第三章 日清戦争

第14話 転進

「乃木先生」


 八月の昼下がり、地平線に青年の声が響く。

 背中に数多の古傷を湛えて、歴戦の老将が振り返った。


「いかがされましたかな、迪宮みちのみや殿下?」

「ひとつ、お聞きしたいことがあるのです」


 決心したように青年は尋ねる。


「陛下は、どのようなお方だったのですか」

「……先帝のことなら、殿下が最も良くご存知でしょう」

「父上のことではありません」


 ぐっと拳をつくるその姿に、老将はため息をついた。


「ご執心ですか。あの方に?」

「冗談はおよしください」


 一面の焦土を見据えて彼は言葉を継ぐ。


「知らねばならないのです。帝位を継ぐ者として……――これからの『帝國』を授かる代償に」


 焼け落ちた赤煉瓦の隅にもバラック小屋が立ち始めたこの頃。負った傷は当面癒えずとも、この国がゆっくりと起き上がりつつある証拠でもあった。


「……ふふ。あの悪役ヒールっぷりは、思えば最初からでした」

悪役ヒール?」


 青年の問いに、老将は遠い記憶を呼び起こす。


「あの方と出会ったのは――日清戦争の頃でしたか」




 ・・・・・・

 ・・・・

 ・・




 飛び起きた。背中に汗がびっしょりとしみついている。


「……冗談ではありませんよ」


 まだ荒い息ながら呟く。乃木希典、その名は確かにゲームにも出てきた。高等部3年も窮まって、主人公に追い詰められた悪役令嬢は時の英雄、旅順を落としたばかりの乃木元帥に縋り付こうとするのだ。けれど乃木は悪役令嬢の魂胆を見透かして、興味も持たず適当にあしらった。後日東郷平八郎にもすり寄るが「おまえ誰?」の一言で終わる。嫌なストーリーだ――だからあんなのは荒唐無稽な白昼夢。なのにどこか、とてつもない寒気をいまだ玲那に与えていた。


「なにをぼうっとしておる、秦宮はたのみや中尉」


 中佐へと昇進した閑院宮が声を掛けてくる。


「……もどかしい呼び方ですね。今まで通りでよろしくてよ?」

「そういうわけにもいかん。ここは戦場だ」


 樺太・大泊港で北海鎮台をぶちこんだ船が向かった先は日本海。そのまま玲那たちは、これまた異国情緒漂う桟橋へと降ろされた。どこかしこにも反り上がった黒瓦と、立て札に綴られたハングル文字。ここは東萊都護府――釜山プサン鎮。


「それに、戦況も逼迫しておる。のほほんとしている場合ではない」


 険しい顔で閑院宮は地図を見下ろした。

 明治29(1896)年6月21日、龍山駐屯地奇襲によって全面的に始まった清朝による侵攻は、北方を見ていた皇國の隙を突く形となって半島南部を席巻。皇國は初日で漢城ソウルを失陥したのち、京釜鉄道沿いを敗走して、釜山まで後退した。

 玲那が降ろされたのはまたしても最前線。それも、大陸最後の橋頭保であった。


「いつの時代の国連軍ですか……」

「こくれん、ぐん?」

「いいえ、なんでもございません」


 釜山を防備するのは東京鎮台第1旅団と、揚陸されたばかりの北海鎮台第26連隊。ほかにも広島鎮台が半島南西部に取り残されているが、遠すぎて正面戦力にはなり得ない。広島鎮台の救援のためにも、この釜山を防衛せよとの軍令だ。


「補給状態はいかがでございましょう?」

「問題ない。清朝艦隊は対馬海峡まで出張ることはできん、むしろ今頃は向こうさんの兵站が伸びきってることだろう」

「でしょうね」


 いまは占領地の徴発で凌いでいても、もうまもなく限界に達するだろう。この地で玲那たちが彼らを止めるだろうから。




清朝北洋軍

歩兵 20,000

砲兵 なし

備考 指揮系統は各部隊ごと独立

   北洋軍ほか北宋軍閥など私軍複数動員




「なんですか、これは」


 少将から受け取った紙を手に、閑院宮は声を震わせる。


「……事実でございます、親王殿下。われわれ東鎮第1旅団が何度も相手を強いられた相手です」

「少将たる方が畏まらないでください。ここでは本官は中佐に過ぎません」


 臣下の礼を欠かさない少将閣下に、彼は困ってしまう。


「いえ、それでも御皇朝をお護り奉るのがわれら皇國軍人の責務。ですから――親王殿下に奏上いたします」

「?」

「われら東鎮第1旅団が敵の足止めを致します。その間に内地へとお逃げください」

「……はい?」


 思わず、玲那は訊き返した。

 乃木は一瞬こちらへ視線をやるが、まさかこの12の少女が陸軍士官だとは思うまい、視線をすっと閑院宮のほうへ戻す。


「敵は2万の大軍でございます。乃木わたくしめの旅団と親王殿下の連隊を足しても三分の一に届きません」

「しかし乃木少将、相手は……」

「はい。相手は、300年に渡って大陸に君臨する『眠れる獅子』でございます」


 近年は欧州列強に押されがちとはいえ、東洋最強の大国であることに変わりはないと、乃木は言った。


「2万というのは、大清帝国がこの半島に派した総兵力のほとんどです。数千年来の、冊封秩序の覇者が……全力で殴りかかってくるのです」

「……」

「せめて対峙するなら万全の準備で臨むべきでした。無謀な挑戦です」


 無謀、か。

 もう一度、閑院宮の手にある紙を覗き込んだ。


「やはり……信じられませんね」

「ですから、殿下がたにおかれては――」

「相手は野戦砲の援護もないどころか、私軍の寄せ集めですか?」


 玲那は、閑院宮を見上げて問いかける。


「想定の範疇だろう。今次戦役は清朝にとって、北洋大臣が執り行うものに過ぎない。夷狄の平定に対して責任を負うのは王朝ではなく、一閣僚なのだから」


 あっけにとられる乃木少将。閑院宮の言葉に、ふふ、と玲那は口元を隠す。


「広島に議事堂を移してまで、挙国一致で臨む皇國が惨めに見えますね」

「……言葉を慎め」

「失礼しました。しかし、指揮統制は軍閥単位で、導入している装備もまちまち。彼らは戦争をしに来たのではなかったのですか?」


 玲那の言葉に、乃木は苦虫を嚙みつぶしたような顔をする。


「……お嬢さん。敵はこっちの三倍だよ」

「ええ、見れば分かります」

「しかもこちらの戦力は、恥ずかしながら敗走した第1旅団われらと、樺太から引き揚げてきたばかりの殿下がたのみ。士気も頼りになるまい」


 その言葉に、目を見開いた。


「状況は……御皇族に頼らざるを得ないほどなんだ」


 "皇族が出なきゃいけないほどの負け戦か"――脳裏に反響するあの声が、玲那の拳を締め上げる。


「閑院連隊長宮中佐。そのような軍隊に、皇國陸軍は負けるのですか?」

「……さぁな」

「ふふ……そうなれば、明治維新の意義もその程度ということにございましょう」

「言葉を慎めと言ったはずだが」


 少し強めの口調で制する閑院宮。ため息をついて目を開ければ、すぐ鼻先に乃木の顔があった。


「お嬢ちゃん、ここは戦場だ」


 至極真剣な顔で、玲那の翠眼を見据えるのだ。


「騎士物語のつもりだと、死ぬぞ」

「ええ。従前、十全、存じ上げておりますわ」


 この目で何を見てきたと思ってる。

 乃木の黒い瞳を覗き返すと、彼は諦めたようにため息をついた。


「……たった一個連隊で、何ができる」

「この場で想定されうる程度以上のことは」

「っ。何を根拠に」


 玲那はひょいと前方の塹壕へ足を跳ねて、大きな白い球体に触れた。


「かさばる水冷タンクですけれど、この時代の歩兵突撃を阻むには事足りる」


 はぁ、と乃木の口元が歪む。


水桶タンク程度の障害物で、歩兵突撃が防げるとでも」

「機関銃」


 ひとこと、玲那は遮った。


「1889年に英軍で配備されて以来、アフリカ征服に投入されて膨大な戦果を挙げているにも関わらず、列強諸国は導入に否定的です。その認識を覆したのは――――皮肉にも1905年の乃木大将なのですけれどね」

「っ……、玲那くん!」


 閑院宮が動いた瞬間。バッ、と乱暴に天幕が開く。


「哨戒線より報告! 哨戒線にて清朝北洋軍と接敵!」

「来たか!?」


 伝令の言葉に、まもなく眼下の陣地が騒然となる。仔細を受け取った乃木は一目唖然とした。


「推定戦力、一万五千だと」

「清軍も随分と大きく出たな。最初から総攻撃とは」

「それも事前砲撃すらなしに、ですか」


 朝貢国、もしくは属国を膺懲する程度のつもりなのだろう。

 三跪九叩頭の扱いで、教育か。


(皇國も――随分と見下されたものです)


 よろしい。

 コン、と水冷タンクを軽く突く。


「さぁ、ご覧に入れましょう」


 千年は後悔させてやる。


「たった一個連隊で出来ることを、ね」





 ドォオオン!





 爆炎と共に、影が幾つか吹き飛んだ。

 それでも威勢のいい雄たけびを挙げて、清軍は突き進む。


「ひるむな、進めェ!」

「白兵戦に持ち込め!」


 列強諸国の野戦砲でも毎分2発が関の山。次の砲撃までの30秒、間合いさえ詰めれば脅威でなくなる。


「先鋒、四里を切りました!」

「よし、奴らの射程から出たな」


 三、四発の砲撃で少なくない損害を出しながらも、切迫する清軍。ひとりの指揮官がニィと頬を上げる。


「さぁ、こっちの番だ……貴様ら!」


 走りながら清兵たちは耳を立てる。


「倭王は前史わが天子に跪き、倭の島々を授かったのを忘れたらしい」

「「応」」

「倭寇どもも同様だ。衣食も文字も礼儀もわが文明の恩寵に与りながら、身の程もわきまえぬとは――ちと教育が必要だ」

「「応」」

「東夷蛮族の分際で、天子に楯突けばどうなるか思い知らせてやれ!」

「「承!」」


 方陣から一気に散開し、正面の陣地へ殺到する清軍。けれど、距離3000を切っても一向に迎撃が来ない。後に続く清兵たちは顔を見合わせて笑い出した。


「なんだ、倭奴どもは怖気づいたのか?」

「それによく見たら、やつらの手勢は二千もなさそうだ」


 恐れるに足らず、そう感じたのは先鋒の兵たちも同じだった。


「あいつらは何をやっているんだ?」

「土掘って、球みたいのを設置してらぁ」


 二里ほど先にある水冷タンクを見て、もう一人の清兵が言った。


「この距離で大砲一つ撃ってこないとは、倭奴どもはパニックを起こして儀式でも始めたんじゃないか?」

「くくくっ、蛮族の命乞いか? 馬鹿馬鹿しい!」

「あの白い球は、さしずめ献上品か!」


 くつくつと笑って、彼らは足を踏み込む。


「ぐはははっ。アレごとぶっ壊して、踏みにじってやれ!」

「逃げ出す倭寇は撃ち殺せ! 降伏する倭寇も刺し殺せ!」

「大清の名を野蛮人が千年忘れないようにするのだ!」


 陣地に突撃する清兵たちの眼には、千メートル先に突きつけられた銃口も霞んでしまう。彼らは前進するがまま、慣性に身をゆだねて。


「やっちまえーッ!!」


 死神の大鎌の内に入ってしまったのだ。





「――射撃はじめ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る