第38話

 おじさんと別れ、美来の家の前に行った。その場所には、以前美来が暮らしていた家ではなく、新しい家が建て替えられていた。表札も、「中島」ではなく、「田辺」となっている。美来はもうここには住んでいないのだろう。

 そう思ったが、気づくと田辺さんの家のインターホンを鳴らしていた。家同様、十二歳の僕が鳴らしたものとは形も音も変わってしまっていた。

「はいー」

 若い女の人の声が聞こえてきた。

「あの中島さんのお宅ですか?」

 表札を見なかったことにして、僕はそう言った。

「いえ、違います。今年引っ越してきたもので、もしかしたら前の人と間違えているかもしれないですね」

「そうですか…申し訳ないです」 

 そう言ってすぐに美来の家があったところから離れた。今住んでるこの人に居場所を聞くことも考えたが、前に誰が住んでいたのかなんてわからないだろう。

 そうして学校から実家までの人気のない通学路を、一人で歩いて帰った。


 家の前に着くと、何も変わっていない実家があった。おじさんに車で送ってもらったあの時よりも何倍もの緊張感が押し寄せてくる。

 玄関のドアを引くと、鍵はかかっていなかった。時刻はお昼すぎだが、料理の匂いはしない。だが、玄関の風景と雰囲気はそのままだ。

 恐る恐るリビングに入ると、母親がキッチンから顔を覗かせる。目を丸くした母の姿は何にも変わっていない。息を呑んでから、僕は母に言った。

「ただいま…」

「あら、久しぶりねー」と母が僕の方に駆け寄ってくる。

「久しぶり、母さん」

 母は僕の肩を両手で触り、「ちゃんと食べてるの」と嬉しそうに笑っている。

 近くで母を見ると、過去に戻った時より痩せているようだった。あんまり家に帰ってきてなかったことを少しだけ後悔した。

「そういえば、優香は?」

「二階にいるわよ。今日は大学院休みだって」

 すぐに階段を登り優香の部屋へ向かった。

 優香は現在二十三歳で、今年から大学院に進学したらしい。その事実は母からのメールで知らされたが、詳しいことはわからない。そういえば、僕も優香も過去に戻った時に誕生日を迎えたはずだが、まだこっちは六月だ。他人から見たら僕が経験したことなんて一日に集約されたただの夢であるのだろう。

 部屋の前に立ち、あの頃のように躊躇ってしまう。

「優香…」

 扉越しに震えた声で呼びかける。

 数秒後にガチャと音がし、扉が奥に引いていく。

「お兄ちゃん。久しぶり…」

 優香は眼鏡をかけ、僕を下から見上げている。目線の高さはあの頃と何も変わっていなかった。

「なんで帰ってきたの?」

 既に優香は自分の部屋に戻り、机の前に座っていた。

「たまには帰らないとなって思って」

「三年ぶりに思ったんだ…」

 少し怒っているようだった。

 優香には聞きたいことがたくさんあった。優香自身のこと、石神先生のこと、そして、美来のこと。

 優香自身のことを聞くのは不躾ぶしつけな気がして聞きずらかった。美来のことを優香に聞こうと思ったが、ふと石神先生のことを優香は認知していたのかが気になった。

「石神先生って覚えてる?」

 すると、優香は机の上に置いてある資料から目を離し、僕の方に振り返る。

「どうして?」

「いや、何年か前に亡くなっただろ。今日学校に行ってきてすごく懐かしかったから…」

そういうと、優香は沈んだ表情で口を開いた。

「先生は、あんなことしない。先生は……、先生は優しい先生だった」

 優香が石神先生と交流があったのは意外だった。小学校六年間で、石神先生が担任になったことはないはずだ。

「石神先生と接点があったのか?」

 すると優香は剥れた顔で僕に詰め寄る。

「お兄ちゃん、石神先生のこと悪く言うから嫌い」

 確かに過去に戻る前の僕はそうだった。

「今ではそんなこと思ってない。むしろ感謝している。恩師なんだって気付かされたよ」

 本当にそうだ。過去に戻って僕は気付かされた。多くを学ぶことができたし、先生が生徒をどれだけ愛しているかも理解できた。

 すると、渋々、優香は先生との思い出を語り出した。

「先生は、私を守ってくれたの。私が辛かった小学校の時に、先生だけは味方でいてくれた。ママにもパパにもお兄ちゃんにも言いたくなかった。心配かけたくなかった。だから一人で耐える事を選んだの。それでも辛くて、一人ぼっちで。そんな時に先生がいつも放課後一緒に話してくれたの。だから、先生はあんなことしない」

 今優香が話してくれた事実は、今日ここで初めて知った。だから僕が過去に戻ったことが影響して起きた出来事なのか、それとも元々そう言うことだったのか、それはわからなかった。ただ、先生が優香を守ってくれたことだけは確かだった。

 結果的に過去に戻って守ろうと覚悟を決めたものを、大嫌いだった先生に守ってもらっていた。本当に愚かな事をしたんだと思う。

「先生は生徒を何よりも愛しているんだよ。だからそんな先生が、生徒を自殺に追い込むなんて事絶対にしない。それは確信できる。一番近くで見てきたからわかるんだ」

 そう言って優香の頭を撫でた。優香は少し恥ずかしそうにしていたが、抵抗はしない。

「お兄ちゃん、先生のこと好きだったんだね。嫌いだと思ってたよ」

「嫌いだよ、あの先生は僕を揶揄って遊んでいたからね」

 二人で顔を合わせて笑った。久しぶりに大人になった優香の笑顔を見た。小学校三年生の頃と何も変わらない笑顔だった。

「あ、そういえば」

 優香が思い出したかのように口を開いた。

「石神先生が卒業の時に、『バカ兄貴に二十六歳になったら伝えて』っていてたんだけど、そういえばお兄ちゃん今二十六だよね。優香も忘れてた。でもなんで二十六歳なんだろう。タイミングばっちしだね」

 僕が二十六歳の時に過去に戻ったことを先生は知っている。

「先生なんか言ってたの」

 焦って優香を催促する。

「えっと、卒業の手紙をちゃんと見るようにって」

 一度目の六年生を卒業した時、石神先生から手紙はもらっていた。だが、すぐに読んだ記憶がある。もしも過去が変わっているなら、手紙の内容も変わっているのかもしれない。

 優香の部屋から飛び出し、自分の部屋に行く。そうして小学校のアルバムや写真が入っている引き出しを漁るように調べた。

 奥の方まで探していると、封の開いた手紙が皺をつけて放り込まれていた。その手紙の内容を確認すると、当時僕が読んだ時と全く同じ文章が並べられていた。

 見覚えのある独特な字面。端的に並べられた文字と、味気のない形式的な内容がそこには書き出されていた。やっぱり過去は変わっていないのかと思ったが、手紙を出して封筒の奥を覗き込んだ。

 そこには封筒と同化するようにテープで貼られたもう一枚の紙があった。それを綺麗に剥がし取り、僕はその折り畳まれた小さな紙を広げた。そこには僕が最後に確認できた先生の文章が並べられていた。

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