夕焼けカレーライス

味噌わさび

第1話

 さて、人が特定のものを食べたいという時は、まったくもって気まぐれなものである。


 そんな時はいつでも訪れるし、どこにいても、食べたいという気持ちは湧き上がってくる。


 俺もそんな経験は何度もある。


 ただ、俺の場合は、そういう欲求が最高潮まで達すると、不思議な店に出くわすのである。


 おまけに、そういう時に会った店というのは、次に行くとどこにも見当たらない……なんてことが多々あるのだ。


「……今日も何もなかったな」


 その日、俺は休日だった。


 休日だからといって、何か楽しいことがあるわけではない。友達も少ないし、恋人がいるわけでもない。寂しい独身男である。


 だから、俺はその貴重な休日をほぼ無為に過ごし、夕暮れ時には、散歩をして過ごしていた。


 オレンジ色に染まった空の向こうへカラスが飛んでいく。なんだか、段々と物悲しい気持ちになってきた。


「……そろそろ家に戻るか」


 そう思って、家に戻ろうとした矢先だった。


 なんだか、懐かしい匂いが漂ってきた。俺は思わずそちらの方に向かって歩いていってしまう。


 この匂い……間違いなく、カレーライスである。


 なぜだか知らないが、カレーライスの匂いというのは、懐かしい気分になる。だが、自分で作ってもそうはならない。


 それは、他人が作ったものでなければならないのだ。正確に言ってしまえば、子どもの頃に親が作っていたカレーを思い出しているのかもしれない。


 そして、匂いをたどっていった先には……またしても、見たことのない店が立っていた。


 メニューが店先に出ており、見た感じ定食屋のようだが……入っていいのだろうか?


 と、俺が迷っていたときだった。いきなり、店の扉が開く。


「あ。ごめんなさい!」


 と、エプロン姿の女性が店から出てきた。


「……えっと、ここ定食屋ですか?」


 俺は反射的に女性にそう訊ねてしまう。女性は一瞬ポカーンとしていたが、すぐに嬉しそうに頷いた。


「はい! やってますよ!」


「じゃあ……入ります」


「どうぞどうぞ!」


 女性に促されるままに、俺は店の中に入る。


 店の中は……典型的な定食屋だった。小さな机に小さな椅子……なんというか、これまた懐かしい気分になってしまった。


 俺は適当な場所に座る。すると、女性が水が入ったコップと、メニューを持ってきた。


「色々ありますよ。例えば――」


「カレーライス、ってありますか?」


 女性が最後まで言い終わらないうちに、俺は聞いてしまった。


 またしても女性はポカーンとしていたが、すぐに嬉しそうな顔をになる。


「はい! カレーライスですね!」


 女性は嬉しそうにしながら、そのまま店の奥……厨房に入っていった。


 しばらく、俺はコップの中の水を飲んだり、適当なニュースが流れているテレビを見ながら過ごしていた。


 そして、10分くらい経った頃だろうか。


「お待たせしました! カレーライスです!」


 女性がそう言って持ってきたのは……大盛りのカレーライスだった。


「……多いですね」


「え!? だ、駄目でしたか?」


 女性が不安そうな顔でそう言う。


「……いえ。大丈夫です」


 正直、大丈夫かどうかはわからなかったが、俺は食べることにした。


 とりあえず、スプーンで一口、口の中に入れてみる。


 ……美味い。とても美味かった。


 辛すぎるということもなく、深みのある味だった。


 しかも、レトルトではない。明らかにスパイスを調合したルーだ。


 それでいて……懐かしかった。食べたことがないのに、遠い昔に食べたことが在るか のような……そんな味だった。


「あの……大丈夫ですか?」


 と、いきなり、女性が俺にそんなことを聞いてきた。


「え? 何か?」


「涙……出てますけど」


 そう言われて俺は目の端を拭う。確かに、濡れていた。


 ……なんでカレーライスを食べて、俺は泣いているんだろう。確かに懐かしかったが……泣くこともないだろうに。


 なんだか、妙に恥ずかしくなって、俺は適当にごまかしたあとで、そのままカレーライスを食べ続けた。


 それからは、とても満たされた気分になった。食べ終わってしまうのがもったいないくらいに。


 しかし、食べれば終わるのは当たり前のことで、大盛りだったカレーライスはあっという間になくなってしまった。


「……ごちそうさまでした」


 俺はそう言って立ち上がり、店を出ていこうとする。


「あの!」


 と、背後から女性の声が聞こえてきた。俺は振り返る。


「また、来てくださいね!」


 明るく、そう言う女性。俺は曖昧な笑顔で答えた。


 だが……わかっていた。もうこの店には二度と来られない。


 この店にたどり着いたのはある意味では奇跡のようなものなのだから。


 俺は満たされた気分で夕暮れ時の町に戻った。


 すでに暗闇が遠い空の向こうから迫ってきている。


 寂しい気持ちと、懐かしい気持ちがまた押し寄せてくる。


 でも、わかっている。こんな気持はたまたまなのだ、と。


 また、明日からは現実がやってくる。この気持ちは大事だけれど、いつまでも浸っているわけには行かない。


「……また、食べに行きたいな」


 俺は実現しないとわかりながらも、夕焼けの空に向かって、そんな儚い望みをつぶやきながら、家へと戻っていったのであった。

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