第40話 夕星・20 ~夫だから~
シオは一瞬瞳を見開いたが、そのままジッとしていた。
「私は……あなたの夫だ」
夕星の言葉に、シオは小さく笑った。
「夫なんて、ただの立場ですよ。だからどうしなきゃいけない、っていうものじゃありません。形だけの夫婦だっているし、どんなにひどい夫だっていい夫だって、中身は関係なく夫は夫、妻は妻、じゃないですか」
夕星は何も言わずにジッとしていた。
シオは、苛立ちを帯びた声で言った。
「夕星さまは、何でもまともに受け取りすぎですよ。もっと適当でいいんです。『ここに帰ってくるから、いてください』って、そりゃ言いましたけれど……言ったんだからその通りにしなきゃいけない、って、そんなわけないじゃないですか。私が留守の時は外で遊んで、帰ってきた時にちゃんと待っていました、っていう顔をすればいいんですよ」
シオは乱暴に、黒い豊かな髪をかいた。
「夕星さまにそんな風にされると……何だか……何だか、私が……凄く純粋な気持ちで夕星さまのことを愛して信頼しきっていて、少しでも何かあったら、夕星さまに裏切られた、って思って、絶望して身投げしそうな女みたいじゃないですか。
ぜんっぜん、そんなことありませんよ。少しくらいなら男遊びだろうが女遊びだろうが、してもらっても気にしないのに」
夕星は、口の中でブツブツぼやき続ける妻の表情を伺って、惑うように言った。
「シオどのは……そういうことをされているのか?」
「はい?」
「……私と離れているときに」
「え?」
今は私の話はしていないですよね? と言いかけたシオは、俯いた夫の瞳にうっすらと涙が浮かんでいるのを見て、慌てたように口をつぐむ。
室内に気まずい沈黙が流れたあと、シオは自分の内心の焦りと動揺を隠すようにことさら素っ気ない口調で言った。
「し、していませんよ、そんなこと。していませんっ。ただ……まあしていませんけれど、仮に……仮にですよ? あくまで仮に、そういうことをしていたとしたら……」
コホンと咳払いをしたあと、シオは言った。
「今後は……もうしません」
そんなに気にするとは思わなかった、と口の中で呟きながら、シオは居心地悪そうに身じろぎする。
ようやく安心したように表情を緩めた夕星を見て、シオは言った。
「だから……その、私は少しくらいなら、夕星さまが他の人とどうこうなったって気にしません。……自分が選んだ相手と結婚したんじゃないから、合わないなと思う部分もあるだろうし。
例えば……例えばですよ? 男同士とか女同士とかでしたいっていう好奇心なり欲もあるじゃないですか。……ああ、済みません! ないです、ないですよ、ないですけれどっ! そうじゃなくて」
夕星の表情が再び悲しげになったのを見てシオはひどく慌てたが、強引に話を進める。
「夕星さまが、本当に『したい』と思ってしたことならいいんです。そうじゃなくて……イヴゲニみたいな奴にいいようにされたり、私のためにどうこうって言うのが嫌なんです。すごく」
シオは小さな声で呟いた。
「ミハイル伯のことだって、本当は分かっていますよ。あなたが私のために、伯に話をしに行ってくれた、っていうことくらい。あなたがそうしてくれなければ、私は爵位を失うところだった……。それは私にとって、何もかもなくすのと同じことです」
少し黙ってから、シオは微かに吐息した。
「私は……あなたのそばにいると、時々、自分が何も出来ない小さな女の子になったような気持ちになります。とても傷つきやすくて、何かあるとすぐに消えてしまうような……」
シオは居心地悪そうに、椅子の上で身じろぎする。
「私は、子供のころでさえそんな風に感じたことはなかった。大抵の大人は出し抜けたし、大人になってもっと力を持てば、何でも思い通りに出来るだろうと思っていた。
自分の力が及ばなくて、何もかもなくすならそれでも良かったんです。それもまた面白い、いくらでもどうにか出来る、って思っているのに……あなたのそばにいると……自分がそのことに耐えられない、弱い人間みたいに思えてくるんです」
シオは顔を上げて、初めて見たかのように夕星の顔を見つめた。
それから唐突に言った。
「もしあなたが私よりも先に死んだら、そりゃあその時は色々と思いますよ、一緒に暮らしてきたんですから。
でも少し経ったら、自分のことに夢中になって、あなたのことは滅多に思い出さないと思います。『そんな人もいたな』くらいで。適当に遊びながら生きていきますよ」
シオは夕星の反応を確かめるようにその顔に視線を向けてから、すぐに目を逸らした。
「だから……夕星さまにもそうして欲しいんですよね」
夕星が何も言わないので、シオはカリカリと人差し指でこめかみを掻いた。
「本当にそう思っているんです。私がドジを踏んで死んだら、その後は、あなたのことをちゃんと守れるような人と一緒になって欲しいって。
死んでしまったら、あなたを守ってあげることは出来ないですから。そんな心配事があったら、死んでも死にきれないじゃないですか。私のことを忘れて楽しく人生を謳歌していたって、化けて出たりしませんよ。どうせ、その頃には腐って塵になっているでしょうし。
そのほうが、ホッとします。夕星さまは、私がいなくても大丈夫なんだ、って」
中心にある何かが分からず、その周りをひたすらぐるぐる回り続ける獣のように、シオは話を続ける。自分でも何が言いたいのかわからない、という見るからにもどかしげな様子は、普段のシオとは無縁のものだ。
そのことが、シオをいっそう苛立たせているようだった。
夕星はそんな妻の様子を見ながら、小さく微笑んだ。
「シオどのは、私がいなくなったら……『そんな人もいた』と思い出してくれるのだな」
「当たり前でしょう。さすがに、何年も結婚していた人を忘れたりはしませんよ」
シオは自分の中の苛立ちを隠すように、素っ気ない口調で答える。
夕星は、寝台の中で瞳を閉じた。
「不思議な夢を見ることがある。シオどのと結婚せず、会うこともなく生きていく夢を」
シオは顔を上げて、夕星のほうへ視線を向けた。
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