第35話 シオ・17 ~何がわかるの?~


 シオは呆気に取られたように、目の前に立つ自分自身の姿を眺める。

 それは鏡で見慣れた姿であるはずなのに、まったく自分とは違う存在に見えた。


 獣の毛並みのように剛く光沢のある闇色の豊かな髪。

 抜け目のない狡猾な光を宿す蒼い瞳。

 痩せてはいるが、いかにも素早く動きそうな引き締まった体。

 皮肉、というには悪意がこもりすぎている笑いが浮かぶ口元からは、鋭い刃のような白い歯並みがのぞいている。

 隙を見せれば、一瞬で引き千切られ喰らいつくされそうな、暗く黒い不吉な獣。


(これが私、か……)


 マジマジと見ていると、黒い影のような娘がおかしそうに口元を歪め、手を差し伸べた。その手の先には、シオの腕の中で大きく瞳を見開いている夕星がいた。


「夕星さま、戻りましょう。アシラス殿下がお待ちです」


 黒い影である妻の言葉に、夕星は呆然とした表情のままわずかに首を振った。

 そうして元々いたシオの姿が急に見えなくなったかのようにその腕から離れ、よろめくような足取りで後から入って来たシオの足元に膝まづいた。

 夕星は罪人のように頭を項垂れさせたまま、掠れた声を絞り出す。


「シオどの……、あなたが私に愛想を尽かすのは当然だ。私の姿など、もう二度と目にもしたくないだろう。だが……頼む。大公殿下の下へ行かせるのは、やめてもらえないだろうか。もし、私が大公を受け入れなければ困る、というのであれば……」


 夕星の声が小刻みに震え出す。


「ここに……通っていただいてもいい。ここに来ていただければ……私は、大公にお仕えする……。だから、だから……他の場所へ行くのは……」


 顔を俯かせたまま身を振るわせる夫の姿を、シオは感情のこもらない瞳で見下ろした。能面のような表情のまま、シオは冷たい声を吐き出す。


「駄目です。あなたには殿下の下へ行っていただきます。そういう約束なんですから。あなたが殿下の下へ行けば、東方の港の権利をもらえるという」


 シオはしばらく夕星の反応を待つように、口をつぐんで沈黙した。

 しかし夕星が身を強張らせ震えるだけで何も言ってこないと分かると、怒りと軽侮がその顔を歪ませた。


「一体、あなたには誇りというものがないのですか? そんな犬みたいに震えて、女にすがりついて。身を売ってもいいから、他所にやるのだけは勘弁してくれって。売笑婦だって、あなたよりは意地も強さも持っていますよ。

 なぜ、反論しようとしないのです? なぜ、戦おうとしないのですか? こんなにまで言われて。 

 一体、あなたは何なんですか? モノみたいに売り買いされているうちに、男としてどころか、人間としての誇りをどこかに落っこどしてきちゃったんですか?」


 シオは嫌悪と、夕星ではない他の何かに対する憎悪が宿る視線で、足元で項垂れる夫のか細い姿を刺し貫く。

 こらえきれなくなったように、歯の隙間から呟きを漏らした。

 

「まったく、こんな人が私の夫だなんて……」


 すさまじい侮蔑を込められたその言葉は、鋭い鞭のように夕星の細い体を容赦なく打った。

 それでも無言でただ身を震わせるだけの夕星を見て、シオはカッとしたように蒼い瞳を燃え立たせた。


「何とか言ったらどうなんですか! こんなにまで言われて……悔しくないんですか、あなたは!」

「何を言っているのよ、あんたは!」


 夕星に詰め寄ろうとしたシオに、元からいたシオが怒声を叩きつける。

 夕星の妻であるシオは胡乱そうに顔を上げ、今初めて気づいた、と言いたげに、もう一人の自分に視線を向けた。

 見たこともない姿形を持つ奇妙な生物でも観察するかのように、冷たく瞳を細める。


「何よ? あんたには関係ないでしょう? これは夫婦の問題なの。私はこの人の妻で、この人は私の夫なの。関係ない人は引っ込んでいてもらえる?」


「何が夫婦よ」


 シオは怒りを瞳にみなぎらせて、冷たい表情を浮かべている自分自身に詰め寄る。


「夕星さまの話を聞かずに、一方的に責めて。なぜ、話を聞こうとしないの? 何でもっと大切にしないの? あんたは、夕星さまと結婚出来て……ずっと一緒にいられたのに!」


 強い痛みと共に吐き出されたもう一人の自分の言葉に、夕星の妻として生きてきたシオは、小馬鹿にしたような笑みを浮かべて「ああ」と呟いた。


「そうよねえ、あんたは結婚できなかったんだもんねえ? この人のことが好きで好きでたまらなかったのに、会うことすら出来なかったんだもの。私が羨ましくてしょうがないんだ?」


 妻であるシオの顔が嘲笑で歪んだ。


「でも、仕方ないじゃない、それはあんたが逃げ回っていたせいなんだから。ああ、そっか。違った」


 妻であるシオは、目の前の自分の顔に浮かんだ表情を見て、声を上げて笑う。


、逃げ回っていたんだっけ。ごめん、ごめん。それで? 今は余裕が出来たから、救い主として現れたのね? 

 あんたってそういう人間だものね。勝てない勝負は出来ない。それを計算しているフリ、賢いフリをして誤魔化しているだけ。本当はただ負けるのが怖いだけなクセに」


 自分自身から嘲笑を浴びせられて、シオはギリっと唇を噛み締める。

 こいつは確かに、私なのだ。

 シオは目の前で嗤う、自分と同じ顔をした黒い影を見て思う。


 そう、十二歳のあの時。

 一度でいいから夕星に会いたい、話してみたい。

 ずっとそう思っていたのに、とうとう勇気が出なかった。

 一体、何度そのことを後悔したか。


「そうよ」


 シオは、自分自身の顔に浮かぶ皮肉と嘲りを見つめながら呟いた。


「あの時、私は勇気がなかった。そのせいで……私のせいで、夕星さまをひどい境遇に追いやってしまった。だから……その罪を償いたい。夕星さまの人生を、ちゃんとした、夕星さまにふさわしいものに戻したい。それが私の義務だから、それを果したいの」 


 シオは怒りで瞳を燃え立たせて、夕星の妻である自分の顔を睨む。


「それに比べて、あんたは何よ。夕星さまと結婚出来たのに、夕星さまのことを知ろうともしないで……何も聞かないで、ひどいことばかりを言って!」


「『知ろうともしない』?」


 妻であるシオの顔から、笑みが消えた。

 冷たい刃のような眼差しで、自分自身の顔をひと撫でする。

 その存在は確かに自分自身であることが分かるのに、シオは相手に気圧されるのを感じた。

 黒い狼の影が、妻であるシオの背後でユラリと揺れる。


「私は、誰よりも夕星さまのことをよく知っている。この人がどんな人で、何を考えていて、何を望んでいるかを。そんなこと、知りたくもなかったのに」


 妻であるシオは蒼い瞳を見開き、凍り付いたような眼差しで自分自身を凝視した。


「私はあんたが羨ましいわ。あの時、コソコソ逃げ回ったせいで、この人の妻とならずに済んだあんたが」


 絶句するシオの前で、妻であるシオは瞳から青白い炎を燃え立たせて、獣の咆哮のように叫んだ。


「あんたなんかに何が分かるのよ。この人と結婚しないで済んだから、ずっと初恋の綺麗な思い出に浸ってられて、もしも結婚していたらっていう夢ばかり見ていた暢気なあんたなんかに!」


 怒りと苦痛のにじんだ声を、妻であるシオは、夜の中に響かせる。


「たかだか一、二度会って、荷物でも送るみたいに他人に押しつけて贖罪した気になって! 本当にいい気なもんよね」

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