のどぼとけ

碧海 山葵

喉仏

ベッドで眠る横顔をそっとのぞく。


小さいつまんだような形の良い鼻と

ふっくら膨らんだ唇。

切長に伸びた二重の筋。

髭のない綺麗な顎の下には

小さい突起が2つある。


そっとそのうちの1つを押してみる。


「んん、」

少し苦しそうに

声が漏れる。



決して同じ布団では眠らない。

そう、どちらかが口に出したわけではないが

この2年、その暗黙の掟は破られていない。


私は自分のベッドの隣に布団を敷く。

来客用のはずが

最近は私しか使っていない。


今日も酔い潰れたまさ

連れて帰ってきた。

居酒屋から私の家の方が

近かったから。

ただそれだけ。


私たちには2人で一緒にいるために

超えてはいけない線がたくさんある。



静かな雅の寝顔を撮る。


そのまま何事もなかったように

敷いた布団に潜り込む。


布団をしっかり被り

雅の写真を正面におく。

暗い布団のなかで

雅と私は目が合う。


雅の口の部分を拡大する。

そしてさりげなく

それを胸のあたりに添える。

小さく吐息がもれる。



「ねえ。」

優しく肩に手が触れる。

思っているよりも顔が近くにありそうで

用心して目を開く。


「サチ、おはよう」

寝起きでも

昨日お風呂に入っていないとしても

雅は綺麗だ。

そして今日も距離が近い。


「昨日はありがとう。

 今日は帰るわ、じゃあ、また。」

雅はそう言って玄関に向かう。


ここで引き留めたり、追ったりしては

いけない。

これも暗黙の掟。

雅が帰りたい時に帰る。

私はただ見送る。できるだけそっけなく。


本当はもうはっきりと目が覚めているけれど

寝ぼけ眼を擦るふりをしながら

布団から玄関に向かって手を振る。


このために我が家は

ワンルームなのだなと思う。


雅が帰ったあと

さっきまで雅が寝ていたベッドに潜り込む。

息を深く吸い込むと

少しの汗の匂いと

煙草の匂いがする。


もう嗅ぎ慣れた雅のもの。



目覚めたときはもうお昼だった。

すぐに携帯を確認する。


もちろん、雅からの連絡はない。


唐突にもう会えない気がして

世界が真っ暗になる。

次はいつ会えるんだろう。


数時間前まで同じ部屋にいたのに

驚くほど雅の気配が薄れている。



ははははは。


乾いた声で笑ってみる。

何も楽しくなんてない。

でもどうしようもなく幸せで

苦しい。


苦しくて幸せで

突然全てが汚く思えた。



ベッドから抜け出して

シーツを剥がす。

枕カバーも掛け布団カバーも

雅が気に入っているぬいぐるみも

剥がして洗濯機に詰め込む。



雅が水を飲んだコップも

部屋を出る時に触れたドアノブですら

汚い。


洗濯機が回っている間に

食器を洗い

触れた可能性があるところ

全てを拭う。



汚い。汚い。

一緒にいた自分も

汚らわしい。


洗濯がおわってしまったので

手だけ何回も洗って

洗濯物を干す。


柔軟剤のざくろの香りが広がって

少しだけ雅が消えた。


急いでシャワーを浴びる。


シャワーを浴びている間に

連絡が来たら困るから

携帯も浴室に持ち込む。


髪の毛一本一本から足の指の間まで

しっかり擦り

雅を消す。


シャワーを終え

髪の毛を乾かす間に

自分が寝ていた布団を干し

カバー類を洗う。


暖かな日差しに照らされ

柔らかな風ではためく。

綺麗にそよそよ泳いでいる。


洗ったものは

思っていたよりもすぐに乾いた。

取り込んで、全てを元あった状態に戻す。

雅に包み込まれる前の通りに。


もう汚くない。

もう汚くない。

とおまじないをかけるのも忘れない。



日が落ちてきて

狭いワンルームを

オレンジに染める。


もうすっかり朝あったことは

部屋の隅っこと頭の隅っこに落ちている

程度のことになった。



雅は今頃彼女を抱いているのだろうか。


私をみて口角だけで笑う彼女を。

「サチさんのこと大好き」

と笑う彼女を。

雅に愛された蒸気を纏ったまま

私の腕に絡みつく彼女を。


何も食べていないはずなのに

胃から何かが込み上げてきて

咄嗟にバスルームに駆け込む。

汚らわしいものは

吐き出せそうで吐き出せない。


「サチさんはスタイル良くて

 羨ましいです〜」

そう媚びる彼女と私を

雅はいつも節目がちに交互にみる。

その目が私を見ているような気がする。



チャイムが鳴る。

口元を拭い、急いで玄関をあける。


「ケーキ、買ってきたよ」

優しい笑みに

さらに自分の汚らわしさを自覚させられる。


「嬉しい〜!ありがとう〜

 やっぱり翔太は最高の彼氏!」

彼女と同じ目をして、私は媚びる。



ベッドの上で携帯が鳴っている。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

のどぼとけ 碧海 山葵 @aomi_wasabi25

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ