第41話 夕星・21 ~昼も夜も~


 夕星は夢の中にいるような口調で言う。


「シオどのと会わずに、十二の時にこの家を出されて、僧院に行かされる。そこで、男に買われる境遇に身を落として生きている。そこでミハイル伯に出会い引き取られて、ミハイル伯が亡くなった後は、イヴゲニにさらわれて強引にあの男の物にされる」


 夕星は瞳を開けて、言葉を紡ぐ。


「そういう運命を生きた自分のことを、ありありと感じることがある。まるで本当にその人生を生きたかのように」


 シオは何か言いたげに、口を開きかける。

 しかし言うべきことを見つける前に、夕星が言葉を続けた。

 諦念に満ちた寂し気な口調だった。


「私はずっと誰かに支配され、欲望を処理するだけの物のように扱われて生きていくのだろう、そしてこの肉体が衰えたら、用済みのガラクタのように捨てられる、そういう運命を生きるしかないのだ。

 私は夢の中でずっとそう思っていた。毎日、とても辛く……生きることが怖くて……死んでしまいたかった」


 夕星は口をつぐんだ。

「シオと結婚しなかった人生」の辛さと苦しみ、その時に味合った感覚が蘇る。それは「夢」というには、余りに現実的で生々しい記憶だった。

 夕星は遠くの灯りを見るような眼差しで、妻の顔を見つめる。


「でも……生きていれば、いつかあなたに会えるのではないかと……あと一日、あともう一日、生きてみよう。明日にはシオどのに会えるかもしれないから。

 あなたがいたから、そう思えた。ずっと、シオどのがここに……私が初めてあなたを見たときから、ここにずっといてくれたから、私は生きることが出来た」


 シオは、夕星の言葉を遮るように言った。


「私は……きっと、結婚していなかったら、夕星さまのことなんて忘れていたと思います。自分のことに精一杯で、たまにそんな人もいたなって思い出して、でもまたすぐに忘れて目の前のことに夢中になって。妻にならなければ、そんなものだったと思いますよ」


 夕星は微笑んだ。

 とても美しく貴いものを見つめるように、瞳を眩しそうに細める。


「シオどのは、私の夢の中にずっとい続けてくれた。シオどのがここにいてくれたから、辛いときは私もここにいることが出来た。心だけは、いつもあなたのそばにいられた」


 夕星は瞳を閉じて、過酷な境遇の中で支えとしていたことを思い浮かべる。


 欄干に腰かけて、縄梯子を補強するシオの姿。

 たまに聞こえてくる出鱈目な東弦の音。

 その記憶を辿るだけで、シオのそばにそっと寄り添っているような気持ちになれた。

 その温かみがあるから、どんなに辛く惨めな境遇に陥っても耐えることが出来た。

 夕星は柔らかな眼差しで言った。


「だから、私もあなたのためにそうしたい。シオどのが私を思い出した時は、いつも帰って来られるように、ここを守りたいのだ」


 そう言って夢見がちに微笑む夕星の顔に、シオは蒼い瞳を向けた。

 椅子から立ち上がると、夕星の顔に手を添え、唇を重ねる。

 最初は寝台の脇から身を乗り出すようにしていたが、やがて我慢できなくなったように寝台に半身をのせ、夕星の体に体を重ね、頭を抱えて唇を吸った。

 唇をこじ開けるように舌を入れ、舌に絡める。

 夕星は、シオの荒々しい行為を迎え入れるように、寝台の上で細い背をそらし、激しい口づけに応えた。


 長い時間、口づけを交わしたあと、シオは唇を離して夕星の瞳を覗き込んだ。


「あなたが欲しいです。今すぐに」

「私も……あなたの物になりたい。今すぐに」


 ギラつく眼差しに貫かれて、夕星は喘ぐように吐息した。体に残った口づけの余韻が瞳を欲情で濡らし、頬を上気させるのが自分でも分かる。

 夕星は怨ずるようにシオを見つめる。


「目が覚めてから、ずっとそう思っていた。シオどのが話に夢中になっているあいだも」


 ひとつのことに夢中になると周りのことがまったく目に入らなくなるのは昔からだが、それでも言わずにはおれなかった。

 シオは愛しくてたまらないという表情になり、夕星の頬や首筋に我知らず手を伸ばし、その滑らかな肌に触れた。

 シオの手が慣れた動きで肌を滑るたびに、夕星は我慢できず微かに声を上げ、身じろぎする。


 早く触れて、シオ。

 もっと深く。


 甘く切ない、声にならない求めを感じとったのか、シオはちょっと笑った。


「駄目ですよ、傷に響きますから」


 悄然とする夫の体に、シオは丁寧に、だが断固とした仕草で掛け布をかけた。そうして夕星の淡い金色の髪を、白い頬を優しい手つきで撫でる。


「ゆっくり眠って、早く元気になって下さい。私はいつもここにいますから。夕星さまのそばで夕星さまをお守りしながら、あなたが目覚めるのを待っています」


 それがあなたの妻である、私の役目なのですから。

 シオはそう囁いた。


「シオどの」


 自分を見つめる妻に向かって、夕星は口を開く。


「目覚めた後も……私たちは夫婦だろうか?」


 夕星の言葉に、シオは訝しげに目を見張る。

 だがすぐに、不安げな表情の夕星に笑顔を向けた。


「もちろんですよ」


 シオの言葉を聞いて、夕星は安心したように瞳を閉じる。

 眠りの世界の入り口で、自分に囁きかけるシオの声が聞こえた。



 夕星さま。

 


 その声が現実のものなのか、夢の中のものなのかはわからない。

 もしかしたらシオは、現実でも夢の中でも同じことを眠っている夕星に語りかけているのかもしれない。


 あなたは私の夫で、私はあなたの妻です。


 お会いしていてもしていなくとも。

 結婚していてもしていなくても。

 一緒に時を過ごしても過ごしていなくとも。


 私たちは夫婦なのです。

 

 今までも。

 これからも。


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