第3話 皇國枢密院
「小学校入試なのですよね??」
玲那は硬直していた。
なんと6歳児がペンを持ち、紙に向かわされているのだ。
「はぁ……?」
時は明治24(1891)年、有栖川宮玲那は6歳になった。
自分の話をすれば、身体の成長に伴ってか自意識がようやく定まった。転生当初の前世の強い自我は鳴りを潜め、ほとんど玲那に吸収された。これって玲那は前世の人格を殺したことになるのだろうか。わからない。難しいことは考えないことにした。
それから乙女ゲームの話をすれば、もうまもなく舞台が揃うようだ。華族学修館――この国で青い血を引く者は、6つになると必ず行かねばならない場所――その入学審査のために明治24年の3月、初めて学修館に足を踏み入れた。
ここが4月から玲那が通い、そしてあのゲームの舞台となる場所か。試験場の空気はだらけていた。入学審査とはいえ華族なら全入なので落とされることはなく、首席という箔を狙う方々しか競わない。形式的なペーパーテストである。
そのはずだった。
「なに……このテスト」
国語、算数、理科、社会。4教科から一問ずつ出される。その時点で意味が分からないが、いくら華族家庭の英才教育といえど、明らかに未就学児に解かせるレベルの問題ではない。
論述問題 [理科]
欧州の新説によれば驚くべきことに、元素をある法則に従って並べると「一定の周期」が現れるという。さて、各元素の原子量、原子価、単体比重、融点の4数値を以下に示す。その新説を導け。
「なんなのですか」
いや、たぶんこれ周期表について聞かれてるんだろうけどさ。
玲那は前世で化学基礎を選択していたから知っているけれど、普通の6歳が答えられるわけないだろう。
「というか、原子番号が示されていない?」
もしやそれを答えさせるのが狙いだろうか。疑問符を残しながら、玲那は文字を書き連ねていく。
"与えられていない数値ではあるが、各元素の「原子核荷電」を用いる。水素は1であり炭素は6、窒素7、酸素8……これを「原子番号」と置く"
意外にするすると答えが書けるもので、前世の自分がちゃんと科学の授業を聞いていたことに感謝する。しかし玲那はこのとき、この分野は世界最先端の学問であることを念頭に置けなかった。
原子量を基にした周期律の「発見」さえ1869年、たった20年前であること。そして何より、原子番号という概念が登場するのは20年後であるということを。
"――…というように完全周期が実現する。問題文に示された4つのパラメーターは全て偽であり、周期表を司るのは原子番号である"
玲那は時代に先行する法則へ言及してしまったことを。そんな事態に気づくことなく、6歳の皇女は間抜けにもペンを置いて溜息をついた。
「いけない、1部だけ中等部の編入試験を配ってしまったわ…!」
ぱたぱたと脇をすり抜けていった試験官の言葉は耳に入らず、手元の紙切れの端くれに記された『中等部 編入試験用紙』の文字に気づくこともなく。
初等部の入学審査。周りの子女らがひらがなの読み書きに四苦八苦する中に、有栖川宮家の第2皇女はひとりだけ4教科を解いていた。
自由論述 [社会]
この国は変革の只中にある。維新の英傑たちは突如として藩閥対立を終わらせ枢密院へ合流。皇國憲法の制定により、大和、瑞穂、八洲、もしくは帝國と呼ばれてきたこの国は、統一して「皇國」を冠することとなった。枢密院を主導に動き出した一連の改革は、保守派からの反発は根強いものの確かな成果を収めているものも多い。
さて。そのような皇國枢密院に諸君は何を思うか。自由に論じよ。
「……枢密院、ですか」
この国の政治は激動のさなかにある。あの主人公と明治重鎮が関わっていることは確実だろうが、史実という歯車は着実に狂い始めていた。
「……」
周囲からは、カリカリと筆を運ぶ音のみが響く。
他の生徒たちはどんなことを書くだろう。
名声を上げつつある皇國の中枢。「維新の英傑」が勢揃いした最高知能の集い。至高の誇り。皇國を導く存在。彼らにならば、安心してすべてを任せられる――そんな風に枢密院を称賛するだろうか。
事実、世間はそんな論調だ。かれらは大人気である。
”俺は、神に選ばれた、んだ"
脳裏に蘇る『主人公』の言葉。
主人公ならいいだろう。悪役を押し付けられた玲那は、どうしろと。
「…――神ってなんなの、くそったれ」
”自由に論じよ”とは奇妙な問いだ。皇室最側近の英雄機関、皇國枢密院。疑問を呈することはまず許されない――となれば、枢密が関わっているという線はないか。
よろしい。お望みならば、勝手に論じさせていただこう。
『枢密院は、いずれ皇國に仇をなす』
・・・・・・
・・・・
・・
「理科論述を、完全に解いた奴がいる」
おもむろに、戦慄く声があがった。
「ど……どういうことだ、そりゃ」
「バカな。満点阻止の捨て問だろう?」
どよめきが広がるが、報告はそれに留まらない。
「それだけじゃない。そこじゃない。件の論述、『周期律』。この理論を修正をしやがった……!」
「「――は?」」
化学科の教師は震える手でその解答を持ち上げる。
「ヤツ曰く……周期律の鍵は原子量ではない、と」
「ま、まさか。先生は仮にも元帝大教授、嘗てはプロシアまで研究に飛んだ皇國原子学の権威ではありませんか。そんなもの一蹴」
「その私をして論破できないのだッ!」
原子学の権威とまで呼ばれた彼は言う。
「むしろ吸い込まれていくような感覚だ。ヤツの理論に則れば原子量式の不合理も説明がついてしまう……この原子番号説とやらは、学会を揺るがしかねん」
「相手は12歳のガキですよ!?」
「そのはずだ。正直私も何が起こっているのか理解が追いつかない」
動揺する教員たち。
そこへ、カツン、カツンと床を鳴らして近づく影が一つ。
「何かあったのか?」
「はっ!」
「畏まらなくて結構。ここでは、
権威と呼ばれた研究者は進んで前に出る。
「閣下、維新来の天才が出ました」
「ほぉ?」
その瞬間。
「なんだこれは!?」
社会科から突然、困惑のような、怒号のような悲鳴が上がった。
「そ、そいつ。そいつだ! 論述でとんでもないことを書きやがったのは!」
「なんだって?」
「こいつ、お……畏れ多くも『枢密院は我らに仇をなす』と!」
職場に当惑が波及する。
「は、はぁ、な!!?」
「冗談だろ?」
「間違いない、受験番号は一致している!」
ひとりの男が歩み寄る。
「少し見せてもらえるか?」
「か、閣下」
閣下と呼ばれた男は、教員たちに囲まれた一枚の解答用紙を拾い上げた。そこに綴られた文字へ、なるほどすぐに引き込まれる。
「
氏名欄には見慣れぬ苗字。男爵家のうちで憶えがないので、当然子爵家でもなかろう。どこの家だろうか。
「っ、もしや」
彼は本棚へと足を運び、皇族の名簿録を手に取った。皇子や皇女の称号を一覧から遡って、ついに秦宮の名を見つける。その正体は有栖川宮家、第2皇女であった。けれどその横に記された欄が、彼を叫ばせた。
「御年齢は――ろ、6歳だと!?」
「ろ、ろく?」
「いやすまぬ、なんでもない」
咳ばらいをして、男は目を見開く。胸元の枢密院議員章が鈍く光った。
「不合格処理を」
「閣下!」
抗議の声が飛ぶ。
「見捨てるのですか、ここまでの才能を」
「社会の論述試験は、皇國英雄に忠誠を誓い賛美するにあたり、どの点を取り上げどのように評価するかで分析力を見る問題だ。それを批判など、もってのほか」
「そうだ。刻下、体制の根幹を成す維新の英傑を疑うなど……叛逆、果ては大逆にさえ繋がりかねない危険思想ぞ!」
男と社会科教師に反駁されて、なお化学科の教師は引き下がる。
「しかし松方閣下。蔵相たる枢密院議員伯爵ならご存知とは承知しておりますが、学修館は華族と皇族は全入としており、通常、入学審査で落第と付すことはありません」
「平民と競い合って中等部を受けるような華族だ。諸事情で初等部からの入学が叶わなかった腫れ物だろう、落として構わん」
中等部は初等部と異なり、華族に混じって学業や技芸に秀でた平民も受験する。ちなみに『主人公』は平民なので中等部からの入学だ。華族学修館に初等部から入れるかどうかは、その家の勢いを示す指標になっている。
「では、儂はこれで」
「閣下、御再考を!」
引き留める教師たちには振り返らず、彼は立ち上がる。
(……さて。その知性を、拝みに行くとしよう)
枢密院徽章に刻まれた、自らの義務を果たしに行くために。
・・・・・・
・・・・
・・
「皇女殿下は、転生者であせられますか?」
目の前の男の言葉に、息を呑む。
「……はい?」
「あぁ、いえ。あるいは、こう訊ねることにいたしましょう」
その次の問いは、より直接的なものだった。
「令和、という言葉に聞き覚えはありますか?」
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