第13話 停戦協定

 最初は仰天した。

 お飾りとはいえそれでも軍人かと疑うくらい、情けなく逃亡したお姫様。

 それが泥だらけで前線に舞い戻ってきたからだ。


 憤った。ふざけるんじゃないと。どうしてここに戻ってきたのだと。

 ここは誇りある皇國陸軍軍人の居場所だ。銃弾一発とて撃てない、世間知らずのお姫さまが来る場所じゃない、と。

 次の瞬間だった。その箱入り娘が躊躇なく引き金を絞ったと思えば、瞬く間に一個分隊を全滅させた。


 それからお姫様は私に告げた。その蒼みがかった長髪を血まみれにして、殺らなきゃ殺られる、なんてことを。せいぜい笑ってやった。いまさら何を偉そうに、下士官兵卒わたしたちは、とうにその覚悟ができているのだと。



 なのに。

 その姫様は気づけばまた、私たちの上にいる。



 今度は文字通り、まさに直上。空にいる。

 巨大な箱舟に乗って、天空を騎行して、無慈悲に無差別に死の雨を降らせている。

 単身で戦場を搔き廻す、そのペースに果たして私たちは呑まれたのだ。


 小隊を撃破した。

 迫撃砲の制圧射で、中隊を葬った。

 弾丸の雨で、地表ごと大隊を薙ぎ払った。

 姫様の手で覆されてゆく形勢を見た。時代を見た。



 なんなんだ、これは。



 それから1時間は経ったか。迫撃砲による集中打撃と機銃掃射で大抵は片が付くとはいえ、数が多すぎる。戦死者も出た。負傷者は、もっと出た。されど、一歩も退いていない――退けない。死守命令だった。

 脱出を試みる敵軍は、次から次へとこの切通しに殺到する。私たちも禁闕部隊の総力を挙げて戦ったが、残弾は減る一方で、目に見えて疲弊は蓄積してゆく。


 薄暗くなった森林の中に、ふと、光が見えた。

 あれは通信隊の中継施設だろうか。


「砲兵連隊より信号! "これより砲撃に入る、30分の猶予を寄越されたし"ッ!」


 ――ようやく、見えた。

 宵明けの瑠璃色と影との狭間に、旭日がはためく。


 遂に砲兵が来た。


 たった30分、されど30分。


 だからこそ。

 最後の最後に、想定外は来る。


 バファッ!!


 爆音が空中に轟く。

 何事かと思えば、満天の夜空に汚い花が咲いていた。


 直上を、巨大な箱舟が墜ちていく。


「闕杖官どの!!?」


 思わず叫んだ。被弾したのか、あの浮遊要塞が。

 伍長の階級章を肩に下げて、とっさに私は駆け出す。


「ごっ、伍長どの! 二時方向に敵です!」


 銃口が火を吹いた。




 ・・・・・・

 ・・・・

 ・・




「水素圧低下、浮力足リマセン!」


 焦燥しきった博士の声が響き渡る。


「ムリ、ムリですお嬢サマ!」


 圧し掛かる重力加速度に、歯を食いしばる。

 敵の歩兵が空へ放った弾が運悪く貫通したらしい。


「そもソモ、私は、戦争のタメニ、この舟を造ったジャナイ!」


 博士は叫ぶと、何を思ったか銃座を踏み越えて、開け放たれたハッチから飛び降りた。


「博士!?」


 咄嗟に地上を覗き込むが、飛び降りた博士の姿は見えない。操縦手がいなくなったことで、とうとうこの飛行船をどうにかすることはできなくなった。


「……どうするの」


 やけに落ち着いた息で、少女は玲那に問う。


咲来さっくる、先に脱出してください」

「はぁ?」

「この飛行船の浮力源は水素ガスです、爆発炎上の危険性があります」


 咲来が何か言う前に、玲那は息を継ぐ。


「玲那は後から行きます」

「そんなこと、させるわけないでしょ!」

「なら、あなたにどうにかできるのですか!」


 玲那は強く言い返す。


「このままでは墜落します。失敬ですが、飛行船についてはあなたより玲那のほうがずっと存じているのです!」

「……それは、そうだけど!」

「率直に言います、その脚では無理ですよ」

「あたし、足手まとい?」


 玲那は平然と頷いた。色々な意味で、この少女を巻き添えにするわけにはいかない。


「……わかったわよ」


 咲来はその桜色の唇を嚙む。

 悔しいようでどこか寂しげなその表情は、玲那の心を抉った。


「できるだけ滑空するように、玲那が舵を取ります」


 怪我した脚ではすぐには逃げられない。脱出するなら今しかない。


「ハッチから、適当な高い木の枝か幹に飛び移ることは出来ますか」

「できる。狩猟民族舐めないで」

「ありがとう、……ごめんなさい」


 咲来は背の長槍を抜いて、玲那の前へと横たえる。


「感謝も謝罪もいらない。そんなものより、名前、ちゃんと教えなさいよ」


 そういえば玲那から自己紹介をしたことはなかったな。なんたる無礼。令嬢失格も大概だなと自嘲しながら玲那は顔を上げて、咲来の瞳を見た。


「有栖川宮玲那です」

「覚えとくわ」

「また……会う機会があれば」

「それまでに、勝手に死んだら許さないから」


 強く言い切ると、玲那の反応を待たずに、ザッ、と咲来は床を蹴った。伸ばした玲那の手は空を切って、彼女の身体はたちまち天を舞う。


「咲来!」


 玲那の声は、飛行船の轟音で搔き消される。

 少女の銀髪が流れるように、手前の樹上へ移ったのが見えた。器用な手捌きで枝を掴み分けて、ちゃんと降りることができたように見える。流石は狩猟民族である。


「……よかったです、これで」


 玲那の視界へ、ふと、手に残された長槍が映る。

 息を吞んだ。それから、たはは、と笑ってしまう。


「死ねないじゃないですか、もう」


 呟いた瞬間。

 水素ガスが引火する。






 ドカァァン!!






 それから、目覚めたとき。

 焼け焦げた瓦礫の中に、玲那はいた。


「ぅ……、っ」


 身体にもたれかかった鉄管をぐったりと払いのけて、玲那はそこから這い出る。

 手前には、投げ出されて破損したリヤカーと、銃口の下がった重機関銃があった。


 そのさらにずっと奥には、兵士の影がいくつか見える。

 目を凝らせば、少なくとも皇國の兵士ではないとわかった。残りの力を振り絞って、玲那は銃座にしがみつく。


「まだ、動き……ます、ね」


 我ながら馬鹿みたいだ。

 これは二度目の敵前逃亡のはずだったのに。


 皇國の興廃は玲那の運命に直結する。死守命令は避けようがなかった。致死率が跳ねあがるのも覚悟した。ゆえに玲那は空へと脱出したのだ。夜空ならば、ほとんど被弾しない割に一方的な戦果を叩き出せる。自分の犯した敵前逃亡という疑惑をごまかせてしまうほどの戦果を。

 最低、最悪の打算だった。あのゲームのどのルートよりもえげつない悪っぷりだ。


「天罰……でしょう、か」


 擦り傷、切り傷だらけの手を、撃鉄に添える。

 打撲だらけの小さな身を、どうにか伏せて、射撃姿勢を取った。


 前を見れば、兵士たちが覚束ない足取りで玲那へと迫ってくる。

 そうか、とうに気づかれていたか。


「でも。死ぬわけには……、いかない、のです」


 左手に長槍を手繰り寄せる。柄は折れてしまったが槍石は生きている。

 敵兵たちが銃剣を刺突の構えで玲那に向ける。もう、残弾すらないらしい。


『ウォオォオオオオ!』


 雄叫びとともに、彼らは玲那のもとへと一直線。


「らぁぁああああああ!」


 決死の絶叫で、玲那は撃鉄を引き絞る。




 ガガガッ、ズガガガガガッ!!




 撒き散る土煙。次々斃れる人影。

 それでもまだ、動こうとする影がある。

 玲那は照星の先に捉えて撃とうとしたが、撃鉄が起きない。訝しんで機関部を叩けば、弾詰まりが起きているらしい。


「……う、そ?」


 顔を蒼白にする。撃てない。

 かといって、墜落で骨の一本か二本はやっているらしく、身体も起きない。弾はすぐ取り除けないから、もう一切の抵抗ができない。


 影のひとつは、ゆらりと上体だけを起こしたかと思えば、ぐったりと懐から何か引き抜いて、玲那に向けた。


(拳銃だ)


 しぶとく凌いできた玲那も、ここにて終わったと悟った。

 詰んだのだ。


「ごめん……、なさい」




 ズダァァアアン!




 刹那。

 爆炎の中に、その影が灰と崩れ去る。


 直ちに玲那も土煙に襲われ。思わずむせ返った。


「かっほ、けふっ……」


 玲那の咳を搔き消さんばかりに、次々と爆音が轟く。

 銃弾の音じゃない。迫撃砲の音でもない。

 そんなものの比ではないくらい、強烈な破壊の音圧だ。


「ぁ……、そ、うか」


 これは榴弾だ。

 砲撃支援だ。砲兵連隊が到着したのだ。


(間に合った。終わったんだ)


 焦土の中で悟った玲那の顔を、ひたり、と何かが落ちてきて覆い隠す。


「?」


 何かと思って見れば、白旗だった。

 思わず正面を見る。砲撃で吹き飛ばされた先程の影から飛んできたのだ。


(……あぁ、もしや)


 玲那は拳銃と白旗を見間違えたのかもしれない、というのは、彼が懐から出して玲那のほうに向けたのは、拳銃じゃなくて白旗だったのかもしれない。失血で玲那の視界は霞んで、遠いものの区別なんてとうにつかない。


「あ……」


 白旗のど真ん中が、鮮やかな血で染まっている。

 誰の血かはわからない。彼のものかもしれないし、玲那のものかもしれない。敵味方関係なく平等に死の降り注ぐ地、ここは戦場――日露最前線。


 ぼんやりとしながらも見て思う。

 白旗に、焼け焦げた血が泥にまみれて、赤くなった何かで塗りたくられた丸。


「ああ、―――。」


 降り注ぐ友軍の榴弾の中で、次々と立ち上る爆炎に囲まれて玲那は笑う。

 差し込む暁光に視界が白く染まって、そのまま意識を手放した。






 ・・・・・・

 ・・・・

 ・・






 白い天井があった。


「……」


 どこだろう。死んだのだとしたら、天国か。いいや、地獄だろう。戦争とはいえ、人を殺めたことだけでも玲那はそれに値する。


「……ぁ」


 人影が見えたと思えば、サッ、と仕切り布が開いた。


「気づいたか」

「あなたは?」

「軍医だ。君、自分の体が見えるか?」


 玲那は初めて包帯の感触を意識した。

 見てみれば体中包帯だらけだ。


「ここに運び込まれたとき、どれほど血だらけ泥だらけじゃったか……当然、憶えてはおらんと思うが」

「は、はい」

「もう助からぬなとさえ思ったが……、本当に君は幸運じゃ」


 彼は続ける。


「骨を数本やってはおるが、どれもひと月で治る程度じゃ。銃創はないし、失血も最小限に留まったようじゃ。一切の致命傷ナシ。全く、開いた口が塞がらなかったわい」


 どうやら、玲那は生還したらしい。


「ここは樺太の玄関、大泊の診療所じゃ」

「そう、ですか」

「しばらく安静にしておれ」


 そう告げて、軍医が出て行ったかと思いきや。

 入れ替わりで見知った顔が現れる。


「らしくないな、玲那くん」

「……親王連隊長殿下」


 閑院宮が立っていた。


「無茶のしすぎだ。その身は、皇女なのだぞ」

「申し開きのしようもございません」


 玲那には敵前逃亡の咎がある。覚悟の末に、然るべき問いを投げた。


「玲那のもとに、何人死にましたか」

「禁闕小隊の戦死者は9名だ」

「……3分の1。3人に、1人ですか」


 壊滅状態。けれどそうなる予想はついていた。そうなると知っていて、なお死守せざるを得なかった。皇國の崩壊を避けるために、この身の破滅を避けるために。

 ゆえに策を弄した。地獄であろう地上から夜空へと逃げた。上空から虐殺ともいえる機銃掃射を加えて敵の一個大隊を一掃した。下士官や兵卒の犠牲を省みず、皇國の延命とこの身の保身に走ってみせた。


「対するロシア軍の派遣部隊は、うち二割が死傷、七割は降伏」

「合計九割……殲滅ですね」

「第7砲兵連隊の到着で封鎖が決した。まもなく敵は投降したよ」


 上官としてはあるまじき方法で、軍人の義務を遂行した。されど歴史を捻じ曲げてまで自身の宿命を変えてみせると誓った時点で、保身のためには自分以外の全てを巻き込んで足掻こうという傲慢不遜な決意に他ならない。

 悪役なんて生ぬるいもんじゃない。これは本当に利己的で酷悪こくあくな皇女の物語。


久春内くしゅんないという漁村で、一昨日から停戦交渉がはじまっている」

「万事解決……ならば玲那に待つのは、軍法会議ですか?」


 これで送致されたら笑いものだとは思いながら、形式上聞いておく。


「ふざけるな」


 返って来たのは、閑院宮の低い声。玲那は目を見開く。


「玲那くんに無茶をさせたのは他でもない予だ。奇襲を受けた折に、予が退却していなければ玲那くんが矢面に立つことはなかったのだ」

「危険に晒さずにいられた、と?」

「ああ。後方援護のはずの部隊を孤立させたのは予の責に帰すべきだ」

「――ふざけるな」


 玲那の小さな唇が紡いだその一言に、閑院宮は顔を上げた。


「ふざけるな、ですよ。あの折は、野砲や機関銃の到着が遅れていたのですから、それらと合流するために一旦退却するという判断しかあり得ませんでした」

「……っ。しかし、結果として玲那くんを」

「玲那とて、軍人です。ただのお飾りではありません」


 ぼろぼろの身体を見下ろして、玲那は言った。


「1個小隊の壊滅と引き換えに、大隊を撃滅。退路を塞いで包囲を築きました。それでもまだお人形なのですか。親王殿下と同じ土俵に立たせては頂けないのですか」

「っ!」


 ここに至って閑院宮は力なく首を振る。


「いいや。むしろ、栄進が適当だ」

「……ふぇ?」


 思わず間抜けた声が出た。


「北鎮参謀部指令を授かっている――有栖川宮少尉を中尉へ昇進とし、禁闕部隊を中隊規模に増強。第26連隊付闕杖官とする、とのことだ」


 なぜだ。なぜ、また最前線なのか。敵前逃亡の容疑を戦果で覆い隠す。プラマイゼロでここまではよかったはずだ。戦績良好なれど黒い噂も流れて、北鎮にしても扱いづらいことだろう。そうなればフェードアウトで名誉も経歴も傷をつけることなく玲那は復員できる。戦争とは永久におさらばだ。そういう算段のつもりだった。


「おっ、お待ちください!」


 それがプラスに振れるなんて考慮していない。


「玲那は敵前で逃げたのですよ……!?」


 焦って、今からマイナスの補正を掛けにかかる。


「とはいえついには任務を成し遂げた」

「しかし、軍規違反は軍規違反です」

「なら予としても、決まったことは決まったことだ。な?」


 閑院宮の言葉に押し黙る。玲那としても咄嗟の打算で、見通しが甘かったのは言うまでもない。拾われた命運か。


「いえ……拾わせた命運、ですね」


 病床の脇に置かれた長槍に目をって、自身を納得させる。いくら打算を講じても、確かに玲那は未熟だった。最前線でよくよく理解した。振り返れば、この戦役で得たものは多かった。

 窓から望む街並みをしばし眺めて、息をつく。


「全部、終わったのですね」

「あぁ」


 閑院宮は頷く。


「和平交渉――今度は枢密院の番だ。その力量が試される」


 与えられた責務は全うした。ここから先は、精々祈ることしかできない――玲那の小隊もとで亡くなった9名が、せめて報われますように。


 大陸を大洋から覆うように連なる、この弧状列島の北の端。

 「樺太」と呼ばれた、氷に閉ざされた皇國の最果ての地。

 そこに骨を埋める彼らに手向ける花が、せめて美しいものでありますように。


 ウゥゥウゥウウウ――!


 切なる願いを遮って、サイレンが鳴り響く。


『緊急、緊急!』


 ラッパのような伝声機を、困惑しながら見上げた。


『速報。清朝が皇國に宣戦布告、朝鮮半島で全面的に奇襲攻撃!』


 ぐわんぐわんと、耳に響く。


『繰り返す、清朝が皇國に宣戦を布告、戦線は壊滅状態!』


「は……ぁ?」


 玲那たちは、呆然と聞くしかない。










―――――――――




 露清同盟密約を交わしてすべての準備を整えていたロシア帝国にとって、連合王国の介入は想定外の事だった。

 皇國の目をサハリンへ引き付けている間に、清朝が朝鮮方面で全面攻勢に出て皇國陸軍の主力を殲滅。勢いのまま列島を制圧するという計画は、制海権があってのみ機能する。皇國海軍程度であればウラジオストク艦隊と清朝北洋艦隊の連合で抑えられようが、連合王国東洋艦隊が出張ってくるとなれば話は変わる。

 制海権が取れなければ消耗戦になる。黒海の苦い記憶が尾を引くロシア帝国にとって、露清密約をひっくり返して極東分割計画から手を引くには十分な理由だった。停戦交渉の主導権を握るため清朝の宣戦を待って、ロシア帝国は皇國との停戦に至る。


 明治29年(1896年)6月27日、久春内イリインスキー停戦協定締結。これにより皇國とロシア帝国の間の紛争は終結した。



イリインスキー停戦協定

1. 皇國は樺太全土における以下の権利を放棄する。

 ・領土に関する全ての権利

 ・在留皇國臣民の自治権

 ・先住民に対する保護権

2. 『北洋開拓団』と先住民の権利の一切は、これを剥奪しロシア皇帝に委任する。

3. 『北洋開拓団』と先住民の皇國本土への引き揚げは、これを認めない。

4. 皇國は千島列島をロシア皇帝へ献上する。

5. 皇國は北海道沿岸を永久に非武装化する。

6. 両国の間で五年間の不可侵条約を締結する。




・・・・・・

・・・・

・・




「敗北。それも、悲劇的な敗戦です」


 押しつぶされるように、吐き棄てた。


「皇國は北方のすべてを……失いました」


 歴史改変始まって八年。樺太には民権主義者や士族たち反政府主義者と、無辜のアイヌの人々が、枢密院によって開拓団として送り込まれ続けた。

 史実を根拠にロシアは当分動かないと確信した皇國枢密院は、のちの対露戦争への布石を打とうとして、20年前に放棄したはずのこの樺太へ手を伸ばした。


「西で清朝と対立する中で、もう片手で北方をまさぐろうとしたのです。二兎を追ってしまったのですよ」


 交換条約で確定したロシア領に領土回復を見込んで、貪欲に入植を続けてしまった――この時期のロシア帝国は、大規模戦争を避けたがっているのだと信じて。


「根本的に認識をはき違えていた……、か」


 閑院宮のくぐもった声が、玲那の瞳を細める。


「ロシア帝国は皇國との戦争を大規模だとは思わなかった。ええ、玲那が連合王国の影を引きずり出してくるまで、決して」


 列強諸国にとって、皇國は近代国家ではない。辺境にある開国40年の弱小国、不平等条約にふさわしい野蛮な黄色人種の未開国。皇國との戦争など、蛮族征伐程度にしか見えなかったのだ。


「自分たちは恐れられているものだと、思いあがったのですよ……!」


 顔を上げて見るのは、正面の桟橋へと続く大泊おおどまりの大通り。いいや、もう"コルサコフ"か――目に焼き付けるのは、かつて母国だった地だ。かつて同胞だった人々だ。


「……負け犬が」


 虚勢を張って堂々と行進する敗残兵わたしたちを前に、彼らは呟く。


「領土も民も放り出して逃げるんだ」

「武人の誇りはないのか」


 戦火に焼かれたぼろぼろの身なりで、言うのだ。


「やっぱり、いざとなれば軍隊あなたたちは民を守らない」


 耳元に囁かれた声で、玲那の足は止まる。


「その血を流して……何を守ったの?」

「――ッ」


 ばっ、と振り返れば、少女の後ろ姿が民衆へと溶け込む。

 すれ違いざまのその問いに、ぐっと拳を握りしめた。


「こんなの、あんまりです」


 あの死闘をくぐって、何人も殺して、見捨てて、そして迎えた『頭越しの停戦』。

 死んだ9人の兵には向ける顔もない。ただそこに横たわるのは、敗戦の強要だ。


「……せめて救えたはずのものさえも!」


 手元に残った長槍に目を落とす。


「枢密院は不可侵条項に固執して、開拓団や先住民への保障をとりつけませんでした。和平協定には、皇國への協力者の免罪に関する条項など、一つもないのです」


 戦火に巻き込まれた多くの開拓地は壊滅的な打撃を被った。先住民は皇國の後ろ盾を失ったことで、その生活領域を剥奪されるだろう。樺太の厳しすぎる冬への備えなど、この戦役で全てがパーだ。


「ここに残る人々は、間もなく到来する冬を……っ」


 言葉に詰まる。

 久春内停戦協定に基づき、ロシア軍は北から順に樺太を平定、南下してきている。彼らを焼くも殺すも、ロシアの自由だ。


 ぐら……、と足元が揺れ動く。


「――!」


 顔を上げて視界に映ったのは、離れていく桟橋と、開拓団の人々の姿。

 北鎮の撤退が始まった。皇國へ向けて発つ最後の船が、樺太を離れるのだ。


「……冬を、越すことはできないかもな」


 玲那の言葉を、閑院宮が継ぐ。


 旧北洋開拓団の人々は、命からがら南を目指しその足で数百km、来たるロシア軍からの逃避行を続けた。そして辿り着いた本土への入口。

 そこには既に、北鎮の兵士たちを満載した引揚船が離れていく光景が。

 和平協定に基づき、引揚船は兵隊及び軍事物資以外を載せることができない。玲那たちは、守るべき彼らに手を差し伸べることすら叶わない。

 北へ数十kmにはロシア軍が迫るなか、岸壁に取り残された人々は、逃げゆく船を呆然と見送るしかなくて。


「ッ……!」


 その中に、見知った少女の顔を見つけたとき。

 玲那はこの長槍を投げようと振りかぶって、手を留める。もう、届くまい。


「……すまぬ」


 閑院宮の謝罪も、離れすぎた桟橋には届かない。

 この血を流して――何を得たの。何を守ったの。


「こんなの、許されるのですか……!」







 明治29(1896)年7月2日。

 先住民および北洋開拓団6万人を見殺しに、北海鎮台、樺太より撤退。

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