にとって戦いは手段ではなく目的だった。戦いの為の戦い。己を磨き血族の高潔さを示す為に、同じ獣人ではあれど姿形の違う者、すなわち他の血族達と争い続けていた。
そして、その獣人は特別だった。当時常勝無敗だった己が血族を捨て、ただ一人で他の獣人達と相対し、尚も勝利を重ね続けた異端児。
彼女は強すぎた。集団での戦いを退屈に感じ自らに設けた孤独という枷を以ってしても勝利が揺るがない。それだけでは自身を追い込む事が出来ないと悟った彼女は、さらにもう一つの枷を用意する。
円森内に一定数存在した戦いを望まない獣人達……彼女からすれば圧倒的な弱者である者達を自身の側に置き、護る事を義務付け勝利の条件をより困難にした。
彼女にとってそれはより良い戦いを求める手段にすぎなかった。しかし戦いの中で、彼女はいつしか護る事が目的になっている事に気づく。弱者達に抱いた初めての感情、親愛を胸に。
護る事を目的に据えた彼女は更に強くなった。円森内において最大の血族である金牙族ですら、容易に戦いを挑む事が出来なくなる程に。
彼女はやがて自身の天命を守護と定め、多くの弱者達を引き連れて円森を出る事になる。そしてその先で人間の夫を持ち、静かな暮らしを送っていた。
彼女の名はレナ・アンバー。琥尾族のはぐれ者であり、黒衣の正体である。
☆
「レナさんが……黒衣の正体?」
僕が目覚めた頃には全てが終わっていた。黒衣……レナさんに通報を受けたという僕の同僚達が駆け付け、レナさんによって無力化されたヘレンを確保したという。
僕は詰所で多少の事情聴取を受け、痛みはあるけど傷の具合からわざわざ医者に診てもらう程でもないと判断してそのまま帰宅。
それでも治療は必要だというレナさんの提案で、今僕は彼女の部屋にお邪魔している。
「はい。恥ずかしながら……。あっ、今から薬を塗りますから動かないでください」
そう言って椅子に座った僕と向き合いながら、レナさんは自嘲の混じった小さな笑いを浮かべた。同時に、ひんやりとした薬が未だに熱を持った顔の傷に塗られていく。
今でこそレナさんの服装は馴染み深い普段の服装ではあるけど、すぐ側には脱がれ畳まれた黒の衣が置いてある。
「人間と私達の共存が始まった頃の話……とはいっても、当時の内情は酷く不安定なものだったんです」
「トラブルが頻発したんですよね。それを解決して回ってたというのが……」
「私です。身の上を隠した方が都合が良かったので、その際はそれを着ていました。……若気の至りというか、あの頃の私はとにかく手を伸ばそうとしていたんです。クロードさんと初めて出会ったのも、丁度この頃でした」
懐古の感情を感じさせる声だった。
街中を駆け回っていたというのは今のレナさんを見ると想像しにくいけど、誰かを助けたいという気持ちで動いていたという話は納得出来た。僕は彼女の親切心を知っている。
優秀な衛兵だったクロードさんと、トラブルを解決しようと街中を動き回っていたレナさん。二人が何かしらの拍子で出会うというのは想像に難くない。
それはそうとして、僕はまだ一番気になっていた事を聞いていない。
「あの、なんであの場にレナさんは来れたんですか」
「……昨日、マルクさんから臭いがしたんです」
「臭いですか?」
「血……もしくは死、その臭いです。これは
「……つまりレナさんは昨日の時点で僕とあの人を怪しく思って、今日はずっと僕を見守ってくれていたんですね」
「はい。しかし臭いといっても曖昧なものです。それが私の勘違いだというのは十分にあり得ました。なので秘密で尾行を。……この事と、救出が遅れてしまった事を謝らせてください。用心を重ねていた犯人に上手く撒かれた私の落ち度──」
「やめてください」
そう言って頭を下げようとしたレナさんに対して、僕は思わず声を上げていた。そのまま自然と、項垂れるように顔が下を向く。
「やめて、ください。……レナさんは腕が立つんですよね」
「……獣人ですから。多少は心得があります」
通報を受けた衛兵が来る前に、レナさんはナイフを携えたあの人を素手で無力化してしまったという。
獣人は人間と比べて身体能力が高く、戦いの才を持つ者が多い。そんな事は知っている。
「僕、人を助けたくて衛兵になったんです。でも荒事はからっきしで、いざそういう場面に出くわすと足が竦むんです。他の仕事の要領も特別良い訳でもない。だから自分に一番向いてる事を任せてもらって、皆の役に立とうと思ったんです」
「……」
「昔からそうだったんです。自分に出来る事、自分に出来る事をって。でも上手くいかない時の方が、多くて……すい、ません」
顔が熱い。これは傷のせいじゃない。その証拠に視界が滲み始める。
この事件の解決は僕に任された仕事だった。色々あったけど、最終的に犯人を捕まえる事が出来たのは良かった。
けど、僕がやった事はなんだ? 相手が犯人だとも知らずに鼻の下を伸ばして、醜態を晒して、何も出来ずにレナさんに助けてもらっただけ。
自分の弱さは理解している。ちゃんと飲み込んでいたつもりだった。それでも感じてしまう。今まで何度も感じた事を。
「情けない……」
「マルクさん」
突然、下げていた頭が柔らかい感触に包まれた。いきなりの出来事に僕は硬直してしまう。
「あの。レナ、さん?」
「弱さには色々と種類があります。惑心、不義、堕落……それらはきっと醜く、万人が捨てようと努力するべきものかもしれません。でもマルクさんが感じているその気持ちはきっと、尊ぶべき弱さなんだと私は思います」
「……」
「あの時、助けを呼ぶ声があったからこそ、大事に至る前にマルクさんを助ける事が出来ました。どうか自分を責めないでください」
感触が強くなる。僕はとてつもなく大きな慈愛を、レナさんが持つ優しさを、この抱擁から感じずにはいられなかった。
「良い茶葉があるんです。落ち着いたら、お茶にしましょう?」
変わらない柔和な声で、彼女はそう囁いた。
☆
(なるほど)
静かに涙を流すマルクと、それを慰めるレナ。事の顛末が気になりそこに来ていたシルは傍らでその様子を得心が行った表情で眺めていた。
(弱っちいのが好きなんだ)
レナと長い付き合いのあるシルの目には、マルクの頭を抱いているレナの表情に慈愛以外の何かが混ざっているように見えた。
見る者を安心させる柔和な笑顔にしては口角が上がりすぎているように感じ、慰めの声音には熱が籠っているように聞こえる。
レナは弱者を愛している。彼女に救われた内の一人であるシルはそれを良く知っている。ただそれは彼女にとっての庇護対象に向けられるものだと考えていた。
(クロードおじさんと全然タイプが違うのも納得)
クロードは理想的な男だった。レナが支え護るまでも無く、なにもかもを一人で解決出来てしまう程に。
レナは確かにクロードを愛し、今も想っているのだろう。
だが本来のレナの好みとして、丁度ど真ん中の男が今になって現れた。これはそういう話なのだとシルは解釈する。
(……これからどうなるのかな)
レナ自身も自分がマルクに何を感じていたのかを薄々ではあるが悟っただろう。現に彼女はこうして、今まで伸ばせなかった手を伸ばしきっている。
今まで見た事の無いレナが見れるのかもしれない。その事実に少しだけわくわくしながら、シルは尻尾を揺らした。
獣耳で未亡人な集合住宅の管理人さん ジョク・カノサ @jokukanosa
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