第37話 シオ・19 ~いま、行きます~
1.
お願い、一人にしないで!
夢の中の自分自身の泣き叫ぶ声で、シオはハッと目を覚ました。
顔が涙によって汚れ、力強く食いしばった歯が痛む。
シオは寝台の中で半身を起こすと、頬を濡らす涙に指先で触れた。
「また……夢……」
体の中に、先ほどまで見ていた夢の名残の感情が残り火のように残っており、意思の力で涙を止めることが出来そうになかった。
シオは顔を乱暴に拭うと、起き上がり回廊の外へ出た。
欄干に手をかけ、月明かりに照らされた静かな夜の庭をジッと見つめる。
夢の中と同じ光景だ。
だが、どれだけ離れとの境にある垣根の辺りを目をこらして見つめ続けても、夢で見た夕星の姿を見つけることは出来なかった。
いや。
シオは考える。
本当にいないのだろうか?
自分は見えるものを見えないふりをして、聞こえるものを聞こえないふりをしているだけなのではないだろうか。
十二歳の時、夕星のところになど行きたくないと振る舞ったように。
ミハイル伯のところにいる時、聴こえたはずの笛の音を聴こえていないと思い込んだように。
(シオどの、私は……殿下のことを気にしているのではない)
一度だけ会った夕星の言葉が、耳の奥底に甦る。
(私は何も望まない。地位も身分も、何もいらない)
(だから……シオどのの迷惑でなければ、ここにいさせてくれないだろうか)
現実でも夢でも、夕星は同じことを訴えていた。
(シオどの……私は……、私はどこにも行きたくない。もうどこにも……)
夕星の妻であるシオは、「誰よりも夕星さまのことをよく知っている」と言っていた。
自分も夢の中のように夕星と結婚していれば夕星のことが分かるのだろうか。
夢の中の自分と同じように、「そんなこと、知りたくもなかったのに」と思うのだろうか。
そういう後悔を抱えて、結局は夕星のことを知らない今の自分と同じように、夕星を他人に渡そうとするのだろうか。
シオはしばらく考えた後、月明かりの中を縄梯子を伝って庭に降り、離れへ向かって歩き出した。
2.
庭から離れの回廊に上がると、シオは足音を忍ばせて夕星の部屋へ向かった。
初めての経験のはずなのに、何故かもう何年も、こうして夕星の部屋へ通ってきたような感覚が、記憶よりももっと奥深いところからわいてくる。
足元を常夜灯で照らされた人気のない回廊を、シオは慣れた足取りで歩く。
夕星が眠っている部屋に入り、御帳台の中へ体を滑り込ませた。
夕星は、先日、シオが訪ねたときとまったく変わらない様子で瞳を閉じていた。
淡い灯りの中で浮かび上がる白磁のような滑らかな頬も、合わされた桜色の形のいい唇も、夜の空気の中でわずかにそよぐ長い睫毛も何ひとつ変化はない。
にも関わらず、その姿が夢の中で見た、刺された苦痛によって苦しげに歪んだ顔と重なった。
シオは掛け布の中に置かれていた、夕星の手を取る。
夢の中と同じように温かさがなく、ひんやりと冷たかった。
「夕星さま」
シオは夕星の手の感触をしっかりと記憶に刻み込みながら、その名前を呼んだ。
あなたは、もしかして、あの夢の中にいらっしゃるのですか?
シオは細く白い夕星の手をしっかりと握り締めて、心の中で語りかける。
私が十二の時にあなたに会いに行き、私たちが夫婦となった夢の中に。
私たちが結婚してもしなくとも。
私が勇気を出しても出さなくとも。
私たちが夫婦として過ごしても過ごさなくとも。
結局、起こることも結末もほとんど変わらなかった。
それでもあなたにとっては、まだしも夢の中のほうが耐えやすいのでしょうか。
シオは夕星の手を握ったまま、目を閉じる。
そうして、十二の時の自分の姿を、二階の回廊から天女のように美しい夕星を見つめてその存在に焦がれ、だからこそどうしても会いに行く勇気が出なかった時のことを鮮明に思い出す。
まるで本当に過去に戻ったかのように。
太陽が顔を隠し、辺りから陽の光が消えていく。
薄闇に包まれた庭に、淡い光が現れる。
陽の光の最後の名残を反射する、金色の髪を持つ幻影のようなその姿を、シオは欄干で顔を隠すようにして見つめる。
天女が立ち止まり、ふと宙を見上げる。
濃紺に染まり出した空に浮かぶ、星を見ているのだろうか。
シオは、欄干の影からソッと目線を出して見てみる。
そうしてその瞬間、あることに気付いて息が止まりそうになった。
夕星は、自分を見ているのだ。
こちらを無心に見つめる夕星の姿に、記憶の中の声が重なる。
(シオどのはご存知ないだろうが、私は……ここから、シオどのが庭に下りる様子をよく見ていた)
(どこへ行かれるのだろうと、いつも思っていた)
(初めて……シオどのがここに来てくれた)
シオは立ち上がり、欄干から身を乗り出した。
そうして、隣りの庭に向かい、力の限り叫んだ。
「夕星さま! いま……いま、行きます! 待っていて下さい! すぐに行きます!」
シオは夕星に向かって叫びながら、回廊を走り、縄梯子に飛びついた。
素早く地面に下りると、躊躇うことなく隣りの庭へ駆け出した。
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