第23話 八編 2
今、もし前の説に反し「人であるものは理非に関係なく、他人の意に従って物事を処理するものである。自分の意を出すのはよくない」という議論をする者がいるとする。この議論は果たして理にかなっているのか。かなっているのなら、人と名がついた者の生活する世界には通用するはずだ。仮にその一例を挙げて言おう。禁裏(きんり)様(天皇)は公方(くぼう)様(将軍)より偉い人だから、禁裏様の心をもって公方様の身をかってに動かし、公方様が行こうとすれば「止まれ」と言い、止まろうとすれば「行け」と言い、寝るのも起きるのも飲むのも食うのも、自分の思い通りに行動することができなくなる。公方様はまた手下の大名を制し、自分の心をもって大名の身を自由かってに扱うだろう。大名はまた自分の心をもって家老の身を制し、家老は自分の心をもって用人の身を制し、用人は徒士を制し、徒士は足軽を制し、足軽は百姓を制するようになる。
さて、百姓に至ってはもう目下の者がいないので少し当惑するだろうが、もともとこの議論は人間世界に通用する道理に基づいたものとしているから、同じものが何度も繰り返し回ることになる。回るともとに返らざるをえない。「百姓も人で、禁裏様も人、遠慮はない」と百姓の心をもって禁裏様の身を自由勝手に扱い、禁裏様が行幸しようとすれば「止まれ」と言い、禁裏様が宿舎に泊まろうとすれば「お還(かえ)りなさい」と百姓が命じ、起居寝食のすべてが百姓の思いのままで、金衣玉食を廃して麦飯を勧めるなどのことになればどうだ。このようになれば日本国中の人民は自分で自分の身を制する権利を失い、逆に他人を制する権利があるということになる。
人の身と心の居所がまったく別で、その身は他人の魂を泊める旅宿のようになる。下戸の身に上戸の魂を入れ、子供の身に老人の魂を止め、盗賊の魂は孔子の身を借り、猟師の魂は釈迦の身に宿り、下戸が酒をあおって愉快になれば、上戸は砂糖水を飲んで満足し、老人が木によじ登って遊べば、子供が杖をついて人の世話をし、孔子が門人を率いて賊になれば、釈迦如来は鉄砲を抱えて殺生に行く。奇であり、妙であり、不思議なことだ。
これを天の理、人の情と言うのか。これを文明開化と言うのか。子供にでも、その答えを言うのは簡単だ。数千数百年の昔からいる和漢の学者先生が、上下貴賤の名分をやかましく言っても結局は、他人の魂を自分の身に入れようとしているのである。これを教え、これを説き、涙を流しながら諭し、末世の今日に至ってようやくその功徳が顕れ、大は小を制し、強は弱を圧するという弱肉強食の世の中になれば、学者先生も得意の色をなし、神代の諸尊、周の聖君も草や葉の陰で満足することだろう。今、その功徳をひとつふたつ、左に挙げよう。
政府が強大で小民を制圧するという議論は前編にも書いたからここでは略し、まず人間男女間の関係を通して言おう。そもそも世に生まれるものは、男も人で、女も人である。この世に欠いてはならないものという見地から言えば、世界で一日も男がいなくなってはいけない。また、女もいなくなってはいけない。その功能がどんなに同等であっても、異なるところは男は強く、女は弱いことである。大の男の力で女と戦えば、必ず男が勝つ。すなわち、これが男女の違うところである。今、世間を見ると、力ずくで人の物を奪うか、または人を辱める者がいれば、これを罪人と名づけて刑罰が執行される。しかし、家の中では公然と人を辱め、それとがめる者がいないのはなぜだ。
『女大学』という書(江戸時代のもの。儒教思想より女性に従順の道を教え、男尊女卑を公然と説く本。福沢諭吉は後にこれを強く批判した)に「夫人には三従の道がある。幼い時は父母に従い、嫁になれば夫に従い、老いれば子に従う」というところがある。幼い時、父母に従うのはもっともなことだが、嫁になって夫に従うとは、どのように夫に従うことなのか。その従う様を訊きたい。『女大学』の文によれば、亭主は酒を飲み、遊女にふけり、妻をののしり子を叱り、放蕩淫乱を尽くしても、婦人はこれに従い、この淫夫を天のように尊敬し、顔色を和らげる喜ばしい言葉で夫に意見しなければならない――とだけ書いてあってその先のことは書かれてない。この教えの言っていることは、淫夫でも姦夫でも自分の夫と約束したのだからどんな恥辱を受けても夫に従わざるをえない。ただ、夫を傷つけないような優しい顔で諫める権利があるだけである。その諫言に夫が従うか、従わないかは淫夫の心次第で、これは淫夫の心を天命と思え、ということである。
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