第3話 制空権

「屯田兵制度とっても偉大です。泣きそう」


 一個大隊500名がせこせこと原野を開墾している。

 それに感嘆していると、閑院宮がため息で返す。


「当然だろう。この北海道開拓の礎なのだから」


 入植から二年が経ち、玲那は9歳になった。

 農業改革はつつがなく進行中である。乾田の導入により低湿地以外の開墾が可能になったため、農地面積は第三大隊の入植当初より十二倍に拡大し、北京計画の第一段階が達成された。まさか何も進むまいと考えていた中央は驚愕したらしく、閑院宮への皇族年金を拡大する形で予算が配当された。


「リヤカーの導入による開墾進度の劇的な改善は認める。が、屯田兵制下では開拓面積の増大自体は当然の結果だ。第一段階の達成自体には誰も驚いておらぬだろうよ」


 しかし、閑院宮はこう言う。


「一人あたりの収量の増加を要求している第二段階は、短期間での達成が非常に困難だ。中央はそれを見越しておる。予算の配当とて、追放を継続するための口実に過ぎぬ」


 髭の屯田兵長は立派な面持ちで後ろ向きなことをあげつらうので、玲那は脳筋になることにした。


「なら短期間で達成すればいいのです、その第二段階を」

「困難だって言ったよね?」


 明治26年の春。

 上川盆地を覆っていた雪は融けつつあり、今年もまた稲作が始まった。

 玲那は離宮という名の粗末な小屋を出て、眼下の農地へ降りていく。


「っ、……軽い」


 少年が唖然としながらリヤカーを引っ張っていた。いまや省力輸送に貢献し、ネコ車と合わせて輸送革命を起こしている。2人がかりでモッコをえっさほいさ運ぶ列島標準の光景が、19世紀であるはずのこの辺境の地からは一掃されていた。


「本当に……開拓が速いですね」


 乾田が続々と造成された。従来の湿田のように随時水を溜める必要はないから、川沿いでなくてもよい。用水路と排水路に高低差があればそれで十分なのだ。それさえ考慮すればどこまでも広大に無神経に土地を拓ける。こうして曲がりくねった忠別の湿田帯の横に、高規格で直線的な耕地群が出現する。


「あ、あのっ。おひめさま」


 ふと、後ろから村娘に声をかけられた。


「川沿いに広げた従来の湿田はどうしましょう」

「有効活用したいですね。アブラナを植えるのはいかがでしょう?」

「アブラナ、ですか…?」


 村娘は小首をかしげる。


「アブラナから油を採った残りかすを油粕と言いまして。肥料としての栄養価は堆肥を遥かに上回るのです」


 油粕はその成分のほとんどを窒素が占めるため、糞尿を直用した堆肥などとは比較にならない良質な肥料なのである。明治農法で採用されたが、史実では普及が遅れた。


「アブラナは雑草としても有名ですもの、生育力と繁殖力は凄いはずです」

「なるほどです……! 白夜びゃくや、探してきますね!」


 彼女は駆け出していき、ふと途中で、先程の少年の肩を軽く突く。


「ねえリューリっ! 一緒にお花摘まない?」


「……!?」


 困惑したかと思えば、はっと目を白黒させる少年。あぁ、確かにその言い方は勘違いするかもなぁ。遠目で玲那は肩を竦める。


「すぐ終わらせるから! いこっ!」

「……ちょっ」


 ずるずると連行されていく少年。玲那はひらひらと手を振って、柔らかに見送った。

 こちらを河原から見上げる男の視線には、ついぞ気づかずに。






・・・・・・

・・・・

・・






「随分、遠くまで来たものだ」


石狩川を遡上し、丸二日。

一人の男が河岸に降り立った。


「閣下、ここからはどうされます」

「一人で行く。ここまでご苦労」

「それは危険です。閣下は蔵相にして枢密院議員、その身に何かあれば国政が行き詰ります」

「ふはは。儂に何かあったら、皇國幣制の近代化は任せたぞ」

「……閣下」


引き留めようとする声を、男はやんわり拒む。


「冗談だ。護身用の拳銃もある。暗殺者とて、来るにはここは辺境すぎる」


ゆっくりと手を挙げ別れを告げ、それから男は堤へ上がっていく。

それから広がる碧空と、雄大な原野。見事に何もないこの場所で、男は呟いた。


「ここが、例の……上川離宮」






―――――――――






 明治26(1893)年5月 忠別村


「……ばかな」


 閑院宮が呟いた。

 田んぼに向かって、屯田兵たちが一斉に進み出る。ひとりひとりの腰にはスカート状に、たこ足のような形をした器具が装着してある。その器具の上皿に種もみをたたえて、彼らはゆっくりと腰を落とした。


「なん……だ、これは」


 水面に刺さるたこ足は一本一本が管になっていて、その先が土に触れると上皿から種籾が落ちる構造になっている。その数は2段8列、一回で合計16個の種を植えることができる。その作業は地味といえど、目をみはるものがあった。


「作ってみて、正解でしたね」


 下流に残る従来の湿田では多くの屯田兵が腰を折って一苗一苗と植えていく一方、眼前では、雄大な直線乾田を屯田兵たちのたった一歩で16粒も種が播かれていく。


湛水直播たんすいじかまき。これで、しんどい田植えともおさらばです」


 玲那の言葉をよそに、閑院宮は呆然と立ち尽くしている。


「たん……すい、じかまき?」

「従来までは内地流の水苗代という植え付け法でした。いわゆる田植えを必要とする稲作法です」

「……あぁ。田植えのない稲作など、ありえん」

「ですが、この北海道では低温下で苗腐病が出やすく、水苗代では栽培が安定しません。田植えも4月末からの1週間以内に終える必要があり、まだ寒冷なこの地では適期を逸しやすいのです。そこで考えられたのが、湛水直播でした」


 田んぼに水を張って、そこに種を播く。書いて字の通りだ。


「直播の播種適期は5月中下旬の2週間と長く、移植でみられる生育停滞もありません。また、田んぼに入れてある水が保温効果を持つので、寒冷地に向いています」

「な……」

「馬耕による代掻きで、雑草の種を表土から奥深くに埋めこめるので直播特有の雑草害を抑制することも可能です」


 田植えという、苗を移植する今までの方法は現在の技術では北海道に適さない。


「ただ、湛水……水を張ってるので倒伏害が起こりやすく、稲が倒れて収穫量や品質が低下しやすいですがね」


 このような倒伏や除草を考えるとばら撒くよりは整列で植えたほうがよい。しかし丁寧に植えるとなると広い水田では手作業が大変で、今まで直播は実行されなかった。たこ足は、この悩みを解決した画期的な農具だった。なにしろ一歩で16粒も、立ったまま播種できる。これは田植えの16倍の効率であることを意味する。


「湛水直播の導入によって、たとえ倒伏が増加して一反あたりの収穫量が7割に落ちようとも、一人あたり16倍の面積を栽培できるようになる。単純計算で、一人あたりの収量は11.2倍です」

「11.2倍、だと」


 土地の狭い内地では湛水直播によって起こる収量低下の欠点が見過ごせない。しかし、この北海道はその広大さをもってその欠点をカバーすることができる。そしてこの「タコアシ」が広大な面積への作付を可能にしたのだ。


「親王殿下。これが明治農法です」


 唸りながら馬鍬を牽いて、一匹の馬が閑院宮の前を通り過ぎていく。

 かつて湿田の広がっていた排水路の側の耕作地跡は、アブラナの若芽が息吹き、夏には良質の油粕を提供するであろう。


「明治……、農法」


 ここまで、大正時代に行われた農業革新である。北京計画の第二段階など、それを20年前倒しするだけの簡単な仕事だ。


「――いい話を聞かせてもらった」


 ふと、そんな声が後ろから聞こえた。

 振り返ってみれば、立派な長髭の燕尾の紳士が立っていた。


「……あなたは?」

「しがない大蔵官僚だ」


 玲那は警戒しながら一歩引く。


「……大蔵省の役人が、どうしてここに?」

「下っ端だよ。しかし、うちの特別予算を使って北の大地でどうやら不思議な計画が進行してるようでな、その視察に来た」


 少し納得する。予算の増額があったのだ、確認に来てもおかしくはない。しかし、このような僻地に飛ばされるとはなんとも不運な大蔵官僚だろう。その地位には、閑院宮ともども同情を禁じ得ない。


「あ、そうだ。大蔵省の人でしたら予算もっとくれません?」

「……お嬢様とは思えぬ挨拶だな」

「ええ。とにかく金が欲しいのです」


 紳士は肩を竦める。


「で、何に融資しろというのだ」

「これです」


 玲那は一枚の新聞紙を取り出した。

 ロシアの片田舎の地方紙の端くれに載っていたのは、小さなだった。


「『詐欺師、空を飛びたがる』……こう書いてあるらしいですが、きっとこれ、ものすごい発明ですよ」

「飛行、船……だと。いや、しかし失敗だと書いてあるように見えるが」

「今の段階では、ですね」


 大蔵官僚の下っ端に言っても無駄かもしれない。しかし、ダメもとでも、意思を伝えて損になることはないだろう。


「ここに呼べません?」

「……は?」

「開発者のユダヤ人です。向こうではいま詐欺師だと迫害されてるみたいですが……ロシアの片田舎より、まだこの屯田兵第三大隊本陣のほうがいろいろ揃っているはずです。兵器整備掛とかもありますし」

「と、言われても」


 困惑する紳士を傍目に、玲那は地平線の先を見据える。


「この広大な農地に、種を人力で植えるのは愚かしくないですか?」

「……まさか」

「飛行船による小麦種の散布」


 米国型大農法の導入。

 それは、ともすれば目指すべき終着点かもしれない。


「……いや、玲那くん。ばらまきは無理があろう、除草作業の困難が目に見えておる」


 苦言を呈する閑院宮。それはその通りだ。しかし、除草剤さえ開発できれば話は変わってくる。今でこそ明治農法だが、それを戦後農法、そして緑の革命へと繋げていく。北京計画は、農業革命でもあるのだ。


「まぁ、当面はそうですね。けれども、陸軍にとっても都合のいい話ではあります」

「……何だね?」

ことができる」


 ぽかん、と閑院宮は言葉を失う。

 その傍で、大蔵紳士が目を細めたのを玲那は見逃さなかった。


「清軍は……いいえ、ロシア軍とて。世界のどの軍隊も、空を制する兵器を持っておりません」

「玲那くん。君は、まさか」

「爆弾でも積めばよいのです」


 いつの日か。閑院宮に伏線を張った戦術爆撃機という言葉。

 決して冗談ではない。嘘でもない。玲那はずっと本気であった。

 日清戦争、そして日露戦争で、皇國は制空権を一方的に確保する。


「……ふふ」


大蔵紳士が笑いをこぼす。


「おもしろい」


 その言葉に首を傾げる玲那に、ぐいっと彼は顔を近づけた。


「お嬢さん。少し、お話伺えるかな?」

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