第六章 ハワイ介入
第26話 糸を紡いで漕ぎ出でば
帝都学修院の家庭科室。
ゲームストーリーで、そこはちょっとしたイベントの舞台になった。
皇太子殿下の誕生日にお菓子を作るというイベントだ。財力にモノを言わせてベルギーから一等品を直輸入する悪役令嬢を前に、主人公は友人たちと手作りを試みる。まごころを込めて作ったお菓子は、見栄えこそ悪役令嬢の用意したものに劣るけれども――ひとくち食べて皇太子殿下は言うのだ。「尽心の味だ」と。
というのは上手くいったときの結果で、主人公が頼る相手によっては大失敗して菓子を用意できず、誕生日に何もあげられないという羽目になったりする。そうなれば好感度が稼げず、その後の展開でかなり不利になってくる。
つまり大切なのは誰を頼るか、だ。主人公の友人たちは料理下手というわけではないけれど、華族の嗜み程度の菓子しか作らない。それでもいいのだが、主人公の知り合いにはひとりだけ、いっとう舌が西洋趣味でスイーツに精通したお嬢様がいらっしゃる。
それが――商家の御令嬢、上洞院茶路である。
前も言ったかもしれないが、茶路お嬢様との友好度は上げるのにかなり難儀するので、彼女に頼むこと自体かなり難易度が高い。けれども頼むことができた暁には素晴らしい出来のお菓子ができて、皇太子からの好感度がぐっと上がるし、なによりお菓子作りを通じて茶路お嬢様との友好関係を深めることができる。あの全ユーザー所持率3パーセントの激ムズ実績「茶路お嬢様とお友達になる」へ、ぐっと近づけるのだ。
調理台に二人で並んで、語り合う主人公と茶路お嬢様。堅苦しかったふたりの喋り方も料理をするうちに和やかになってゆく――そんな温かいシーンを求めて、ユーザーたちは果敢に挑んでゆく。あのゲームのファンなら一度はクリアしたいルートらしい。
ところで、玲那はいま家庭科室にいる。
ストーリーで見た通りの、豪華な装飾を施されたバロック様式の食卓の前に立っている。
そして、玲那の前には上洞院が立っている。
家庭科室にはこの二人だけ。構図だけ見れば完璧、のはずだったが。
「それを、わたくしに食べろと……!?」
上洞院は、憤然と立ち震えている。
やらかしたな、と玲那は後悔している。
理想のストーリーとは似ても似つかない状況になっていた。
「ま、まぁまぁ。落ち着いてくださいませ」
菓子とはかけ離れたものを手にした玲那に、彼女は声を荒げる。
「落ち着くも何も! 手料理なんて用で、こんな寒い日に呼ばれて待たされて、これですの!?」
内心おろおろとする玲那。
彼女にしては、らしくない。
怒るより前に諦めて、距離を取って壁を作るのが彼女のやり方だ。その冷ややかさこそ、ストーリーで描かれる上洞院茶路のはずだ。
だからこそ、この状況は完全に想定外だった。
「いっつも突然で、全く説明してくださらなくって……世界政策に巻き込まれたかと思ったら、今度はこんなくだらない用事でこの仕打ち!」
その口ぶりから、いろいろ考えてみる。多分、この前のハワイ介入構想みたいなのにまた巻き込まれるのかと身構えてきたのだろう。そしたらとんでもない落差で、不安のうちに凍えて待ってたのが馬鹿らしくて、そういう怒り。
「いくらわたくしが取るに足らない商家の娘とはいえ、玩具じゃありませんのよ!」
というか、今回だけの件じゃなくて、たぶん今まで玲那がこういう些細なことから世界が舞台の壮大なことまで、突拍子もなくこの御令嬢を巻き込んで振り回してきたことへの不満とか不安とかが鬱積して、爆発している気がする。
そんな、ガキじゃないんだから――そう思いかけて、はっと気づく。閑院宮だの松方だの乃木だの、周囲にオジサンしかいないものだから忘れていた――いくら華族令嬢とはいえ、彼女はたった13の少女なのだ。
(あちゃー……)
学友ゼロ人の弊害。
周りの大人の対応に甘えかまけてきたツケというべきか。
友達のいない玲那は、同年代との付き合い方をすっかり知らなかった。
「……すみません。そうですね、もう少し説明するべきでした」
それに、根本的には玲那の説明不足が原因だ。たしかに無礼かもしれない。
玩具じゃない、か。その通りだ。ならばもっと、対等な友人としてなら――そこまで考えて玲那は思いとどまる。意味のない考察だ。
怒れるお嬢様を前に、その原因となった「手料理」を差し出す。すかさずティーポットを持ち上げて、その上に注いでみせた。
「な……なにを」
呆気にとられる上洞院。料理に熱湯をぶっかけるなんて、脈絡のない奇行に見えるだろう。けれどこれ――100年後には一般的な調理風景になるんだぜ?
玲那は挑発的な笑みを見せる。
「このまま3分待つのです。そうしたら、できあがり」
まず粉末が溶け出して、全体に薄く広がっていく。
そしてくたびれた色紙のかけらのように散っていたものが、水気を得て膨らむ。
「ネギ、と、白菜……?」
ぽつりと零れた彼女の言葉に頷けば、彼女は決定的なことに気づく。
「もしかして……この黄色の固形物は、乾麺?」
玲那は答えの代わりに、砂時計を持ち上げる。ちょうど3分だ。
彼女の前に置かれた器から、箸でそれを掬いあげる。伸びる。乾燥しきってまるで家畜の飼料みたいだったそれは、嘘みたいにしなやかに玲那の取り皿に収まって、ちゅるちゅると玲那の口に啜られた。
「ええ。ラーメンです」
呑み下して、玲那はひとこと。上洞院は驚きに目を見開く。
「ま……さか。お湯を注ぐだけで、スープまで……?」
おそるおそる箸を伸ばして、引き上げてみるお嬢様。まずはひとくち。そのあとは――堰を切ったように啜り出した。
あくまで音は立てずパスタみたく食べるお嬢様仕草に、ちょっとだけ笑いつつ、玲那は片手に収まるくらいのコンパクトな袋を取り出した。
中には先程の乾麺と粉末と、かやくが入っている。
「壮絶な発想ですわ」
スープまで飲み干してから、彼女は言った。
「たった一袋で、湯を注いで三分待てば……完成品の料理ができあがるなんて」
「完成品、ですか」
「ええ。他の何物も要らないで、その一袋さえあれば作れてしまう点で、既存の乾麺とは一線を画しますわ」
玲那は深く頷いた。まさに真髄を突いた感想だ。
調味料や具材を調達する必要がなく、水さえあれば簡単にいっぱしの御馳走になる保存食。小さく軽くコンパクトだから輸送効率も良い。それはまさに――、
「理想の……軍用糧食でしてよ。それも寒冷地用の」
玲那は瞠目する。聡明な娘だ。
「……大正解。冬の満州のための手料理です」
改めて見ればなんと滑稽なものか。上洞院のお嬢様と二人で、家庭科室で、手料理の試食――皇太子殿下への誕プレイベントのための舞台装置のはずなのに、排出されたものはチキ○ラーメンときた。
当然だ。この悪役令嬢が手作りすべきはイケメン宛てのお菓子じゃない。満州戦線20万の将兵の食い扶持を支える戦闘糧食だ。
「瞬間油熱乾燥法……揚げ物が水分をはじく時の原理を参考に確立した乾燥技術です。既存の乾麺より保存が利きます」
「なるほど……これは製造法も、鹵獲しただけでは分かりませんわ。戦争の後は特許をとって……世界に売り放題、と」
ちょっと松方みたいなことを言ってるのが気にはなるが、間違ってはない。第一次大戦のヨーロッパじゃアホみたいに売れるだろう。
すっ、と玲那は彼女に向き直った。
「先程の無礼はお許しくださいませ」
「……っ」
その目を、じっと見据える。
「玲那は見せびらかしたかっただけなのです……。上洞院家の付け入るべき、具体的な商機を」
家の名前を出した瞬間、肩をこわばらせる上洞院。
自分の価値は家の役に立つことのみ、と奥底から刷り込まれた少女の反応だ。
「……わた、くしこそ。はしたない所を、お見せ……しましたわ」
「いいえ。玲那の不誠実に始まったすれ違いです。だから、これからちゃんと説明します――なぜ、貴女が必要であるのか」
この娘が十数年間、商会の道具として以上には生きることができなかったことを承知で、なお玲那は、こう誘った。
「在華紡、始めてみませんか?」
心が痛まないのかと問われれば、咄嗟に首を横には振れない。主人公の親愛に救われたあとの彼女の、それはもう明るい本当の性格を知っているがゆえに一層、この少女の失望と怯えと孤独感に裏打ちされた今の不安定な姿が痛ましい。
けれど、玲那はこの少女を救わない。
ひとつは、少女が求めるものを玲那は与えられないから。主人公でないがゆえに。
もうひとつは――それ以前の打算に基づいてだ。
(ふふ……最低ですね)
家の役に、という深層心理に植え付けられた呪縛から解かれた彼女は、もはや策謀も何もを回す必要はない。商家の術に根差した狡猾にして冷酷な嵌め業の使い手は、ただ普通の幸せな女の子へと還ってゆく。
けれど、それではいけない。
その用意周到なる立案者の才能を毀してしまうのは、皇國の利益にならないからだ。
世界大戦、いいや少なくとも日露戦争にだけは皇國は勝たねばならない。そこに大いに貢献しうる類まれな鬼才があるのなら、玲那の命運にも大いに関わってくることだろう。ゆえに、ここで人情にかまけて手を惜しむべきではない。
あくまで、玲那の生のために。
「ざ、在華紡?」
「ああ、在清紡と言うべきですね。紡績、繊維産業です」
一人の少女のハッピーエンドを封ずるくらいには、玲那も堕ちたものだ。断罪されても文句は言えまい――されど、決してさせるものか。
「……なぜ紡績なんですの?」
「戦争賠償金の運用が先日公表されました。主要なものとしては軍事拡張、重工業投資、大陸開発になります」
玲那は息をつく。
「さて、これらに共通して必要なのは資金以外で何でしょう」
「はい?」
「制限時間は10秒。9、8、7……」
「えっ、え。うぅ……」
考え唸る上洞院。けど残念、時間切れだ。
「正解は労働力。正確に言えば人的資源です」
「は、はぁ」
「そしてヒントは、私たちの着ている服」
赤いリボンに茶色のブレザー。すぐに思い至ったみたいで、彼女は口をついて言う。
「制服。そっか、軍人にしろ工場労働者にしろ、制服ですわ!」
「ええ」
軍服なり作業着なりの需要が一気に沸く。
「寒いのですよ、満州は。軍部では早速、羊毛繊維を用いた新たな軍用外套を開発していると聞きます。……ですから先程の
消耗品であるがゆえに、その需要は継続する。それを商機的に解釈するならば、既存工場の拡張よりも。
「最新技術を導入した紡績工場の設立。軽工業への投資です」
「……なる、ほど?」
一旦は呑み込んだ上洞院だけれど、ふと首を傾げると、顔を上げて問う。
「ですけれど。軍拡はひと段落しますし、工場の拡張にしても同じではなくって?」
「民間の需要もアテになります。軍拡や重工業投資に触発されて、いまは国内の経済自体が好況ですもの」
「なら、一層ですわ」
彼女は玲那の瞳を覗く。
「民間の購買欲が旺盛なのが、その好況ぶりが戦争賠償金の運用に依るものなら――それは近い将来に終わりを迎えるのではなくって?」
「……」
玲那は目を伏せる。瞼のうちに感嘆するのだ、さすがと。
「原動力が国家の臨時収入であるならば……それは有限ですわ」
「ええ、その通りですね」
莫大なれどもそれきりの資金がいまの好況を支えていることを忘れてはならない。これはどこまで行っても官需なのだ。民間の需要に基づかない供給は、やがて過多となって破綻する。
戦争賠償金の枯渇で官需が払底したそのとき、供給力が無計画に拡大してしまった後ならば、まさに後の祭り。世界恐慌の再現だ。
現在の皇國経済はニューディール政策に酷似している。一時的な経済の成長は招くものの、その需要は一時的だ。
「見るべきは、民間の需要ではなくって?」
「ふふ、そうですね」
玲那は肯定してみせる。上洞院は険しい顔をした。
「理解なさっているのなら、どうして大規模な投資を?」
官需を抜きにすればこの国はいまだに後進的な農業国。衣服にかかる需要も限定的なものでなくって、と彼女は言う。その分析は間違っていない、いいや、文句のつけようがないほどに正しい。やはり上洞院茶路という才能をみすみす逃すわけにはいくまいな、そう思いながら口を開く。
「ええ。この国の話ではございませんもの」
「……はい?」
「内需ではない。これから伸びる民需は、外需です」
玲那は、図書室の隅に貼られた世界地図を指し示す。
「下関条約で得たその勢力圏は、肥沃な土壌に1億の人口を擁する地」
長江下流域、その南岸。
「ここにおける皇國の独占的な販売権」
「っ……!」
「お分かりいただけましたか、玲那が紡績を勧めた意味を」
衣食住という通り、服は人間生活をおくる中で最低限必須なものだ。
かつては特産品として大陸全土に流通していた南京木綿も、太平天国の乱による戦火で産業ごと荒廃。清末の貧困に喘ぐ四億の人民は、衣類の供給を外国に求めるほかない。
「これまでの長期的な生糸の生産と、技術への投資。皇國の紡績業は欧米との競争にも耐えうる一定の水準に達しています」
「……ええ」
「更に、陸軍へ納める13個師団分の軍服および防寒装備。ここで大量生産のノウハウは得られましょう」
衣料品生産のノウハウを持つ大規模な紡績工場が、その衣類を生産する。必要な技術レベルにはすでに到達していて、その上で人件費は欧米よりもずっと安価。
「欧米よりも遥かに安く生産でき、かつ質も退けを取らない。そしてその一大消費地帯が、幸いなことに輸送費を欧米に比べて遥かに節約できる近場にあるのです」
「たし……かに」
大英帝国によるシェア独占や、技術でもたもたしている内に中華民国が関税自主権を取り戻して、史実では間に合わなかった稼ぎ方だ。
「っ、けれど!」
上洞院は口を挟む。
「摩擦の危険がありますわ。清朝……はどうでもよいとしても、衣類シェアを独占するとなれば、列強諸国へはいかがなさって?」
貿易摩擦、と言いたいところだが残念ながら清朝には関税がかけられない。よって貿易摩擦など存在せず、一方的に売りさばけるのだ。だが、列強の利権に干渉すれば普通に死ぬ。
「加工貿易という言葉はご存知ですか?」
ゆえに、玲那は更なる一手を打っていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます