第14話 商人と騎士の約束
「リィナちゃん。一人でどこに向かうつもりかな?」
「……あ、ジョシュア様」
「こちらへ」
ジョシュア様は私の肩を抱くように、雑踏の波をかき分けて進んだ。
私一人では流されるしかなかったのに、ジョシュア様は魔法のようにすり抜け、人の壁を押しのけ、通りの端へとたどり着いた。
むせかえるような熱気から少し離れ、私はほっと息を吐く。
その間にジョシュア様は近くに用意されている簡易椅子を持ってきて、私を無理矢理座らせた。
「この街は治安はいいとはいえ、祭りの日に一人でいるのは感心しない。君はきれいな若いお嬢さんなんだから、もっと気をつけるんだ」
真剣な顔のジョシュア様に、まるで子供のように叱られてしまった。
騎士だった頃は、こんな風にちょっと怖い雰囲気で治安を守っていたのかもしれない。
動揺を隠して、私は面白い冗談を聞いたかのように笑ってみせた。
「あら、ジョシュア様は私のことをきれいだって言ってくれるの? 嬉しいわね!」
「リィナ」
でも、ジョシュア様はにこりともせずに私の言葉を遮った。
じっと私を見つめ、はぁっと長いため息をついて髪をかきあげた。
「……リィナ。僕は本当に心配したんだよ」
「え?」
「気が付いていなかったようだけど、君の後を追っている不審な男たちがいたんだ。君の肩にぶつかった男も引き返そうとしていた。一人でいる君に、よからぬことをしようと企んでいたのだろう」
いつも私には優しい目を向けてくれるのに、ジョシュア様はとても厳しい顔をしている。
その真剣な顔を見ていると、今さらだんだん怖くなってきて、私は目を伏せた。
「……心配をかけてごめんなさい」
「わかってくれたのなら、それでいい」
おそるおそる見上げると、ジョシュア様は少しだけ表情を緩めてくれた。
でも、いつもの笑顔ではない。なぜか私をじっと見つめている。
もしかして、人混みに揉まれてしまったから、ドレスが汚れているのだろうか。
襟につけたレースが歪んでしまったのだろうか。
少し慌ててスカートの裾をまっすぐに直したり、襟元のレースに手を当ててみたりシワを伸ばしてみたりしても、まだジョシュア様の視線は動かなかった。
顔を見ているように感じるから、髪につけていたリボンかもしれない。
そう考えて頭に手を当てた。
「……リボンはそこじゃないよ」
「えっ?」
顔を上げると、ジョシュア様は微笑んでいた。
その笑顔はいつも見てきた優しい表情で、私はほっとした。
嬉しくて、たぶん笑ったのだと思う。ジョシュア様はさらに笑顔を深くした。
私に微笑みながら、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
大きな手が私のリボンに触れたようだった。
私はその手をおとなしく受け入れた。自分の手を下ろして、ジョシュア様がゆっくり丁寧に歪みを直してくれるのを待った。
でも、リボンの歪みは直ったはずなのに、ジョシュア様の手は離れていかなかった。
私の髪を撫でるように動いて、私の顔に掛かる髪に指を通す。
未婚の娘として長く垂らしている毛先を持ち上げ、指に軽く巻きつけてするりと引っ張った。
「ジョシュア様?」
いつもと違う気がして、私はそっと目を上げた。
すると、ジョシュア様がふと笑みを消した。どうしたのかと目を見開いている私に顔を寄せ、鼻先に唇を押し当てた。
驚いて、私はびくりと震える。
それをなだめるようにジョシュア様は肩を撫で、その手で私の顎を持ち上げて……唇にキスをした。
私は呆然としてしまった。
すぐに離れたジョシュア様を見上げてしまう。でも、ジョシュア様の顔がまた近寄りそうになり、私ははっと我に返ってジョシュア様の体を押しのけようとした。
「……な、何をするの!」
「キスの意味は一つだと思うけど」
「一つって……でも、ジョシュア様は妹様にもキスをしていたんですか!」
「小さい頃はともかく、妹に唇へのキスはしないな。……ん? もしかしてリィナは……聞いていない、のか?」
「何のこと?」
真っ赤になった私は、ジョシュア様をぐいぐいと必死で押しながら聞く。
ジョシュア様は困った顔をして、少し離れてくれた。
「三十歳になったら騎士を引退する、と決めたのはずいぶん前だったんだけどね。それを告げた時、君のお父上に言われたんだよ。その時まで君が結婚していなかったら、嫁にもらってくれないか、とね」
「……え? ええっ?! お父様ったら何てことを……!」
とんでもないことを提案したお父様への憤りに、私は羞恥を忘れてしまった。
つい拳を握った私を見たジョシュア様は、かすかに笑ってなだめるように私の頭を撫でた。
「当時の僕にとっては、君は小さな女の子と言うか、可愛い妹のような存在だったからびっくりしたよ。三十歳といえば君には年寄りに見えるだろうし、僕は貧乏貴族だ。そんな男と結婚させられるのは可哀想としか思えなかったんだ。でも、僕が引退する頃は君も二十歳になっている。そんな年まで結婚しないような子じゃないと思っていたから、お父上が安心するのならと思って承諾していたんだよ」
「……そんなこと、お父様は少しも……」
「本当に聞いていなかったの? お母上も何も言っていなかった?」
「ええ、何も」
うつむいた私は、小声で言うのがやっとだった。
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