第24話 八編 3

 仏教の書に罪業深き女人、というところがある。実にこの有様を見れば、女は生まれながらに大罪を犯した罪人のようでないか。また、一方的に女性をひどく責めていて、『女大学』に婦人の七法として(七法とは、夫が妻と離婚できる七つの条件。妻が夫を、ではない)、「淫乱なら去る」と明確にその裁判を記してある。男にはたいへん都合よくできている。あまりにも片方をひいきした教えである。結局、男性は強く、女性は弱いというところから、腕の力を基準にして男女上下の名分を立てた教えである。

 右は姦夫淫婦の話だが、またここに妾(めかけ)の議論がある。世に生まれる男女の数は約同数というのが天の理である。西洋人の調査によれば、男子が生まれることの方が、女子が生まれることより多く、男子二二人に女子二〇人の割合だという。ならば一人の男が数人の婦人をめとることは、天の理に背いていることが明白である。これをする者を禽獣と言ってよいだろう。父をともにし母をともにする者を兄弟と言い、父母兄弟ともに暮らすところを家と言う。それなのに今、兄弟と父をともにしてはいるが、母を異にし、一人の父が独立して衆母は群れをなしている。これを人類の家と言うのか。家の文字の意味も満たしてはいない。たとえその楼閣が高く大きくても、その室内が華麗であっても、わたしの目から見れば、それは家ではない。家畜などの家と言わざるをえない。妻と妾、家に同居していて家中をよく調和したという話は聞いたことがない。妾といえども人類の子である。一時の欲のために人の子を禽獣のように使役し、一家の風俗を乱して子孫の教育に害を与え、禍を天下にまき散らして毒を後世に残す者を、どうして罪人と言わないのか。

 ある人が言うかもしれない。「何人かの妾を養っても、その処置を上手にやれば人情や風俗を害することはない」と。これは肉親である夫子が言う言葉であって、他人が言うことではない。もし、そうだとして、一婦で何人かの夫を養わせ、これを男妾と名づけて男の妾にすればどうか。これで、よく家の中を収め、人間社会の大義を少しも害することがなければ、わたしはしきりに喋る議論をやめ、口を閉ざして言うのをやめよう。天下の男性はよく自分を顧みなくてはならない。ある人はまた言うかもしれない。「妾を養うのは、後に子孫を遺すためである。孟子の教えでは、不孝には三つあり、後継ぎを遺さないのを不孝の大とする」と。さて、答えようかねー。天の理に合わないことを言う者は、孟子でも孔子でも遠慮なく罪人と言ってよい。妻をめとり、子を遺さなかったと言って、これが大不孝とは何事だ。あまりにひどい言いぐさだ。

 仮にも人の心をもった者なら誰も孟子の妄言を信じないだろう。もともと不孝とは、子たる者が道理に背いたことをして、親に心配させたり、不愉快にさせたりすることを言うのである。もちろん、老人の心には孫が生まれたら嬉しいことだけど、孫の誕生が遅いからといってそれを不孝と言ってはいけない。試みに天下の父母に問う。子によい縁があってよい嫁をめとった。しかし孫を生まないといってそれに怒り、嫁を叱り、子を鞭打ち、あるいはこれを勘当しようとするか? 世界が広いといっても未だこんな奇人がいるということを聞いたことがない。これらははじめから空論であって、解説をするまでもないものだ。これは人々が自分で考え、自分で答えを出すだけのものだ。

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