第20話 雨霧の中へ

「閑院宮親王殿下は、良い隠れ蓑になりましたか?」


 その言葉に、身体が硬直した。


「どうです、役に立ったのですか?」

「……随分な御言葉ですね」


 料亭を出た外で、玲那たちは傘を差して立つ。


「閑院宮親王殿下は、このまま史実通りなら参謀総長にまで仕立て上げられます」


 ゲームストーリーには描かれない不遇宮さまのその後か。なかなかの出世とは、やるじゃん殿下。


「しかし陸軍の統制に失敗。二・二六事件では事態を悪化させ、その後の東条英機以下、統制派の伸長を招くことになるのです。ゆえに枢密院は――閑院宮親王殿下の"処分"を決定しました。七年前の事でございます」


 思考が止まった。処分、だって?


「上川離宮を創設し、中央から放逐する。史実では無能あるいは有害と烙印を押された皇族を送り込む場所として建設されたのです」

「……ッ」


 なんですか、それ。

 俯いて唇を噛む。史実において害を為すから――そんな理由でこんな仕打ちがまかり通るのか。


「しかし皇族で幸いでしたね。麦飯を配給せず戦地で脚気を蔓延させることとなる森鴎外は陸軍を追放されて路頭に迷いましたし、ニコライ2世に斬りかかって大津事件を起こすこととなる巡査は、事前に、処分という名目で暗殺されましたから」

「ッ!」


 何もせぬうちから『史実の罪』を根拠に殺す、そんな理屈が通るのか。

 なんなのですか、と声が漏れる。


「枢密院は神か何かなのですか」

「まさか。どれも皇國の為でございます。必要な犠牲とでも言いましょうか」


 そっ、と洋傘を上げる。一歩、二歩と正面へ踏み出した。

 史実では無能だったから。そんな理由で追放されたのか。一方では史実で有能だったから、そんな理由だけで厚遇して自分たちの内輪へと招待するのか。


「たいそうなご信頼ですこと。宗教なのですか、『史実』とは」


 その史実知識とやらで自信満々に風呂敷を広げ回って、その末にあんな戦争を起こして玲那に泥水を啜らせたのか。

 それでなお、こうして閑院宮と玲那を最前線へと送り続けるのは穏便に"処分"するためか――なんと厚顔無恥にて傲慢不遜。


「……そんな盲信者どものせいで、玲那は」

「ええ。少しばかり、史実を信じすぎている」


 きっ、と松方の胸元を睨めつけた。そこに輝く枢密院徽章を提げて、何を。


「閣下とて、その一員でしょうに――!」


 松方は言った。


「北方に関しては最後まで反対を貫きました。布石を打つなら清朝との対立を終わらせてからにするべきだと、何度も主張しましたとも」

「……枢密院で、でしょうか」

「はい。しかし『史実』を盾に、主流派に押し切られました」


 遠く、本土のほうへ目を遣り彼は言葉を継ぐ。


「勢いがあるのは彼らです。なにせ北方戦役までは、史実知識をもとに着々と成果を出してきたのですから。そして姫殿下の仰せの通り――その周囲は、じわじわと思考を放棄しつつある。主流派に縋りつつあるのです」


 政府中枢からは思考の芽が摘まれつつある、と。


「ゆえにずっと探しておりました。殿下の仰るところの『枢密院を止める存在』を」


 そこへ担ぐに値する知性と意思、そして血筋を持った存在を。

 まるで巡懐するように、その目を細めて言うのだ。


「たまたま赴任した学修館の、たまたま担当した初等部入試。そこにあった一枚の答案と出会えたのは奇跡だったのかもしれません」

「……」

「"処分"の機会に北方に送り、それから姫殿下の御智を拝謁させていただきました。そして今しがたの面接を以て確信いたしました」


 目を見張る。上川宮廷に追放された理由を、ずっと勘違いしていたのかもしれない。


「史実を識っているだけではない――姫殿下の才は、不肖この松方の目に狂いなく」


 玲那はごくりと息を呑む。


「私が探していたのは、あなたに間違いない」


 松方正義は、まっすぐこちらの瞳を見た。


「まもなく元服にして、家柄も申し分なし。隠れ蓑によって正体が無駄に霞むのは、能力のすべてが発揮できないのはむしろ皇國への損害となるのです」

「……であれば、どうしますの?」

「閑院宮殿下の背蔭から出てはいただけませぬか、姫殿下?」


 それは重い声で、圧をかけるように。ゆえに玲那は口を開く。


「いいえ、と申しましたら?」

「そうですね……」


 彼は少し黙ってしまう。なにせこちらだって事情はあるのだ。大々的に動き出して目立つのは、皇國枢密院を刺激するのみならず、ゲームストーリーの舞台・華族学修院での立ち回りにも影響しかねない。あるいは戦績を変に買われて陸軍に深入りする羽目にもなりかねない。リスクが大きすぎる。

 ゆえにあくまで戦果を適度に閑院宮に押し付けて、雲隠れする必要がある。矢面なんて御免というものだ。


「では、こちらとしても……少々強引にならざるを得ますまい」

「強引、と仰いませば?」


 松方の次の言葉は、ぞくりと玲那の背を駆けた。


「まもなくのうちに、表舞台へ引きずり出して差し上げましょう――我らが王女さま?」


 なにをするつもりだ、松方正義。

 そう問う間も与えず、彼は踵を返していった。

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