第五章 暁光、極東を染む
第21話 重工業の胎動
李鴻章は条約に調印した。
その手は震えていた。
それから寂しく背を丸めて、踵を返す。
有史、蛮族と見下してきた国家に清朝は完封された。
講和条約の条文はそれを静かに、しかしはっきりと語っていた。
日清講和条約
・清朝は朝鮮の独立を容認し、朝貢を永続的に廃止する。
・清朝は舟山群島、台湾及び澎湖諸島を皇國へ割譲する。
・清朝は賠償金3億両を支払う。
・清朝は南京-上海および上海-寧波間の鉄道敷設権を皇國に与える。
・清朝は旅順要塞を皇國の合意なく他国に割譲・貸与しない。
・清朝は6港を皇國に開放し最恵国待遇を認める。
・皇國は南通半島と威海衛を5年間保証占領する。
明治28(1895)年3月31日 下関にて両国調印
―――――――――
「いやはや、おめでとうございます女王さま」
「……好い口を叩かれますのね」
揺れる船の中で、少女は皮肉気に笑った。松方はそれをするりと受け流す。
「いえいえ。こればかりは本気でございますよ。今次戦争で、殿下の御国は手に入れるべきものをすべて手に入れたのですから」
「それがどう玲那にめでたいというのですか」
「有栖川宮家はもちろん、北鎮の親玉、閑院宮家の株も上がりましょう」
うっと目を向ければ、にやりと松方は笑う。
「隠れ蓑にはまだ使うおつもりでしょう。閑院宮家の力が増すことは、私のような姫宮の手駒が増えることにも繋がります」
「……ここまで引きずり出しておきながら」
恨みがましげに、手に持つ
「どうあろうと。最後は、玲那の意思次第ですわ」
「というと?」
「活かすも殺すも。玲那がもうこれ以降普通の少女に戻ってしまうとしたら?」
松方は目を丸くして、間を空けた。一拍おいて、彼はふはっと吹き出す。
「まさか! 姫宮は動かざるを得ますまい」
「……失敬ながら、根拠はございますの?」
「ええ。戦争賠償金――3億両」
彼は目を細める。
「大まかな用途は枢密院で決まるとはいえ、運用の仔細は大蔵省に一任されている……この事実に、姫宮が飛びつかれないわけがありません」
「っ」
今度は、玲那が息に詰まる番だった。
「姫宮の仰る『次の戦争への布石』を打ち込むには、私という手駒を使わざるを得ないでしょう?」
それほどまでに3億両――4億6500万圓という金は大きい。史実では2億両だったものが、その1.5倍と来た。
北方戦役で備蓄を枯渇させたため朝鮮全土の占領を諦めざるを得なかったことで、玲那が編み出した苦肉の策・紫禁城の空挺制圧。西太后を縛り上げて直接恫喝して戦争自体を終わらせるというパワー系も甚だしいメチャクチャな発想だったが、これが北京占領という史実を大きく上回る戦果を叩き出すこととなり、上乗せの戦争賠償につながったわけか。ここに至って、玲那はうなだれて認めるしかなかった。
「つまり……蔵相閣下さえ経れば、戦争賠償金が玲那の一存、と?」
「あぁ、いえ。2.6億圓は軍部に取られるので正確には2億圓分になりますがね。陸軍省や海軍省といった他省庁に手を出すのは……」
「さすがの大蔵省とて難しゅうございます、か」
玲那は考える。それでも、だ。日清戦争前の皇國の国家予算が8000万圓であることを鑑みれば、2億圓もの金を好きにできる――この身の保身のためにあらゆる手段を講じる構えの玲那にとって、その武器は願ってもないものだ。
「それに、この額は後から増えることになります」
「あとから、と仰いませば?」
「紫禁城で略奪……ごほん、保護した金銀財宝の勘定がまだです。国庫に流れ込む額はあと数千万は増えましょう」
言い直した松方に苦笑する。略奪令嬢とはまさに玲那のことで、禁闕部隊総出で傷つけないよう丁重に、されど徹底的に城内の金品を持ち去った。兵士には両手に持てる分だけ戦利品として渡して、あとは国庫にポイだ。
この時代には国際法がない。英仏も30年前にここでやってたことだし、咎められる謂れはない。フランス軍みたく建物ごと粉々にしなかったのだから、むしろ褒められるべきまである。
「……けれど」
疑問が沸く。松方は首を傾げた。
「清朝を弱体化させすぎても拙くはありませんの? 民衆革命でも起きて、清朝が倒れようなら……対華政策も根本から見直しを迫られましょう」
「いいえ。この程度では倒れはしません。史実でも決定打となったのは義和団事件です」
義和団事件。
拳法道場を元とする秘密結社「義和団」が、扶清滅洋、読んで字のごとく「清朝を助けて西洋をぶっ潰す」という尊王攘夷思想の下に華北各地で決起。
救国戦争であったことから西太后もこれを鎮圧することも出来ず、それどころか乗り気で加担、何を思ったか英独仏露墺日米伊の全列強に宣戦布告に至ったリアルテコ朴戦争である。
1900年初夏に突如始まったこの「清朝vs世界」という究極サバイバルは、特筆するような勇者出現やどんでん返しもなく、2ヶ月経たずして列強多国籍軍の北京蹂躙という特になんとも面白くもない終わり方で決着する。
「そのときヴェルサイユフルな賠償金の支払いを清朝は課せられ」
「なんでございますか、その形容詞は」
「その額……利息を含めて9億両」
息を呑む。9億両と言えば、皇國の国家予算17年分に当たる額だ。天文学的という域に首を突っ込んでいる。
「それに比べれば今回の3億両は三分の一。なんとか国家を滅亡させずに支払える範囲内でしょうし、次の義和団事件も西太后が支持するとは思えません。なにせ姫宮じきじきに脅されたのでしょう?」
「どうしてご存知なのですか……」
「前線の兵たちの間で話題になっていましたよ。私が城下を通った際に小耳に挟むくらいには」
玲那はため息をつく。このところ、悪役令嬢フラグを立たせるような嫌な噂ばかりだ。
「今回、戦争捕虜にまで成り下がったのです。西太后は身をもって近代軍隊の実力を思い知ったでしょう、そう安々と義和団側にはつきますまい」
自信ありげな松方の表情は、その好機嫌に裏打ちされているようだった。
「いやぁ〜、それにしても。賠償金、何に使いましょうかねぇ」
大蔵省で好きにできるその額、国家予算2.5倍分。これでは気分も良くなるというものだ。
「姫宮。いかが配分すべしとお考えで?」
「そう突然振られてましても……玲那は財政家でもなければ、官僚でもございませんのよ?」
「姫宮なればその程度小手先でこなしてしまわれそうですけれども」
「買い被りすぎでございます」
「ふは。どうだか」
松方は肩をすくめて、手元のキセルに火を灯す。
「ま、概ねの叩き台は練って参りましたゆえ」
そうして彼が懐から取り出したのは、グラフと表の記された一枚の紙だった。
総額2億圓
7000万圓 産業資金
6000万圓 台湾・大陸開発資金
3000万圓 災害・教育基金
4000万圓 鉄道・港湾建設資金
「目玉は産業資金でございます。史実では58万圓ぽっちで、八幡製鉄所を建てたら尽きてしまったものが……その百倍以上」
「百倍……。ずいぶんと、思い切ったものですね」
「はい。この国が重工業に注力できるチャンスはそう多くはございません。大量の戦争賠償金が流入する今しかないのです」
戦前におけるこの国の重化学工業の発達が不十分だった原因は資本蓄積の不足にあるが、それはつまるところ重工業へ集中的に投資するまとまったお金がなかったからだ。
何せ極東の小さな赤字国家。列強国になっても欧米には技術で遅れを取り、輸出は生糸一辺倒のくせして工作機械なんて一丁前のものを輸入するものだから、世界恐慌まではずっと慢性的な貿易赤字に悩まされ続けた。
世界恐慌の後はブロック経済の形成にしたがって貿易は黒字転換するものの、今度は軍国主義に突っ走るものだから軍事費が国庫を圧迫して重工業に投資する余裕など微塵もなかったわけだ。
しかしながら奇跡的にこの国がまとまったお金を手にした時期が二つある。
ひとつ目は日清戦争直後。ふたつ目が第一次大戦期だ。
「史実では大戦景気で重工業化がある程度進みました。しかし潤ったのは一部の民事会社、それも造船業に偏っており、国力全体の向上につながったかは微妙なところです」
ぱっと出の成金がポツポツと生み出されたばかりで、この国の産業全体には好況が循環せず、むしろ多くの民衆の生活はインフレで苦しくなって米騒動へと昇華していくのだ。
「大衆の購買力が向上しないことには経済の成長、すなわち工業力の増進には繋がりません。そういう意味では大戦景気は失策です」
せっかくまとまったお金を手にしたのに、一部の成金にだけ富が集中して、国全体に好況を回すことに失敗した。
「潤った成金さえもヨーロッパの復興と共に戦後恐慌で散って、残ったなけなしの貯蓄もシベリアへ埋めてきてしまいました。見事に全てがパーです。せっかくの重工業チャンスをこの国はみすみす逃したのですよ」
大戦景気はここに散る。ではもうひとつだけあったチャンス、日清戦争直後のほうはどうだろうか――松方はそう言うと、目を細める。
「これはもっと簡単な話で、戦争賠償金のほとんどを軍部に取られましたゆえです。重工業へ投資するほどのお金が手元に残らなかった」
史実では総額3億1000万圓に及ぶ戦争賠償金も、重工業にあてられたのはたったの58万圓。すずめの涙ほどもない。
「こうして戦前、この国は重工業化に失敗しました。史実、重工業化に至るのはまとまったお金を手に入れた三度目のチャンス――戦後の国際通貨基金および合衆国からの資金援助を得てからです」
「資金援助、ですか」
「戦災復興融資とでも言いますかね。ともかくようやくここに至ってこの国は……いいえ、GHQが重工業に資金を集中投入。石炭業と鉄鋼業に大金を注入しました」
歴史の教科書には、傾斜生産方式、とある。
産業のコメと呼ばれ、あらゆる重工業の素材となる鉄鋼の底上げを行うことで、戦争で荒廃した様々な産業部門が循環的に拡大し、息を吹き返していった。
工業復興のための基礎的素材である石炭と鉄鋼の増産に向かって、全ての経済政策を集中的に「傾斜」するという意味で名付けられたこの政策は、基幹産業である鉄鋼、石炭の増産を契機に産業全体の拡大を実現し、高度成長の原点となったのだ。
「2.6億圓の軍事拡張費のせいで――史実では5000万圓しかあとに残らなかったものが、されど、この世界では賠償金自体の取れ高が増えたゆえに――2億圓も残っているのです」
では、どうするか?
松方は言って笑う。
「当然、傾斜生産の真似事を行う」
「は、はぁ……」
平たく言えば鉄鋼と石炭に惜しみなく注ぐのですと、松方は言った。
「そこで八幡製鉄所、ですか」
「はい。史実58万圓で設立した八幡製鉄所ですが、銑鋼一貫じゃないわコークス炉はないわで当面使い物になりませんでした。そこで中国分割で貸しを作ったドイツに支援を仰いで、完全銑鋼一貫製鉄所を建設するのです」
当初の八幡製鉄所は銑鉄の生産が予定の半分程度にとどまり、赤字が膨れ上がって1902年(明治35年)7月には操業停止となった。マトモに動かすにはコークス炉の新設、高炉の形状や操業方法の改善など様々なテコ入れを要したため、本格的な操業再開は日露戦争後まで待つこととなる。
「まずは500万圓を投じて再来年までに建設、3年後の操業開始を目指します」
「ペースが早うございますね」
「鉄と血の帝国に設計を仰ぎますゆえ。ルール工業地帯の主にとっては高炉の1基2期程度小手先でしょう」
それに、一連のお膳立ては戦前に済ませてあると松方は言う。
「用地買収も鉄道や港整備も小倉、室蘭、尼崎ともに完了。あとは建てるだけです」
「お待ちくださって。小倉……は八幡製鉄所というのは存じ上げますけれど、室蘭と尼崎?」
「小倉が軌道に乗り次第、室蘭と尼崎にも手を付ける所存です。それも今度は小倉の鉄を使いまして、ね」
室蘭と、尼崎にございますか。復唱するように玲那が零すと、彼はふむと唸りこむ。
「して姫宮。八幡製鉄所の立地の地理的要因はご存知であせられますか?」
「筑豊炭田、でございましょうか」
「うむ、さすがご聡明であられます。製鉄は燃料がないと出来ませぬ。その燃料が
喜ばしそうに彼は言う。たしかに北九州はそこかしこが炭田、北海道に至ってはどの山を掘っても石炭が出てくるときた。
「北海道に製鉄所を建てるのは、開拓の一環にもなりますしな」
「では、尼崎は?」
「周辺産業との相乗効果を狙ったものです。近辺には神戸造船所や大阪砲兵工廠といった鉄鋼をふんだんに用いる軍需工場が数多く存在します」
阪神工業地帯か。大正時代に入ると国内でいち早く工業化し、東洋のマンチェスターと称されることとなるその一帯は、戦前における工業生産の心臓部でもあった。
「既存の兵器工廠のみならず、周辺にはこの産業資金を用いて軍需工場を建設するなり、大規模な民間工場を誘致するなりいたします。そのときの売り文句は、鉄鋼直結、でしょうか?」
たしかに魅力的ではある。
鈍重な鋼鉄の輸送費は馬鹿にならない。100%を輸入に頼っているような現状では特に、重工業の原料費がかかりすぎる。
重工業を儲かりやすくするには、鉄を欲する工場群に、タイムラグと輸送費を可能な限り抑えて供給する製鉄所が必要だ。
「なれば、その場に製鉄所があると好ましい……というわけでして?」
「はい。言うなれば民間企業を狙った重工業への誘い、と申しましょうか」
「素敵な招待状にございますね」
これで、一大工業地帯の建設を目論むと。
そんな製鉄所の建設に予算は総額1500万圓が確保されている。小倉、室蘭、尼崎に建てられるのは史実の八幡製鉄所(初版)の5倍の出力を見込んだ銑鋼一貫製鉄所だという。
とはいえ、それでも5500万圓が残る。全て工業地帯の建設に使うのだろうか。
「いや、そうにはございませぬ」
「違うのですか」
「工業力に物を言わせようとも、肝心の工作機械がゴミ同然では戦争に勝てませぬ」
工作機械、か。この国の貿易赤字を悩ませる輸入品目、堂々の一位に輝く代物である。
旋盤といいなんといい、金属加工技術の根幹だ。
「そのための海外留学や技術研究です。技術科学力向上のために、それらをひっくるめて約1000万圓をあてます」
「はぇ〜」
「まだまだ。追加でもう2つほど」
「まだありますの? この辺で良くはございません?」
「駄目です。金本位制の確立です」
ああ、と玲那は頷いた。
「いつまで経っても銀本位制では、世界経済から取り残されてしまいます。迅速な金本位制の確立には大量の金塊が必要です」
「なるほど、それで紫禁城を占領した時に」
「はい。清朝帝室の財宝の金塊を優先的して押収するよう姫宮に奏し上げたのは、そのためにございます」
なおそれでも足りないので、大量の金塊を買い付けると松方は言う。
これで産業投資7000万圓のつかいみちも大枠が見えてきた。
金塊買い付けに1000万圓。
製鉄所の建設に1500万圓。
技術力向上のための留学・研究費、1000万圓。
では残りの3500万圓がすべて、工業地帯の建設に使われるのか。
史実の産業予算がたった58万圓であることを慮れば、如何に重い覚悟で工業化を推し進めようとしているのかがわかる。まさに傾斜生産だな――とそこまで思いふけっていたところへ、松方は口を挟む。
「何を勝手に終わらせようとしておりますか。追加でもう2つと申したうち、まだ私は片方の用途しか申しておりませぬ」
身構える玲那に、彼はこう言った。
「食糧管理制度の導入に、コメの買付金元手1000万圓」
「食糧……?」
「産業とは、工業のみにあらず。この国の非効率極まりない"農業"にもメスを入れますよ、小さな女王さま」
ひとこと、彼は笑った。
―――――――――
時系列は、戦時中へと巻き戻り――、
明治29(1896)年7月25日 豊島沖
「ぐっ、はぁ……!」
彼は必死に波に呑まれないよう足掻く。藻掻く。
「くそっ、畜生!」
眼前には清朝艦隊。
戦艦『富士』、司令塔に敵弾が直撃。聯合艦隊司令長官・伊東祐亨大将以下、第一遊撃隊司令部は全滅した。その中の唯一の生き残りがこの男、参謀・秋山真之だ。
「枢密の命令に全従したらこのザマだ…!どう責任取ってくれる…!?」
彼は恨めしげに、旗艦命令に背き戦闘を継続する巡洋艦『浪速』を見上げ、唸った。
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