第三章 日清戦争
第11話 転進
「乃木先生」
八月の昼下がり、地平線に青年の声が響く。
背中に数多の古傷を湛えて、歴戦の老将が振り返った。
「いかがされましたかな、
「ひとつ、お聞きしたいことがあるのです」
決心したように青年は尋ねる。
「陛下は、どのようなお方だったのですか」
「……先帝のことなら、殿下が最も良くご存知でしょう」
「父上のことではありません」
ぐっと拳をつくるその姿に、老将はため息をついた。
「ご執心ですか。あの方に?」
「冗談はおよしください」
一面の焦土を見据えて彼は言葉を継ぐ。
「知らねばならないのです。帝位を継ぐ者として……――これからの『帝國』を授かる代償に」
焼け落ちた赤煉瓦の隅にもバラック小屋が立ち始めたこの頃。負った傷は当面癒えずとも、この国がゆっくりと起き上がりつつある証拠でもあった。
「……ふふ。あの
「
青年の問いに、老将は遠い記憶を呼び起こす。
「あの方と出会ったのは――日清戦争の頃でしたか」
・・・・・・
・・・・
・・
飛び起きた。背中に汗がびっしょりとしみついている。
「……冗談ではありませんよ」
まだ荒い息ながら呟く。乃木希典、その名は確かにゲームにも出てきた。高等部3年も窮まって、主人公に追い詰められた悪役令嬢は時の英雄、旅順を落としたばかりの乃木元帥に縋り付こうとするのだ。けれど乃木は悪役令嬢の魂胆を見透かして、興味も持たず適当にあしらった。後日東郷平八郎にもすり寄るが「おまえ誰?」の一言で終わる。嫌なストーリーだ――だからあんなのは荒唐無稽な白昼夢。なのにどこか、とてつもない寒気をいまだ玲那に与えていた。
「なにをぼうっとしておる、
中佐へと昇進した閑院宮が声を掛けてくる。
「……もどかしい呼び方ですね。今まで通りでよろしくてよ?」
「そういうわけにもいかん。ここは戦場だ」
樺太・大泊港で北海鎮台をぶちこんだ船が向かった先は日本海。そのまま玲那たちは、これまた異国情緒漂う桟橋へと降ろされた。どこかしこにも反り上がった黒瓦と、立て札に綴られたハングル文字。ここは東萊都護府――
「それに、戦況も逼迫しておる。のほほんとしている場合ではない」
険しい顔で閑院宮は地図を見下ろした。
明治29(1896)年6月21日、龍山駐屯地奇襲によって全面的に始まった清朝による侵攻は、北方を見ていた皇國の隙を突く形となって半島南部を席巻。皇國は初日で
玲那が降ろされたのはまたしても最前線。それも、大陸最後の橋頭保であった。
「いつの時代の国連軍ですか……」
「こくれん、ぐん?」
「いいえ、なんでもございません」
釜山を防備するのは東京鎮台第1旅団と、揚陸されたばかりの北海鎮台第26連隊。ほかにも広島鎮台が半島南西部に取り残されているが、遠すぎて正面戦力にはなり得ない。広島鎮台の救援のためにも、この釜山を防衛せよとの軍令だ。
「補給状態はいかがでございましょう?」
「問題ない。清朝艦隊は対馬海峡まで出張ることはできん、むしろ今頃は向こうさんの兵站が伸びきってることだろう」
「でしょうね」
いまは占領地の徴発で凌いでいても、もうまもなく限界に達するだろう。この地で玲那たちが彼らを止めるだろうから。
清朝北洋軍
歩兵 20,000
砲兵 なし
備考 指揮系統は各部隊ごと独立
北洋軍ほか北宋軍閥など私軍複数動員
「なんですか、これは」
少将から受け取った紙を手に、閑院宮は声を震わせる。
「……事実でございます、親王殿下。われわれ東鎮第1旅団が何度も相手を強いられた相手です」
「少将たる方が畏まらないでください。ここでは本官は中佐に過ぎません」
臣下の礼を欠かさない少将閣下に、彼は困ってしまう。
「いえ、それでも御皇朝をお護り奉るのがわれら皇國軍人の責務。ですから――親王殿下に奏上いたします」
「?」
「われら東鎮第1旅団が敵の足止めを致します。その間に内地へとお逃げください」
「……はい?」
思わず、玲那は訊き返した。
乃木は一瞬こちらへ視線をやるが、まさかこの12の少女が陸軍士官だとは思うまい、視線をすっと閑院宮のほうへ戻す。
「敵は2万の大軍でございます。
「しかし乃木少将、相手は……」
「はい。相手は、300年に渡って大陸に君臨する『眠れる獅子』でございます」
近年は欧州列強に押されがちとはいえ、東洋最強の大国であることに変わりはないと、乃木は言った。
「2万というのは、大清帝国がこの半島に派した総兵力のほとんどです。数千年来の、冊封秩序の覇者が……全力で殴りかかってくるのです」
「……」
「せめて対峙するなら万全の準備で臨むべきでした。無謀な挑戦です」
無謀、か。
もう一度、閑院宮の手にある紙を覗き込んだ。
「やはり……信じられませんね」
「ですから、殿下がたにおかれては――」
「相手は野戦砲の援護もないどころか、私軍の寄せ集めですか?」
玲那は、閑院宮を見上げて問いかける。
「想定の範疇だろう。今次戦役は清朝にとって、北洋大臣が執り行うものに過ぎない。夷狄の平定に対して責任を負うのは王朝ではなく、一閣僚なのだから」
あっけにとられる乃木少将。閑院宮の言葉に、ふふ、と玲那は口元を隠す。
「広島に議事堂を移してまで、挙国一致で臨む皇國が惨めに見えますね」
「……言葉を慎め」
「失礼しました。しかし、指揮統制は軍閥単位で、導入している装備もまちまち。彼らは戦争をしに来たのではなかったのですか?」
玲那の言葉に、乃木は苦虫を嚙みつぶしたような顔をする。
「……お嬢さん。敵はこっちの三倍だよ」
「ええ、見れば分かります」
「しかもこちらの戦力は、恥ずかしながら敗走した
その言葉に、目を見開いた。
「状況は……御皇族に頼らざるを得ないほどなんだ」
"皇族が出なきゃいけないほどの負け戦か"――脳裏に反響するあの声が、玲那の拳を締め上げる。
「閑院連隊長宮中佐。そのような軍隊に、皇國陸軍は負けるのですか?」
「……さぁな」
「ふふ……そうなれば、明治維新の意義もその程度ということにございましょう」
「言葉を慎めと言ったはずだが」
少し強めの口調で制する閑院宮。ため息をついて目を開ければ、すぐ鼻先に乃木の顔があった。
「お嬢ちゃん、ここは戦場だ」
至極真剣な顔で、玲那の翠眼を見据えるのだ。
「騎士物語のつもりだと、死ぬぞ」
「ええ。従前、十全、存じ上げておりますわ」
この目で何を見てきたと思ってる。
乃木の黒い瞳を覗き返すと、彼は諦めたようにため息をついた。
「……たった一個連隊で、何ができる」
「この場で想定されうる程度以上のことは」
「っ。何を根拠に」
玲那はひょいと前方の塹壕へ足を跳ねて、大きな白い球体に触れた。
「かさばる水冷タンクですけれど、この時代の歩兵突撃を阻むには事足りる」
はぁ、と乃木の口元が歪む。
「
「機関銃」
ひとこと、玲那は遮った。
「1889年に英軍で配備されて以来、アフリカ征服に投入されて膨大な戦果を挙げているにも関わらず、列強諸国は導入に否定的です。その認識を覆したのは――史実では――皮肉にも1905年の乃木大将なのですけれどね」
「っ……、玲那くん!」
閑院宮が動いた瞬間。バッ、と乱暴に天幕が開く。
「哨戒線より報告! 哨戒線にて清朝北洋軍と接敵!」
「来たか!?」
伝令の言葉に、まもなく眼下の陣地が騒然となる。仔細を受け取った乃木は一目唖然とした。
「推定戦力、一万五千だと」
「清軍も随分と大きく出たな。最初から総攻撃とは」
「それも事前砲撃すらなしに、ですか」
朝貢国、もしくは属国を膺懲する程度のつもりなのだろう。
三跪九叩頭の扱いで、教育か。
(皇國も――随分と見下されたものです)
よろしい。
コン、と水冷タンクを軽く突く。
「さぁ、ご覧に入れましょう」
千年は後悔させてやる。
「たった一個連隊で出来ることを、ね」
ドォオオン!
爆炎と共に、影が幾つか吹き飛んだ。
それでも威勢のいい雄たけびを挙げて、清軍は突き進む。
「ひるむな、進めェ!」
「白兵戦に持ち込め!」
列強諸国の野戦砲でも毎分2発が関の山。次の砲撃までの30秒、間合いさえ詰めれば脅威でなくなる。
「先鋒、四里を切りました!」
「よし、奴らの射程から出たな」
三、四発の砲撃で少なくない損害を出しながらも、切迫する清軍。ひとりの指揮官がニィと頬を上げる。
「さぁ、こっちの番だ……貴様ら!」
走りながら清兵たちは耳を立てる。
「倭王は前史わが天子に跪き、倭の島々を授かったのを忘れたらしい」
「「応」」
「倭寇どもも同様だ。衣食も文字も礼儀もわが文明の恩寵に与りながら、身の程もわきまえぬとは――ちと教育が必要だ」
「「応」」
「東夷蛮族の分際で、天子に楯突けばどうなるか思い知らせてやれ!」
「「承!」」
方陣から一気に散開し、正面の陣地へ殺到する清軍。けれど、距離3000を切っても一向に迎撃が来ない。後に続く清兵たちは顔を見合わせて笑い出した。
「なんだ、倭奴どもは怖気づいたのか?」
「それによく見たら、やつらの手勢は二千もなさそうだ」
恐れるに足らず、そう感じたのは先鋒の兵たちも同じだった。
「あいつらは何をやっているんだ?」
「土掘って、球みたいのを設置してらぁ」
二里ほど先にある水冷タンクを見て、もう一人の清兵が言った。
「この距離で大砲一つ撃ってこないとは、倭奴どもはパニックを起こして儀式でも始めたんじゃないか?」
「くくくっ、蛮族の命乞いか? 馬鹿馬鹿しい!」
「あの白い球は、さしずめ献上品か!」
くつくつと笑って、彼らは足を踏み込む。
「ぐはははっ。アレごとぶっ壊して、踏みにじってやれ!」
「逃げ出す倭寇は撃ち殺せ! 降伏する倭寇も刺し殺せ!」
「大清の名を野蛮人が千年忘れないようにするのだ!」
陣地に突撃する清兵たちの眼には、千メートル先に突きつけられた銃口も霞んでしまう。彼らは前進するがまま、慣性に身をゆだねて。
「やっちまえーッ!!」
死神の大鎌の内に入ってしまったのだ。
「――射撃はじめ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます