第4話 救出

 ゆっくりとカールの唇がジリアンの首筋に近づく。だが彼は何かに気づいたように顔を上げて眉根を寄せた。


「ああ、服がまだだったな。君もきちんと正装しないと」

 そう言ってジリアンを横抱きにすると、そのままベッドへ連れて行き座らせる。

「ど……して、私……」

 舌がしびれながらも懸命に声を出すと、カールは優しいとさえ言えるような表情でジリアンの頬を撫でた。


「黒バラの乙女と結ばれると、僕は今よりも大きな力を得られるんだよ」


 もうジリアンが逃げることがないと確信してるのだろう。カールはこの世界で最高の力を手にするのだと言って笑った。その無邪気な声を聞くと、とても今からジリアンの生き血をすすり、心臓を食べようとしているとは思えない。

 むしろお気に入りのおもちゃを手に入れ、自慢したくてたまらない子供のようだ。


「パパ……は、無、事?」

 最後にこれだけは聞かなくてはいけない。

「あの狼か。どうでもいいだろう、あんなの」

「よく、ない……」


 一言口にするだけで、全ての気力を持っていかれそうになる。それでも義父にもしものことがあれば、最期に一矢報いるつもりで気力を奮い立たせた。何ができるかはわからないが、カールの舌をかみ切るくらいはやってみせよう。


 しかしジリアンの質問を無視したカールが指を鳴らすと、ベールをかぶった女が手に黒いドレスのようなものを持って部屋に入ってきた。そしてもう一度彼が指を鳴らすと、ジリアンは操り人形のようにふわりと立ち上がる。

 自分の意思と全く関係なく操られることに怯える心を、ジリアンは必死になだめ続けた。そんなジリアンのそばにベールの女が音もなく歩み寄る。


「旦那様は外へ」

 女が低い声でそう言うと、カールはクスっと笑って肩をすくめた。

「おまえだけじゃ、彼女の服を脱がすのも大変だろう」

「ですが、儀式前に花嫁の姿を見るのは縁起が悪いのでは?」

 その言葉に少し考えるように沈黙したカールは、「ちっ、わかったよ」と言って指を鳴らした。瞬間、ジリアンの服がすとんと下に落ちる。


「あとは任せる」

 カールはひらひらと手を振りながら、薄い下着姿のジリアンには目もくれずにドアから出ていこうとした。だが次の瞬間、彼の体が部屋の反対側へと吹き飛んだ。


「ぐぁっ」

 壁に激突したカールが奇妙な声を上げ、目を見開いたままずるずると座り込む。

 唖然とするジリアンにベールの女がドレスを着せようとしたが、花嫁衣裳への嫌悪感で彼女の手をはねのけてしまった。


(動ける!)


 それに気づいて走りだそうとするも、ベールの女に後ろから止められてしまう。

「はなして!」

「落ち着いて、私よ!」

「えっ?」


 聞き覚えのある声にジリアンが振り返るのと、ドアからレインが入ってきたのはほぼ同時だった。


「ジリアン無事か⁉ ――っ!」

「レイン?」


 見開かれた碧眼と目が合うと、彼の顔が怒りでどす黒く染まる。そして一瞬カールに目をやってそちらに手のひらを突き出すと、レインはジリアンのほうへと走り寄って一瞬強く抱きしめた。


「遅くなってごめん」

 そして傷がないかを確認するように頬を撫で、首筋や鎖骨を確認するように見る。

「あいつに何をされた」

 聞いたこともないようなレインの低く地を這うような声に、思わず身をすくめる。彼が知らない男のようだった。


 言葉が出ないジリアンの代わりに、ベールの女が「口づけは受けたみたいよ」と苦々しげに告げる。それに呪詛のような悪態をついて、レインは両手でジリアンの頬を挟んだ。


「怖い思いをさせたね」

「あ……」


 初めて至近距離で見たレインの美しい目には、慈しみの色が浮かんでいる。思わずこみ上げた涙をのみこみ、ジリアンは「パパは?」と聞いた。きっと答えをくれると期待して。

 そしてレインはきちんと答えをくれた。


「無事だ。傷は負ったけど、数日休めば大丈夫だ」

「よかった」

 その言葉に彼が助けてくれたのだと理解した。ジリアンが助けを求めるまでもなく、義父を助けてくれた。大事な恩人を助けてくれた恩人だ。

「ありがとう、レイン。アラベラ」


 レインに頬を挟まれたままなので振り向くことはできなかったけれど、ベールの女――アラベラにも礼を言う。


「ジリアン。礼を言うのはまだよ。主君、早く」

(主君?)

 アラベラの言葉に目を瞬かせるジリアンに、レインが「ごめん」と囁き唇を重ねた。カールとは違う口づけに、ジリアンの体がふっと軽くなる。二度三度と口づけられボーッとすると、アラベラの咳払いにレインがやっと身を起こした。


「主君。気持ちはよーっく分かるけど! そういう違う・・ことは、後で、ゆっくりやって」

「あ、うん。そうだな。つい」

 決まり悪そうに微笑むレインを茫然と見つめながら、彼の恋人の前で何をしてしまったかに気づきジリアン青ざめた。


(なんてことを!)


「あ、アラベラ。あの、違うの……」


 弁解しようと口を開くも、うまく言葉が出てこない。第一彼女に何を言えばいい。自分から口づけたわけじゃない?


 動揺するジリアンに、ベールを外したアラベラが持っていたドレス、いや、マントだったそれをかけて包み込んだ。


「もう大丈夫よ、ジリアン。あの男より主君は強いから。あなたの鎖はすべて外れたわ」


 ジリアンが自由に動けなくなったのは、見えない鎖のせいだったらしい。

 あの口づけがそれを解くためだったことを知り、ジリアンはほっとすると同時に胸の奥が複雑に痛んだ。


 その時、気を失っていたらしいカールが目を覚ました。しかし何かに抑えつけられたように壁から身動きできない。

「おまえ、たしかレインと言ったな。便利屋ふぜいが僕の花嫁に何を――ぐふっ」


 わめくカールが、腹を殴られたかのように身を縮めた。次に顔を上げると、口の端から細く血が流れている。


「おまえ……」

「うるさい、黙れ」


 レインがまた手のひらをカールに向けると、彼は苦しそうに目を見開いて喘いだ。


「俺がここにいるのが不思議か? ああ、おまえの配下はみんな倒しておいたよ。今意識があるのはおまえだけだ」

「******!」

「俺が、何者だって?」


 うめき声のようなカールの声が聞こえたらしいレインは、薄く笑った。


「牙なき吸血鬼ヴァンパイアと言えばわかるか?」

 ゆらりとレインがカールに歩み寄る。

ただの・・・吸血鬼ヴァンパイア風情が、俺の花嫁を攫おうとするなんてな」


 怒気を含んだ声は、質量を得たかのように空気を重くして、ジリアンは息が苦しくなる。レインの言葉の意味がさっぱり理解できなかった。


 レインは人だと思っていた。魔族――いや、悪鬼だったの?


 そう思い当たるが、全く怖いとは思わなかった。

 彼が片手でカールの首をつかんで高く持ち上げると、ジリアンはアラベラに抱きしめられるように目隠しをされる。

 ギュッと何かを絞ったような音が聞こえたかと思うと、空気がふっと軽くなった。


 あたりに濃厚な薔薇の匂いと、かすかな血の匂いが霧のように漂い――消えた。

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