第21話 百花繚乱

 手を開く。それから閉じる。

 白くて小さな手だ。


「……この身は、少女なのですね」

「なんですか。いまさら」


 別海睦葉の不機嫌そうな顔がある。

 北方戦役の一発で大半が、釜山の戦いでほとんどが玲那を一目置くように、あるいは溝を開けるようになったけれど、彼女だけは変わらない。禁闕部隊が初めて召集された日から、玲那への視線はそのままだ。


「そう思うなら年相応に振舞ってくださいよ」

「ふふ。しかるべき境遇ならそうしたかったのですけれど」


 目をそらすように窓の外へ目を遣れば、宵明けに浮かび上がった彩雲がすぐ脇をゆるりと流れていた。玲那のしぐさに、ふぃっ、と別海は顔を逸らす。


「ほんと、かわいげのひとつない」


 まったくその通りだな、と笑ってしまう。

 玲那が言い出したこととはいえ、旅順から渤海上空を突破して敵地直隷のど真ん中へ。航続距離の限界ギリギリで飛び降りて、乗り捨てた飛行船はそのまま爆破なんていう片道切符の地獄行き。こんな冗談みたいな特攻作戦に、かわいげもへったくれもありやしない。


「連隊直属……禁闕きんけつ中隊。またの名を空の神兵。……ほんと、かわいくありませんこと」

「っ」


 きっ、とこちらを睨む別海。はぐらかしたのは悪かったなとは思いつつ、玲那は首を振って否定する。


「愛でらしい少女でいては……間に合わないのです」

「何にですか」

「運命に」


 きょとんと固まる別海に、玲那は重ねて息を継ぐ。


「あどけなくお飾りに収まっていれば、北方戦役ではそのまま破滅していました。軍議で身の程をわきまえていれば、鴨緑江あたりで補給が切れて破綻したでしょう」

「……っ」


 その口上に彼女はうつむいた。そのまま黙り込むかと思えば、少しだけ言い澱んで、ぽつぽつと彼女の口から言葉が溢れてくる。


「破滅、破綻って。国の運命なんて……私にだってわからないのに。そんな壮大なもの、そんな小さな唇で語らないでください」

「……」

「純粋に、納得いかないんですよ」


 そんな風に、口をとがらせる。


「私なんかより3つも下の女の子が、こんなところでそんなことを言うのが」

「わきまえろ、と仰るのですか」

「そうでしょ!」


 彼女はすっくと立ちあがった。


「なんで誰も貴女に――ちゃんと子供であることを許さないんですか!」


 玲那は目を丸くした。彼女の憤る理由が、思っていたのとまるで違っているようだったから。


「市井に生まれていれば夢も希望も見れたはずの年頃の女の子なのに。なんで国家の運命なんて背負わせて、こんな死地に追いやるんですか」

「っ」

「見ていてそれが許せないんです。違う……そんな小さな背中に、押し潰れそうなくらい背負い込まされて、追い込まれたような顔で"運命"だなんて言われたら……泣きそうになる」


 玲那としたことが、返す言葉が咄嗟に見つからなかった。なんて答えたのだろうか、泣かれても困りますよ、なんて適当な返しであしらってしまったのだろうか。


「皇族だから、なんて言葉で括るには……貴女はまだ若すぎます」


 彼女の一言一言を、玲那は慎重に噛み締める。ていねいに咀嚼して、呑み込んで、それからしっかりと瞳を合わせる。


「……久々です、そんなことを仰ってくれる人は」

「っ」


 別海の拳がきつく締まる。その瞳に宿るのは憐憫でも羞恥でもなく、ただまっすぐに目の前の12の少女を見つめる眼差しだった。


(……)


 家族と分かたれて、別邸で育てられた。上川に飛ばされてからは、閑院宮が「転生者」を見てくれた。戦場では兵士たちが「皇女」を見てくれた。遠くから松方が「悪役令嬢」を睨み続けた。

 その一面一面に遮られて、いちばん奥底に埋まって、蹲って、有栖川宮玲那という少女はたぶんきっと、泣いていた。


(あぁ)


 十何年、ひとり孤独に泣いていた。

 そこへふと差し伸べられた陽の光――随分長く忘れていたような温かみが、この心にじんわりと広がっていく。いつ以来だろうか。脳裏に吹き込むのは少し冷たい春風。青緑の幽林が向こうへ広がる。泥に伏せた玲那を庇うように立っていたのは、銀髪の少女だった。


「あったかい……なぁ」


 あの琥珀色の目は、皇女でもなく、悪役令嬢でもなく、はたまた転生者でもない――どんな肩書をも見透かさず、ただ有栖川宮玲那という少女を見据えてくれた。

 言葉にはならないけれど、それは確かな温もりだった。久しく忘れた感触だった。


 目の前の瞳と重ねてみる。差し伸べられたその陽だまりに身を凭れたくなる。甘んじたくなる。気を抜けば、そこへと歩み寄って行ってしまいそうで――だから見逃せない。

 この胸ごと、小さな少女を刺し貫いた。


「わきまえよ、別海陸軍准尉」


 すべてを断ち切って、玲那は立ち上がる。


「玲那……――いいや、わらわは有栖川宮家第二皇女である」


 年相応に甘んじた果てに、破滅があることを知っているから。あの物語の中だけじゃない、先の戦場でも痛いほど学んだことだった。少しでも踏み外せばどうなるか、この手に忽然と残されたあの長槍が残酷なまでに物語る。

 もう戻らない銀髪の面影が、脳裏をよぎって消えていく。


「天皇を護るは皇族の務め。天皇それ即ち国家なり。国家を護るは軍人なり。わらわそれ即ち、皇族軍人なり」

「っ……!」


 別海の顔が歪む。その悲痛な面持ちには、悪いけれど、なにも答えてやることができない。玲那には決してできない。

 こうして無理やりに黙らせるしか、できないのだ。


「この血に課された責務は、年齢の如何に拘らざる也」


 最初から退路など用意されてはいなかった。ただの少女に身を窶せば破綻する。振り払って歩み続けて、この運命とやらを捻じ曲げなければならないのだ。


「付き従え、小隊長。妾が連隊闕杖官であるうちは」


 ジリリリリと鳴り響く降下準備のブザーを背に、少しばかりこちらより目線の高い下士官の瞳を見据えて、玲那は叫んだ。


「敬礼ッ!」

「……っ」


 右のふとももを苦しそうに握り込んで、痛ましいほどに顰めた眉間のままに、それはもう切ないまでに別海は喉をかき鳴らす。


「はッ……!」


 かつん、と軍靴を鳴らして配置へ戻っていく彼女を見送りつつ、玲那は小銃を担ぎ上げる。この白くて小さな手が忌々しい――北方で、釜山で、あれだけ人を巻き込んで、人を殺して、差し伸べられた手さえ叩き払っても、なお運命を変えるには遠いのか。


「間もなく燃料尽きます」

「船体爆破、準備完了」

「外気圧よし。全計器異常なしオールクリア!」


 それから、ゆっくりと足を向ける。覚悟の末に、全体の前へと。


闕杖官けつじょうかん訓示」


 くぐもった別海の声に、すぅと肺を膨らます。


「これより、われらは世界で初めて空から敵地に殴り込む」


 毅然と響く高い声。


「目標――清朝皇帝・光緒帝および西太后」


 目を見開いて、眼下へ。この軍刀を打ち鳴らす。


「当然ながら退路はないが、完遂の暁にはわれらは戦史に不滅の金字塔を打ち立てる!」


 すべては、この戦争を終わらせるために。


閑院連隊長宮かんいんれんたいちょうのみやをお護りするより、今宵の責は重いと知れ!」


 仏暁を背に渤海より侵入した飛行船部隊は、彩雲を掻き切って現れる。清朝も、列強諸国も、世界の誰もが想像しえない致命的な一撃だ。


「千年秩序をぶち壊せ!」

「「冊封体制に終止符を!」」

「歴史に我が名を、祖国に勝利を!」

「「皇國に栄光を!」」

「小隊諸君、死地への覚悟は!?」

「「われら白蓮、華麗に咲いてみせましょう!」」



「よろしい、降下口開放!」



 扉が開かれ、烈風が船内を馳せ回る。


「用意ィ、用意、用意ィーッ」

「降下ァー! 降下、降下ァ!」


 身を投げ出す。

 眼下に広がるのは、桃花咲き誇る荘厳の帝城だ。

 その美しさに思わず息を呑んでしまう。


「落下傘開けェー!」


 下に、隣に。ぽんぽんと咲いていく白い花の中で、玲那は現実に引き戻された。


「展開っ!」


 ぐっと身体が引き上がる。




 オォォォォォ―――!




 紫禁城上空に、百数十の純白の花が優雅に開いた。

 ただただ、それは美しい眺めだった。


 明治29年(1896年)12月18日、紫禁城直上。

 戦争終結を告げる鉄槌が、高度2000より振り下ろされた。


 清朝の頂点たる皇帝に君臨する愛新覚羅一族の紋章、蘭樹。

 300年の歴史の中で巨木になり、永久に続くと思われた神聖なる大樹を――春一番の烈風を以て、伐り倒す。


 北鎮第26連隊・禁闕中隊、北京へ降下開始。






・・・・・・

・・・・

・・






 その日、李鴻章は後三宮へ呼び出されていた。


「鴻章。倭寇の脆弱な軍勢ごときに、旅順まで落とされたのかしら?」


 壇上に座すのは広大なるこの帝国を扼したる皇帝――を傀儡に貶める太上皇后、西太后。李鴻章はおそるおそる顔を上げる。


「畏れ多くも太后陛下。私めの奏上した軍隊指揮権の統一がなされていれば……」

「ワタクシに文句でも?」


 傾国と呼ぶには老いつつも、その恐ろしさは一層苛烈になりつつあるこの女は狡猾にて野蛮。三百年来の清王朝が膿んだ最大の悪性腫瘍。だが、この腐り果てた蘭花の怒りに触れた者は、すでにこの世に存在しない。いくら憤ろうが逆らえないのだ。


「たッ、大変申し訳ありません。必ずや蛮族を海へ!」

「その必要はありませんわ」


 西太后は控えていた禁旅このえに目で命じる。

 四の五の言わずに禁旅このえは李鴻章を拘束した。


「な、何を為されるつもりですか殿下!」

「さぁーて、どのやり方が最も面白いかしら。辛酉政変の時の載垣、端華、粛順のようにただ処刑するだけでは面白みに欠けるものね……」


 青ざめる李鴻章。焦って開きかけたその口を、西太后の哄笑が妨げる。


「そうだ、手足を削いで瓶に詰め込んで差し上げるわ。市内中で見せ物にするの。貪欲な臣民どもも大喜びするに違いありませんわね!」

「な、っ……!」


 李鴻章の血が頭から引いていく。殺されるのか、この悪女に。


「鴻章、ワタクシは悲しんでいるのです。天下の華外、穢らわしい東夷にどうして天子の軍勢が負けているのかしら?」


 どうせ死ぬなら持論を堂々展開したっても別に損はない、と李鴻章は啖呵を切った。


「彼らは我らと違って政体的な面においても西洋化を成し遂げております! だからこそ西洋の武器を投入しただけの我軍は日本に及ばなかったのだと――!」

「その文脈からすると西洋が強者、と聞こえるのは気のせい? くだらないわねぇ、あの洋狗どもを信仰するだなんて」


 途端に西太后は呆れ返ったような、侮蔑したような視線で李鴻章を捉えた。


「いい? 南蛮の洋狗共は昔から中華圏には属していない独立文明。たまたま卑怯な兵器をその下劣な思考で開発することに成功しただけ。」


 西太后は続ける。


「けれども倭奴に限っては違う。同じ中華文明圏の端、それも朝貢国でしょう? 蛮族の海賊の成り上がりでしか無い東夷の軍門になぜ下らなければならないの?」

「ですから彼らは!」

「もういい。倭寇の連中はワタクシを怒らせた。元代倭征の時のようにでしゃばった蛮族には教育をしなければ」


 腐った最高権力者は、ばっ、と扇を広げて微笑む。


「在清日本領事館員を拷問にかけて、全てを聞き出した後に抹殺しなさい。国内にいる倭奴共は全員速やかに殺処分よ」

「そ、それは流石に……!」

「黙らっしゃい。勝てばいいのよ勝てば。これから私達は戦力を建て直して、倭の島々を火の海にし倭寇どもを一匹残さず根絶やしにしなければならないでしょう?」


 この女は現実が見えていない。だがそれでも。


「死にたくなければすぐに取り掛かりなさい鴻章。さすれば今までの失態はワタクシが恩赦して、貴方と一族郎党の命を助けてあげますわ。感謝なさい」

「……っ、はッ」


 従うしか無い。

 李鴻章が頭を下げたその瞬間。


「殿下!」


 バタンと音を立てて、禁旅このえが御殿に飛び込んできた。


「空から何かが降ってきています!」

「何かって?」

「外をご覧いただければ!」

「ワタクシ自ら動けと申すのかしら?」

「い、いえ。ですがどう対応致せば!」

「はぁ? そんなの――」


 何気なく視線を窓の外に持っていった西太后は固まった。

 李鴻章も外の景色へ視線を移す。そして、唖然とした。


「ば……かな……」

「なんですの…、これは……!?」


 空に、花が咲いていた。

 不気味なまでに美しく、純白の蓮が舞い降りる。


「ワタクシの城で、一体何がぁっ!?」


 程なくして太和殿に赫灼の太陽が翻った。北京の帝城に日が出づる。


「うぇ――倭人の旗!?」


 李鴻章の理解は追いつかない。敵は天から降ってきたのか、と。

 あるいは、本当に、日出処ひのもとに住まう者なのか。


「太后陛下、早くお逃げに!」


 唯一つ分かること。もはや彼らを属領として扱うことは出来ない。


「鴻章! なにを呆けっとしているの!? 早く裏門から――」


 彼らは我が文明を既に大きく凌駕している。空から兵を送り込んだのだ。


「陛下。お逃げの前に、お忘れ物ですよ」


 思えば初戦から我軍は彼らの手玉に取られて弄ばれていた。

 一方的に猛火力を喰らい、前世代の我軍は遊ばれた。


「た、助かるわ。一体何かし――……ッ!?」


 北洋艦隊は誘い出され全滅。旅順要塞は恐怖に叩き落され降伏。


「ええ、『戦争責任』を忘れてお逃げのおつもりですか?」


 開国たった40年そこそこで千年のあいだ師と仰ぎ続けた文明の主を打ち破り、朝貢体制を――二千年の東洋秩序を踏み躙るのか。


「な、倭兵ッ!?」


 李鴻章は運命を呪う。どう足掻いても、我々は勝つことはできなかった!

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