第19話 悪役令嬢はパイを切る 後篇
「中国分割が始まるのは本年以後、『眠れる獅子』が『死せる豚』だったことに気づいた列強諸国が下関条約の借款を使って租借地を獲って鉄道を敷き始めるのです」
ナイフを入れながら、玲那は口にする。
「連中より先に港湾を租借し、鉱山経営権と鉄道敷設権を獲得しようということでしょうか」
「ええ。それも一等、美味なる部位を」
地図のほうを向いて、長江の下流域を示した。
「まず最初に抑えておきたいのは……南京、蘇州、上海、杭州といった市邑を擁する『長江デルタ』にございます」
付加価値の高い商業作物の一大栽培地にして、21世紀に入ると大陸最大級の都市部となり、高度な発展を遂げる一帯。
1842年の南京条約により上海が開港、これを契機として英仏の上海租界が形成され、1865年には香港上海銀行が設立されたことを先駆として欧米の金融機関が本格的に上海進出を開始した。1871年には清朝で初めての国際電信が開通、いちはやく大陸の玄関口となったのだった。
「ここからは史実の話になりますけれど……下関条約のち、1898年には大英帝国が上海=南京の
「お詳しいのですね」
「こと鉄道に関しておりますもの」
ふはっと笑う松方に、重要なことですよと玲那は文句をつける。
「どこの列強がどこの鉄道を、その敷設権を確保したかで、大陸における勢力圏が確定していくのですから」
「敷設権? 開通させずともいいのですか?」
「領有宣言のようなものとお考えください。他の列強に対する意思表示です」
「あぁ、なるほど」
玲那はまず、上海のすぐ南に浮かぶ――舟山群島と呼ばれる、長江河口から杭州湾を塞ぐように点在する島々を見た。沖縄本島に匹敵する面積を誇りながら水道を隔てて商港・寧波にも接しており、防衛上も経済上も拠点にするにはちょうどよい。その様はさながら長江の香港島だ。
「この戦争においてはまず、この舟山群島を獲得すること」
「……台湾よりも優先度が高いのですか?」
「いえ、台湾や澎湖諸島に次ぐ形になりましょうか。遼東半島よりはずっと優先するべきです」
ほう、と松方は考え込む。
「そのお言葉からして……三国干渉は未然に防ぐつもりですか?」
「ええ」
「それも、最初から遼東半島を放棄する形で」
玲那は頷く。遼東半島を獲得したところでロシア帝国とフランスからは返せと圧力を掛けられるのは史実が証明している。いわゆる三国干渉だ。
「三国干渉はこの国の外交史において十の指には入る大失態でございました」
清朝の大敗を列強諸国が予期していなかったとはいえ、北京を直接脅かす遼東半島が清朝の手から落ちることは清朝の権威に関わる。清朝が崩壊しては列強諸国の東洋政策は根本からひっくり返る――史実における遼東半島の割譲要求は、ロシア帝国のみならず列強諸国の全てに喧嘩を売る暴挙であった。
「近代化わずか30年足らずゆえの、外交経験値の不足ではありましょうが……根回しを疎かにすべきではなくってよ」
協調性、あるいは国際感覚の欠如というべきか。日清戦争から対華二十一か条、国民政府を対手とせずから世界大戦に至るまで、史実では一向に改善しなかった。
「また三国干渉の受諾は、ロシアへの屈従という意味で朝鮮王宮に受け取られました。親露派が跋扈するようになりせっかく清朝から切り離した朝鮮半島すらをも失うこととなったのです」
こうして半島を鎮撫するのは更に十年後へ先延ばしとなった。百害あって一利なし、
「……疑問が二つあります」
松方は、慎重な面持ちを崩さない。
「まずは一つ目。史実同様、陸軍は強硬に旅順要塞の割譲を要求するでしょう。いかがなさるおつもりですか?」
「遼東半島の非武装化、あるいは盛京省に関する不割譲条項の制定で応えます」
皇國勢力圏にはしないようにしつつも、史実のようにロシアの手に渡して皇國を立ち阻む要害にはさせないようにする。適切なのは不割譲条約か。
「……いまやこうして占領した地です。手放すことに収まりがつくでしょうか」
「その代償としての舟山群島でもございます。また、史実と異なり枢密院の威光で軍部を押さえつけることもできましょう」
「そこなのですが」
松方は断りを入れた。
「二つ目の疑問でもあります。舟山群島の割譲は、果たして列強諸国を刺激せずともいられるのでしょうか」
ふふ、と玲那は笑う。当然の疑問だ。パイの入刀手は玲那たちだと言い切った手前、根回しの必要性を説教する。まるで矛盾した論法に見えなくもない。
「ええ。ですからさらに追加で長江河口北岸、東シナ海に突き出した南通半島を25年間の占領といたしましょう」
「は?」
呆然とする松方は、何を言ってるんだこいつはという顔をした。
「なんで? 根回しは?」
「大英帝国の釣り餌にする」
にっ、と口角を上げてみせる。
「こんな素敵な晩餐会、客人を招かなければ失礼にもあたるというもの。なればまずは、今次戦争に際して通商航海条約を交わし皇國の後ろ盾となっていただいた連合王国さまへの招待状です」
「招待状、ですと?」
「ええ。占領した南通半島は大英帝国へ譲り渡す」
口をあんぐりと空ける松方。玲那は一旦言葉を切って、継いだ。
「大英帝国には南通半島を譲り渡し、連合王国が長江を境に北側を勢力圏とすること、並びに天津=浦口(南京)間の津浦鉄道の敷設権・附属地を認める。その代わり方々には、長江南岸の一切から――上海から撤退して頂きます」
上海を指して、バツ印にナイフを切った。
松方は声を震わせる。
「……魔都を、頂戴すると?」
「いいえ。そもそも『魔都』にはいたしません」
「??」
トントンと机を叩く。
「上海は史実、下関条約を境に魔都への道を歩みだしました」
少し詳しく解説していく。
下関条約以後で工業企業権が諸外国に与えられるとともに、帝国主義下で諸列強は資本を次々投下、工場建設が強力に推し進められた。上海は英領香港の高税率に対して課税が緩く、また租界も用意されたので、香港のユダヤ資本が上海に向かって全面的に移転し、第一次世界大戦後に全盛を極めるに至る。
1920年代から1930年代にかけて、上海は中華最大の都市として発展し、大英系の香港上海銀行を中心に東洋金融の中枢となった。上海は「魔都」あるいは「東洋のパリ」とも呼ばれ、ナイトクラブ・ショービジネスが繁栄した。こうした上海の繁栄は、中国民族資本の台頭をもたらし、階級闘争的な労働運動が盛んになっていた。
「魔都は……その国際性から来る共産主義と、民族資本から来る民族主義と独立運動の中心地となるのです」
魔都の生み出す利益は破格だが、それは猛毒を孕む。
中国共産党創設の地が上海であることを忘れてはならない。
「皇國が一国で抱えるには、リスクが大きすぎます。なにより民族主義運動の中心が皇國勢力圏にあっては、まず第一の排外標的にされるのが皇國となってしまいますもの」
皇國へ反抗統一などとやられたら、それこそ史実の再来だ。
「……まあ、確かに。そもそも金融の国際性がなくては魔都にはなれぬでしょう。皇國勢力圏とする手前、魔都を構えること自体が矛盾になりますか」
「さすが松方蔵相、わかってらっしゃる」
「なら、この世界の魔都は――広州になりそうですな」
大陸華南、香港と澳門に挟まれた珠江の河口つきあたり、広州と記された都市へ視線を移す。
「大英とフランスの利権が交錯し、ポルトガル領の澳門まで抱える国際色多彩なこの立地。起爆させれば、一気に上海の代わりとなりうるでしょう」
「ええ。そもそものポテンシャルはありますもの」
「こうして……皇國から『魔都』を遠ざけることが出来る、そういう策略でございますか。姫宮」
かわりに上海はぐっと衰退することにはなるだろうが、結局は皇國勢力圏に入るのだ、その港湾は大切に使わせていただこう。
話が逸れたな。玲那はひと息ついて、紅茶を啜る。
「英国人にはこれでよいとして。あとは三国干渉の不確定要素……ドイツ人にも根回しが要りましょう」
「
となれば山東半島か。玲那は先の海戦で壊滅した北洋艦隊の根拠地、威海衛へと目を遣った。
「北洋艦隊の平定を口実に、威海衛の10年間の保証占領。これも当然ながら直ちに
「英独と口裏合わせというわけですね……これで三国干渉を切り崩す、と」
口元をひきつらせるように笑う松方正義。ロシアとフランスは放置でもいいだろう、南下を続けるロシア帝国はどのみちあと十年で衝突する相手だし、露仏同盟については手の出しようがない。
「合衆国はアラスカの開拓とスペインの相手で新大陸にくぎ付けでございます。東洋に関する限り、英独を背後につけた皇國が露仏相手に退く道理もございません」
ふはは、と松方は声を漏らす。
「東洋の新秩序を……その御手で創ろうというわけでございますか」
「ふふ。どうせこの手で
玲那はフォークを手に、片目を瞑ってみせる。
「連合王国には長江以北を。
これにより浙江・福建・江西の3省が完全に皇國勢力下へ収まるだけでなく、古くから大陸文明の中心をなす穀倉として知られた――"江浙熟すれば天下足る"――肥沃で遠大なる長江デルタを手に入れることができる。
「ここで莫大な収益を上げている商業作物の栽培も良いですが、新たに米プランテーションも展開するとよろしいかもしれません」
「米プランテーション、だと?」
「ええ。原料供給地兼市場でございます」
長江デルタをなぞるように、くるりとフォークを回した。
「ここに、列強諸国の第一次産業革命時代を支えたプランテーション制による稲作を実行します。フランスが仏印メコン川流域にて完成させたそれを理想形として」
「……プランテーション、ですか。あまりいい響きではありませんね」
「もちろん奴隷制だの低賃金の強制酷使だの野蛮なことはいたしません。銃突きつけて働かせても労働意欲がなくては成果は出ませんもの」
倫理観に欠けた上に非効率なだけの列強の失敗をも踏襲する必要はない。玲那たちは先例から学ぶことが出来る。
「玲那たちはあくまで倫理的かつ経済的にやるべきです」
こほん、と咳払い。
「慢性的な米不足にある皇國は、その貧しさに喘ぎ多くの移民を海外へ排出、国内市場の、皇國の歯車となるはずだった人々をむざむざ世界中に撒き散らしてしまったのです」
更に皮肉なのは、その相変わらずの勤勉性を移民先で発揮した結果、仕事を奪うとして"排日移民法"に代表されるバッシングに発展していったことだろう。
国内に留まり、勤勉性を遺憾なく発揮、皇國という巨大機械の部品となってくれればこういったことは一切起こらずに済んだのに。
「維新以後、皇國は毎年膨大な移民を垂れ流しています。この傾向は――今年を境に、粉砕するべきです」
移民ゼロ社会だ。さあ行かう、一家を挙げて南米に……など冗談じゃない。
「皇國にとっては百害あって……いえ、一利くらいはあるかもしれませんね。向こうで移民ネットワークを構築できたりします」
「お気が定まりませんね」
「いえ……それでも国内に留まってくれたほうがよくってよ。それに、維新からもう30年経ってるのですから随分と流出いたしました。これ以上は御免というもの」
というわけで、と長江デルタに目を戻す。
「長江デルタには『皇國の食料庫』を担ってもらいます。」
なにせ、春秋戦国以来の中原の穀倉だ。これ以上の適任はなかろう。
「ここに"原料供給地"を確保。
このプロセスでまずは『経済的従属地』を形成する。
農産物を買い、工業生産物を売りつける。その差額でボロ儲け、国内の軽工業を完全に成熟させるのだ。
「大農法、でございますか」
「ええ」
「失職する農民が溢れかえりそうですね」
「失業者は皇國勢力圏で働いていただきましょう」
目を伏せて、フォークを刺す。
「大農法が浸透、
儲けたカネを、今度は投資に回していく。
帝国主義と、第二次産業革命への第一歩である。
「余剰労働力を、英独に認めさせた勢力圏での鉄道敷設と、その沿線に起こる投資で出来る工場群に殺到させるのです」
まぁこれはもうすこし先の話だ。
まずは目先の勢力圏を確定しようではないか。
「英独は、皇國から占領地を委譲されることで、中国分割への第一歩を皇國から提供してもらった形になります。大きな『貸し』にございます」
それで、史実は全域が英国勢力圏に入った長江流域の南半分を、皇國勢力圏へ入れることに同意してもらう。
英独にとっても、他の列強に先んじて中国分割に乗り出せる。悪い話じゃない。
「玲那の思い描く戦後の秩序は、この通りでございます」
ナプキンを裏返して、ちょちょいと図を描いた。
____________
[各国勢力圏 / 鉄道線略図]
北京 ── 天津⚓
¦ |
洛陽 ┉┉ 済南 ┉ 青島
¦ |
武漢=九江=南京
¦ ┃ ┗┳上海⚓
長沙━南昌━杭州
¦ ┃ ┗寧波
¦ 福州
広州⚓
━:皇國 ─:連合王国
┉:
=:長江
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「舟山群島……上海と杭州と寧波に挟まれた、理想的な立地なのですね」
「ええ。よいところに目を付けましたでしょう?」
いやはや、と松方は呟いた。
「北京から南京に至る津浦鉄道の敷設権は、史実通りに連合王国へ認めますの。青島から洛陽に至る黄河流域の一切を
「黄河はドイツ。長江は英国と皇國。わかりやすいのに巧妙でございますね」
玲那はナイフで長江デルタをなぞって示す。
「まず建設すべきは、南京上海間の
明治34(1901)年までには開通させたいものだ。
それが出来れば、舟山群島から寧波に出て、長江南岸の山間を走って湖広の穀倉地帯・長沙へと繋ぐ『南長江鉄道』を建設していく。大陸中央に横軸の生命線を引いていくのだ――そうやって切ったパイを、ぱくり。玲那は口に頬張った。
「んっ……おいしい」
長江の蒸気船航路と、鉄路を織り交ぜた長江南岸に築く皇國勢力圏。第一次産業革命を進めるにも第二次産業革命を進めるにも、うってつけ。史実における満蒙を代替して余りある。
史実では後発プレイヤーとなって、あとから来たのにも関わらず積極的に拡張しようとしたところ、既存の列強権益を脅して敵に回したに留まらず、中国民族主義の排斥運動の矛先までもを向けられてしまうという散々な目に遭い、大失敗を喫した。
しかし、今回は最先鋒での参加。それも下関条約という正当な取引の上である。
あとから来て拡大する者が民族主義の標的となるのは史実が実証済みだ。皇國に続いてやってくるのは他の列強になるのだから、新たに『魔都』となる広州において興隆することとなる中国民族主義の恨みを買うのは英仏か、もしくは合衆国か。
ただひとつ言えることは、皇國は最低限の犠牲と反発で、大陸における最も豊かな一帯を独占することができるということだ。
「長くなってごめんください、下関条約においては――。
・朝鮮の独立と戦争賠償金
・台湾、舟山群島の割譲
・南通半島と威海衛の占領
・長江南岸4区間の鉄道敷設権と鉱山採掘権の獲得
以上が、確保すべきラインでございましょうか」
カタカタと皿が鳴る。顔を上げてみれば松方がくつくつと笑っていた。
「ふふふ、ぶはははははっ!」
カトラリーを置いて料亭じゅうを揺るがすような声を響かせるのだ。あまりの脈絡のなさに玲那が固まっていると、あぁいえ、すみませんと松方は居を正した。
「最初から、こうして直接話を聞けばよかった……徒労でしたね」
「……は、はぁ」
「なにも北方へ送って見定める必要など、ございませんでした」
玲那は目を見開く。まさか、玲那を上川送りにしたのは――。
「姫宮。これにて全ての諮問は終了です。そしてここからは……余韻のような、雑談になるのでしょうか」
彼は、コーヒーカップを置いて呟いた。
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