第7話 令和のくびき

 夜闇に紛れて、手に提げた灯で交信する。上空からゆっくりと光源が降りてきて、慎重に草地へ降り立った。手提信号を近づけてみればそれがどれほどのデカブツかわかる。


「オジョウサマァー! お助けに、参りマシタ!」

「待っておりましたよ、シュヴァルツ博士」


 呟く暇もなく、ハッチが開いてぞろぞろと小隊が降りていく。航続距離は50キロもないが、積載限界が2トンもあるおかげで重武装を持ち込める。試製に過ぎないスペックではあるが十分だ。


「なぁ、この貨物も、あのお嬢さまが積ませたのか?」


 苦しそうに息を荒げて飛行船の格納庫からリヤカーを降ろす兵士たちが言う。玲那がこの小隊に課したリヤカーと弾薬箱を指したものだろう。その正体は格納された迫撃砲である。


「私物ってわけか」

「駄々でもこねて、カネに物を言わせたんだろ」


 間違いではない。お飾りであろうと利用できるものは利用する。当然の話で、玲那はこの禁闕小隊の指揮権を活かして勝手に各種新兵器を装備させている。


「なぁ。俺ら白兵戦とかあんまり練習してないよな」

「代わりに奇妙な砲の射撃演習をさせられたけど役に立つんか、あれ?」


 限られた時間の中で、玲那がやらせたのは迫撃砲の射撃練習だった。おそらく今回一番の命となるのはその兵器だから。


「二時方向300に敵影」


 その報告で、部隊は一気に殺気立つ。


「規模は」

「分隊未満です。歩哨かと」

「排除します。動けるものから来なさい」


 玲那は初めての命令を飛ばす。この高台を制圧することが第一だ。

 敵の姿があるということは、南の平地から敵は退却を始めたということだろう。その先鋒が、この切通しに差し掛かっているというわけだ。


(親王殿下は、しっかり仕事をなさったのですね)


 閑院宮の部隊にも多少の新兵器が配備されているし、そのうえレジスタンス化した北洋開拓団に昼夜問わず苦しめられているロシア軍は勝ち得まい。


「こうして……バトンは玲那へ渡る、と」


 渓谷からの退却を試みるロシア軍に、ここで蓋をして殲滅する。ここからは玲那たち禁闕小隊の番だ。リヤカーに飛び乗る。その上の布を取り払えば、マキシム重機関銃が現れた。


「なんだあれ」

「小隊長が持ち込ませた例の荷物だろ」


 周りから怪訝な視線を食らう。


「ゴツい見た目だな。良家の娘さんの骨董品ってわけか」

「装飾銃かよ、ロクなガラクタじゃないぜ」


 皇國陸軍初の機関銃である。銃器であること以外、誰もわからない。だからその反応も無理はあるまいと、玲那は給弾ベルトを差し込んで、銃口を二時へと向けた。


「分隊進発。接敵次第撃つこと」


 正面の森に入って数歩経たないうちに、下士官のひとりが人差し指をほのかに動かした。薬莢が排出される音が響いたかと思うと、敵兵が血を吹いて倒れる。


「!」


 それを目の当たりにして玲那の足はどうしてか、竦んでしまった。


(……っ)


 頭では分かる。ここで玲那たちは彼らを仕留めなければならない。照門と照星はとうに敵を捉えている。もう銃弾は入っている。あとは、この右手の人差指に力を入れるだけだというのに。

 顔がこわばる。手が震えて、そのまま凍り付く。


「動いてっ、くださいよ……!」


 2秒、3秒、4秒。刻々と時だけ進む。錯乱したような玲那を傍目に、隣で小銃を構えていた伍長が呟いた。


「……まさか」


 瞬間、ふたつの影が高台の麓に覗く。伍長は迷わず引き金を引いた。爆発音と同時、影がひとつ倒れる。すかさず発砲は続いて二つ目の影も倒れる。その瞬間を、命が刈られる瞬間を目に焼き付けた玲那の足はがくがくと抑えが効かなくなって、そのまま路盤を踏み外した。


「っ!」


 前進を打ち付けながら、斜面を滑り落ちる。


「この箱入り娘が……!」


 悪態をつく伍長の姿も遠くなって、見えなくなる。助けには来ないだろう。無能な上官など自滅させておけばよい――玲那には戦場に立つ自覚も、資格もないのだから。

 そもそも今世は明治時代を舞台とする壮大な乙女ゲームに登場する一介の敵役に過ぎないはずだ。こんな北の果てで、銃弾に倒れるルートなんて用意されてはいない。ゲームがこの命の保証をしてくれている。そんな無意識の前提を殴りつけられた感覚だった。


「わっ!?」


 どちゃ、と泥をひっかぶって身体が止まる。ひっくり返ったリヤカーとともに、玲那ひとりが残された。


(……みじめだ)


 ゆっくりと身を起こす。これは敵前逃亡だ、処罰もやむなしだろう。水溜りに映った泥だらけの長髪。淀んだ翠色の瞳は、微塵の戦意も宿していない。

 まだ12の皇女には、死の恐怖という荷は重すぎた。





「……!」





 気づくのは少し遅れたかもしれない。

 味方と違う格好の影がいる。距離にしておよそ50m先で、木にもたれかかっている。その瞳にはあまり戦意を感じない。ここは前線から離れた場所だ。もしかして、玲那と同じく戦闘を避けてきたのだろうか。


 懐から拳銃を抜く。リヤカーを起こして機関銃を構える余裕はない。

 けれど彼は、しばらくしても動く様子はなく、前線の方をおどおど警戒している。それなら玲那から手を出す必要はない。幸いだ、そう思って安堵した。妙な親近感さえ覚えた。



 それ故の気の緩みか。



 カラン。

 給弾ベルトから6.5mm弾が抜けて、不幸にもすぐ直下の石に当たった。


 相手ははっとしてこちらを向く。咄嗟に銃口をこっちに向けた。

 先手必勝、当然の定理。すぐに撃鉄を絞ろうとして――


 両者の間をびゅうと、六月の冷たい風が吹く。


(なんで……!?)


 手汗が滝のように腕を伝う。玲那の手先は金縛りのように動かない。まともに狙いが定まらないのだ。けれどそれは向こうも同じみたいだ。いくら経っても銃口を向けたまま微動だにしない。


 しばらく時間が経った。


「……!」


 思考を張り巡らせ、一つの考えに至る。

 彼が戦闘に怯えているのなら、このまま睨み合いながら互いを視認できなくなるまで互いに遠ざかれば良いのだ。そうすれば玲那も彼も助かる。

 全部なかったことに出来る。ハッピーエンドだ。

 そもそもこれは乙女ゲームだ。最初から人殺しなんてする必要はない。やっぱり玲那は一介の登場人物で、決められた「悪役」に過ぎなくて。


「――あ」


 眼前のロシア人は、壮絶な笑みを浮かべて一歩、踏み込んでいた。

 時間がゆっくりと過ぎているように感じる。これが噂の走馬灯か。

 はっきりと、撃鉄に差した彼の指が動くのが見える。



「馬鹿ッ、撃たれる前に撃ちなさい!!」



 耳元に響く声。

 それより僅かに早く、突然玲那の背後に降り立った誰かの人差し指が、引き金にかけた玲那の指を押し潰した。


 銃声、一発。



 タァ――ン!



 6.5mm弾の排出される音、弾丸はまっすぐ突っ込み、相手はのけぞった。

 同時に相手の銃弾が玲那の頭をかすめて、背後の木に穴を開けた。


 撃ったのか。この玲那が。


「誰だか知らないけど、阿呆なの!?」

「ぁ……」


 銀髪の少女が立っている。

 妖精みたいな羽織衣の背には、一本の槍を差している。


「いまの、死んでもおかしくないのよ!」

「玲那は、い、ま……?」


 人を殺したことがなかった。それは、決してしてはならないことだから。決して犯してはならぬ禁忌だと、そう教えられたから。

 それを。それを今。


「死にたいの!?」


 この少女の赤銅色の瞳に映る御令嬢は、人殺しだ。

 悪役じゃない。もはや、紛れもない『悪』だ。


「どうして、撃ったのですか……!」


 人殺しをさせられた。

 この手を汚させられた。


「あ、当たり前でしょ!」


 悪になってしまった玲那を待つのは断罪であり、破滅なのだ。十字架のように負わされたこの悲惨な運命も知らずに、この小娘は、玲那の手を使って殺しをしたのだ。


「死にたくなければ撃つしかないじゃない!」


 困惑もそこそこに叱りつけるようなその口調にも耐えられなかった。勢いのままに、少女の襟首を掴む。


「あなたはッ、撃てるのですか!」

「はっ、はぁ……!?」


 止められない。


「戦場が嫌いで、気弱で、銃声に怯えて。でもどうしても生きたくて、銃を取るしかなくて。そんな人を!」


 彼にだって人生があったのに、それを奪ったのだ。人ひとり分の物語を終わらせてしまった。そうして悪に堕ちた玲那の運命は、もはや変えられまい。

 けれど少女は玲那に向き直って、まっすぐ言い放つ。


「ここに来たなら――覚悟決めなさいよ」


 何か言いかける少女の言葉は、玲那の耳に入らない。

 また、それか。さながら子供の駄々のように、玲那は地を蹴った。


「このっ、人でなしッ!」


 思い切り少女を突き飛ばす。




 ダァ――ン!




 まさに、その瞬間だった。

 一縷の火線が、倒れ込む少女の身体を貫いた。

 かはっ、と少女は声を上げて、空中を回転する。


 鮮血が飛び散って、玲那に掛かる。


 一瞬で矜持とか、憎悪とかが消えた。

 今のは、玲那のせいだ。確実に、絶対に。


「あ――あ……」


 ドチャァ、とその少女は泥溜まりに落ちる。

 純白だった羽織は赤茶色に汚れて、びくとも動かない。


 慌てて駆け寄ろうとする。それを遮るように銃声音が響く。玲那と少女を隔てるように、玲那の爪先に小さい土柱ができて、砂埃が舞う。


「い……や、っ――」


 見つけた。藪に隠れて、銃口を向けるロシア兵。


 撃てない。どうして。

 ここでやらなきゃ――。


 チッ、とおもむろに頬が掠れる。

 銃弾が背後に着弾し、小さな土柱をあげた。


 時間がゆったりと過ぎる。人間の命、人生を奪うこと、責任――前世の矜持と、本能の警鐘が玲那を挟み込んで、潰しにかかる。


「あ……」


 するりと懐に手が滑り込んで、拳銃を引きずり出す。眼下のロシア兵を撃とうとしても撃てなかった、全ての準備を終えていた銃口が、上を向く。

 ただ、滑らかに指が動いた。



 ダァン!



 次弾を装填していたロシア兵は、いとも簡単に崩れ落ちた。


「あ……っ」


 あぁ、そうなのか。自分の意志で人をあやめて、初めて気づく。

 玲那は、ゲームの登場キャラクターじゃない。そんな特別な存在なんかじゃない。紛れもない現実世界に、そのあまりに脆い命を賭して生きる、一人の人間に過ぎなかったのだ。


(乙女ゲーム? 悪役令嬢? 玲那の頭はお花畑なのですか……!?)


 平和という絶対的な前提の下に、対話や和解の理想を謳歌できた未来の世界に、魂の半分を置いてきた大いなる愚か者。

 ここは130年前、明治29年――戦争最前線。そこで未来の矜持がどうの、自分の運命がどうだのなんて、なんとおぞましく、烏滸おこがましく、どれほど傲慢なことか。


「時代が、違うでしょう……!」


 決められたルート以外では死なない?

 すでに運命は決められている?

 そんな「乙女ゲーム」とやらをひっくり返すと、とうの昔に決めたじゃないか。


 戦場ここの命に価値など無い。死ねば別の兵士がその位置に立つのみ。かけがえなんていくらでもある。自分だけが死ぬわけがないだなんていう、そんな無責任な保証はどこにもない。だからこそ命を必死に抱えながら、全力で足掻いて藻掻いて殺さねば、生き残れない。

 元始、あらゆる生命はそこに在った。


 玲那は確かに乙女だろう。


「けれど、決して『ゲーム』なんかじゃない――!」


 ようやく玲那は、令和のくびきを断ち切った。

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