第38話 シオ・20 ~約束~
1.
無我夢中で走り、二つの庭を仕切る垣根に飛び付く。薄闇の中、素早くよじ上り、隣りの庭に飛び降りた。
地面に手をついた体勢で顔を上げた瞬間に、夕星がこちらに駆け寄って来る姿が見えた。
大きく見開かれた黄昏のような紫色の瞳は、ただシオの姿だけを映し出していた。
目の前まで来ると、夕星は息を整えながら、にわかには信じがたい奇跡を目にしたかのように、シオの姿を食い入るように見つめる。
シオは手についた泥を払い、服で綺麗に拭う。
それから気を付けて触れないと消えてしまう儚く美しい光であるかのように、夕星の白い手を恐々と両手で包んだ。
その手に触れていると、自分の体の奥底から無限に力が湧いてくるのを感じる。
この手を取ることを、ずっと夢見ていた。
シオは息を吸い込むと、意を決して口を開いた。
「夕星さま、私はイリシア・シオ・ククルシュと言います。この家の……この家の娘です」
震えを帯び、ともすれば途切れそうになる声を、シオは心を励ましながら懸命に絞り出す。
「父は……私と結婚させるために、あなたをここへ連れてきました。あなたを利用するために」
シオは息を飲み込んでから、言葉を続ける。
「それは、あなたにとって、とても屈辱的なことかもしれません。強いられた……よく知りもしない娘との結婚なんて、嫌かもしれません」
シオは勢い良く顔を上げた。
「でも……私と結婚、してくれませんか?!」
目の前に、大きく見張られた夕星の紫色の瞳がある。
その瞳に映し出された自分の姿に向かって、シオは叫んだ。
「この先は、私がずっと夕星さまのことをお守りします! 夕星さまがいつも笑っていられるように。『強いられた結婚だったけれど、意外と悪くなかった』、夕星さまにそう思っていただけるように頑張ります」
ですから、とシオは声をあげる。
「お願いします、私と、私と結婚して、一緒に生きて下さい」
シオは、わずかに震えている手に力を込める。先ほどまで冷えきっていた夕星の手が、温かく感じられた。
緊張で体を強張らせるシオの前で、夕星は顔を伏せたまま口を開く。
「あなたは」
夕星は何度か口ごもってから、その言葉を吐き出した。
「あなたは、嫌ではないのか? 私のような者を夫とするのが……」
その声は、シオよりももっとか細く、すっかり暗くなった夜の空気の中に溶けてしまいそうだった。
「もし、夫婦となっても……私はあなたを守るために戦うどころか、あなたと共にどこかへ行くことさえ出来ない。陽射しの強い日は、長い時間、外に出ることも出来ない。普通の男が出来るようなことは何も出来ない。私のような者を夫にすれば、あなたはきっと『男のなりぞこないを夫にした』と物笑いの種になる……」
夕星はまるで肉体的な苦痛を感じたかのように、体を震わせる。
「私には……あなたに与えられるものがひとつもない。あなたはいつか……私のことを重荷に思い、結婚したことも後悔するだろう。他の……普通の男と結婚すれば良かった、と」
夕星は呟いた。
「私はそれが怖い……。あなたのために何ひとつ出来ることがなく……ただ、一時の感情で引き受けてしまった、役に立たないもののように思われることが。いつかそういう日が来ることに怯えなければならないことが……とても怖い」
離れていきそうになる夕星の手を、シオは引き留めるように握り締める。
驚いたような表情になった夕星に向かって、夢中で叫んだ。
「夕星さまは、ここにいて下さるだけでいいです」
虚を突かれたような夕星の顔を見ながら、シオは言葉を連ねる。
「いつもそばにいなくても、夕星さまがここにいて私の帰りを待っていてくれる、いつも私のことを見守っていてくれる。夕星さまがそうして下さるだけで……それだけで力がわいて、どんなことでも乗り越えられそうな気がするんです。一人だと挫けそう時も、夕星さまも一緒なんだ、離れていてもいつも私を支えてくれているんだ、そう思うとどんな相手にも、どんな大変なことにも負けない気がします。それはあなたにしか出来ない……夕星さまじゃないと駄目なことなんです」
シオは続ける。
「私は……夕星さまを守るけれど、それはあなたに守られているのと同じなんです。あなたと、そんな夫婦になりたい……そういう風に生きていきたいんです」
シオは口を閉じると、息を詰めるようにして夕星の言葉を待つ。
夕星は言葉を発する能力を失ってしまったかのように、シオに手を取られたまま、その場に立っていた。
「だ……駄目……ですか?」
シオの問いに、夕星は激しく頭を振った。
目に浮かんだ涙が、星明かりを反射して夜の中で瞬いた。
シオどの、と夕星は小さな声で呼ぶ。
「本当に……私でいいのか?」
涙でくぐもった消え入りそうな小さな呟きに、シオは無我夢中で頷いた。
「夕星さまが……いいんです」
「本当に……?」
「はい」
「本当に……か?」
「本当です!」
シオが力強く叫ぶと、夕星の頬がうっすらと朱色に染まる。
夕星は、しっかりとつながれた二つの手を見ながら言った。
「私は、外へ行くあなたに付いていくことは出来ない。あなたが大変な時に……助ける力もない」
夕星は言葉を続ける。
「でも……あなたのためにここにいよう。シオどのがいつでも、ここに帰って来られるように。あなたの帰りをいつも待っている」
その言葉を聞いた瞬間、シオの顔に笑顔が広がった。
シオは、魅せられたような表情をしている夕星に向かって言った。
「私はどこに行っても、夕星さまがいらっしゃるここに帰ってきます。だから、夕星さまがここを守って下さい。私が戻って来られるように」
笑顔でシオが言った言葉に、夕星は強く頷いた。
2.
ゆっくりと目を開けると、そこは夕星が眠る薄闇に包まれた寝室だった。
シオは、眠る夕星の人形のように端整な顔を見つめる。
いま、やっとわかった。
シオは夕星の手の温かさを感じながら考える。
夕星は、今が辛いから眠りについたのではない。
現実から逃げるために眠り続けているのではない。
自分たち二人の居場所を守りながら、夢の中でシオが帰ってくるのを待ち続けているのだ。
シオの蒼い瞳から、涙がこぼれ落ちる。
涙は後から後から溢れだした。
結婚してもしなくとも。
自分が勇気を出しても出さなくとも。
六年の歳月を一緒に過ごしても過ごさなくとも。
自分たちは、ひとつの居場所を共有する夫婦なのだ。
私は、あなたのことを何もわかっていなかった。
シオは心の中で呟く。
あなたが何を考えて、何を感じているのか。
何を大切に想い、何を必死に守っているのか。
何ひとつわかろうとしなかった。
あなたのことを何も見ずに、ただ救ってあげなければならない、守ってあげなければならない可哀想な人だと思っていた。
何の抵抗も出来ず、運命にもてあそばれているだけのように見えても。
物のようにあちらこちらへ動かされるだけのように見えても。
遠く離れた場所にいて、会いに来ることが出来なくても。
あなたは自分にとって大切なものを……妻である私を守っていたんですね。
今も守って下さっているんですね。
シオは頬を流れ落ちる涙を拭いながら呟いた。
「駄目な妻で……すみません」
手を伸ばすと、優しく夕星の頬を撫でる。
「私たち二人の場所を守ることはお任せします」
シオは、夕星の寝顔を見つめながら微笑む。
「そういう約束でしたよね?」
瞳を閉じると、顔を赤くして小さく笑う夕星の姿が目の前に浮かぶ。
夕星はシオの問いに、恥ずかしそうに、そして嬉しそうにコクリと頷いた。
シオは座ったまま、半身を寝台の上に寝かす。
守るべき姫君の隣りに居座る忠実な狼のように、寝台の上で眠る夫の体に寄り添うと、そのまま瞳を閉じた。
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