第36話 シオ・18 ~守れないなら~
「に……荷物……?」
シオは、自分自身が叫んだ言葉にギクリとして呟いた。
妻であるシオの顔からは、怒りと苦痛が消えていき、元の皮肉げな顔つきに戻る。
不快さと哀れみが奇妙に入り混じった表情で、自分の足元に座り込んでいる夫のことを見下ろす。
「そうよ、お荷物でしょう、こんな人」
元からいたシオは反論しようとしたが、喉が詰まったように声が出なかった。
妻であるシオはそんなもう一人の自分の姿を、半ば諦めたように半ば皮肉な眼差しで眺める。
「この人が、一体、今までどんな目に遭ってきたか、どんな風に扱われて、どんなことをされてきたか。調べたんだから、全部知っているでしょう? 僧院にいたとき、ミハイル伯に引き取られてから、そうしてイヴゲニにさらわれた後」
シオは、自分の足元にうずくまる夫のか細い背中に視線を落とす。
蒼い瞳が一瞬哀愁を帯びたが、すぐに自分の中の感情を振り払うように、顔を上げた。その顔には、やや過剰な蔑みの笑いが浮かんでいる。
「この人に泣きつかれて『殿下には渡しません』なんて大見得きっていたけど、どうするつもり? あーんなことやこーんなことされてきたこの人を、今さら夫として迎えるの?」
その場に立ちすくむ自分を見て、妻であるシオは皮肉な笑いを漏らした。
「冗談じゃない、何のメリットもない、って賢い『
それならこの人にご執心の大公殿下にお渡しすれば、『救った』っていう恰好がつくし、殿下にも貸しを作れる。一石二鳥よね。上手くいけば、東方の港の通行許可の審議も任せてもらえるかもしれない」
妻であるシオは、自分の足元にうずくまっている夕星に視線を向けて感情を欠いた乾いた声で呟く。
「この人はアシラス殿下のところへ行って仲良くやるでしょう。私は、ククルシュ公家のために野心のために、もっと役に立つような夫を探せばいいのよ」
シオは膝をつき、夕星の顔を覗きこんだ。
まるで幼子を宥める母親のように、優しくその白い頬を撫でる。
「……それで、いいですね? 夕星さま」
シオは夕星の顔を見つめながら、夕星に、というよりは、他の者に語りかけるかのように囁く。
「アシラス殿下は、聡明で立派なかたです。余計なことは何も考えず、ただ殿下に真心を込めてお仕えして下さい。殿下は、夕星さまのことをちゃんと守って下さいます。何も……もう、何も心配なさらなくていいのですよ」
しばらく沈黙が続いたあと、夕星は今にも消え入りそうな声で答えた。
「私が……殿下の下へ行ったら……シオどのは、どうするのだ?」
問われて、シオは意外そうに軽く目を見開いた。だが、すぐに気を取り直して小さく笑う。
「私のことはいいですよ。自分で考えられますから。あなたは私の夫ではないのですから、もう私のことは気にしなくていいんです」
「そうか……」
妻であるシオの手に導かれるように、夕星は力なく立ち上がった。
「ち、違う!」
歩き出そうとした二人の背中を見て、元々いたシオが声を上げる。
振り返った二人に、シオは言った。
「夕星さまは言っていたわ。もうどこにも行きたくない、って。ここにいたい、って。殿下のところへは行きたくないのよ! 殿下はそりゃ立派なかたで、私もこの人になら夕星さまを、って思ったけれど……夕星さまが死にたいって思うくらい殿下のことが嫌っているなら……っ!」
「あんた、本当に夕星さまのことを何も知らないのね」
妻であるシオは独り言のように言ってから、夫のほうへ視線を向ける。
「夕星さまは、殿下のことを嫌っていらっしゃるのですか? そばに寄って欲しくないくらい?」
シオの問いに、夕星はわかるかわからないかくらい微かに首を振る。
シオはニッコリと笑った。
「そうですよね、さっき、ここにお迎えしても構わないっておっしゃっていましたものね」
妻であるシオは、もう一人の自分のほうを振り返る。
ほらね、と言いたげな顔は、半ば皮肉を半ば諦めを含んでいるように見えた。
「こういう人なのよ」
妻であるシオの顔に、薄笑いが浮かぶ。
しかしすぐに表情を優しげなものに戻すと、夕星の手を引いた。
「さあ、参りましょう、夕星さま」
夕星は逆らうことなく、首に縄をつけられて市場に引き出される家畜のような鈍い動きで、妻に付いていく。
(駄目)
もう一人のシオは、回廊の向こうへ消えて行こうとする夕星の姿を、食い入るように見つめる。
(連れて行かないで! 夕星さまを)
先ほど振り返った自分の顔に浮かんでいた薄笑いが、心の中に浮かぶ。
その瞬間。
夕星を連れ去ろうとする者に対する、怒りと憎悪が全身を支配した。
(行かせない)
体内で闇色の獣が目を覚まし、咆哮を上げる。
(夕星さまは渡さない)
あれは自分の影なのだ。
シオは考える。
夕星を愛する気持ちよりも自分の野心を優先する、弱くて狡い、自分の一番卑しい部分だ。
夕星と一緒になれたことが奇跡的な確率の幸運だと分からないから、あんな風になってしまったのだ。
(殺さなければ、あいつを)
(あれは私自身なのだから)
(夕星さまのことをわからず、利用しようとする、私の卑しい悪の部分なのだから)
(私自身が始末しなければ)
シオは、寝台に置いてある扱い慣れた護身用の
妻であるシオは黒い狼に姿を変え、夕星を背に乗せようとしている。
シオは、剣を握ると不吉な影のような黒い狼に向かって駆け出した。
狼は夕星を乗せるために、体勢を低くしていたために反応出来ていない。
(
シオは蒼い瞳を殺意で燃え立たせた。
目の前に自分と同じ蒼い瞳があり、そこには暗い影をまとわりつかせ嗤う自分の姿が映っている。
(夕星さまを守れない
残忍な笑いを浮かべて、シオはナイフを構えたまま、黒い獣の体にぶつかる。
肉を突き通る感触が、ナイフを通して手に伝わってきた。
鋭利なナイフが確かに肉に食い込み潜り込んでいく確かな手応えを感じて、シオは唇をまくりあげて獰猛な笑いを浮かべた。
あの黒く汚れた獣を確かに殺した。
そう思った次の瞬間、シオは大きく瞳を見開いた。
目の前には獰猛な黒い狼の体ではなく、自分を庇うように立つ細い背中があった。
「夕星……さま?」
シオは自分の目の前で苦しげに息を吐きながら、膝をついた夕星の姿を呆然として眺めた。
夕星の左の脇腹には、先ほどまでシオが持っていたナイフが刺さっており、そこを中心に深紅の液体が白い夜着を染めていった。
もう一人の自分は、どこにもいなかった。
まるで初めからそうであったかのように、部屋にはシオと、身を挺してシオを凶刃から守った夕星の二人しかいなかった。
地面に膝をついている夕星の体を、シオは慌てて支える。力なくもたれかかってくる体は、血の染みが広がっていくにつれて、青白く冷たくなっていく。
「夕星さまっ!」
出血を止めなければ。
混乱した頭で、シオは必死に思考を回転させる。
寝台の敷布を引き剥がすために立ち上がろうとしたシオの腕に、夕星が力なくすがりついた。シオは慌てて徐々に冷えていくその手を握る。
生気の抜けた白っぽい唇をわずかに震わせて、夕星は小さく囁いた。
「シオどの……」
「は、はい!」
「無事か……?」
「はい……っ!」
夕星は小さく微笑んだ。
「……良かった」
それだけ言ってガックリと項垂れた夕星の体を、シオは抱き締める。
夕星さま、死なないで……死なないで下さい。
力の限り夕星の名前を呼び続ける声は、自分の一番奥深い部分から湧いて出てきて、夜の闇に覆われた世界全体に響いているように思えた。
どこにもいかないで下さい、夕星さま。
お願い、私を一人にしないで。
シオは暗い夜の中で、徐々に冷たくなっていく夕星の体を抱き締めながら、力の限り叫び続けた。
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