第34話 シオ・16 ~渡さないで~
1.
日常の業務を全て終えると、時刻はとうに深夜を過ぎていた。
軽い夜食と入浴を済ませたあと、何故か寝付けず、シオは寝室の外に出て月を見ていた。
体は疲れているのに、何故眠れないのか。
理由はわかっている。
(もし、眠り続けることが姫君が望んだことならば)
(姫は過去の境遇ではなく、現在の状況が耐え難い。そう考えることが妥当に思えるが)
昼間、アシラスに言われたことが、ずっと心の中に残っていた。
時間が空くとそのことを考えてしまうため、今日は殊更仕事に意識を向けていたのだ。
だが。
一日が終わり一人になると、再びアシラスの言葉が頭の中に浮かび上がってきて、グルグルと回った。
夕星にとってはイヴゲニの下にいた時よりも、自分の屋敷にいる今の状況のほうが辛いのだ。
それを事実として認めることには、最初は強い痛みがあった。だが、時間が経つにつれて、シオはそこに一縷の望みを見出すようになった。
それならば、その「耐え難い状況」がなくなれば、夕星は目を覚ますのではないか。
(シオどのは……夢は見ないだろうか?)
(現実と似ている、でも今とはまったく違う夢を……)
たった一度だけ話をした時の夕星の言葉が、心の中によみがえる。自分を見つめる紫色の瞳の中にある、切実で切なげな光も。
シオは、その光に向かって語りかける。
夕星さま、あなたは今、覚めない深い眠りの中で、どんな夢を見ているのですか?
そこであなたが得ているものは、現実では手に入らないものなのでしょうか。
心の中の呟きに応えはない。
シオはしばらく宙を見つめたあと、視線を垣根の向こう側……夕星の住まいである離れのほうへ向ける。
そうしてそちらを見て、ハッと体を強張らせる。
静かな夜の庭の片隅で、人影のようなものが動いているように見えた。
こんな時間に、小姓や侍女が庭をうろつくはずがない。警護の者も、屋敷内の庭園には入ってこない。
外部からの侵入者か。
シオは油断なく目をこらし、月明かりの中で動く影を睨む。
だが次の瞬間。
驚愕の余り、危うく欄干から転げ落ちそうになった。
月明かりを反射して煌めく淡い光のような髪。
夜闇の中に溶けてしまいそうな、細く華奢な肢体。
その人物は回廊から飛び出して来たのか、必死に庭を走り、垣根にすがりつく。
だが垣根を上る手だてがないようで、形ばかり手を上に伸ばしているだけだ。
「夕星さま……っ?」
シオは自分の目にしているものが信じられず、呆然としたように呟いた。
それは、もうひと月余りもまったく目を覚ます様子がない、夕星の姿だった。
2.
しばらくの間、シオは、救いを求めるかのように空を力なく見つめている夕星の姿を瞳を見開いて凝視していた。
その姿を見ているうちに、考えるよりも早く体が勝手に動き出した。
シオは縄梯子を欄干から庭へ下ろすと、ほとんど滑り落ちるようにして庭に降り立った。
庭を走り抜けているうちに、自分の体内の黒い狼が目を覚まし全身が獣と化していくことが分かる。
背丈の倍以上ある垣根を難なく乗り越え、シオは隣りの庭にやって来た。
庭の片隅で、夜着一枚の姿の夕星が身を縮こまらせるようにして震えているのを見つける。
夕星は近づいてくる影を見つけて、一瞬、恐怖に顔を引きつらせる。
だが相手がシオだと分かると、その瞳に不意に涙が浮かぶ。駆け寄ると、黒い獣の体に白い腕を巻きつけ、しがみつくように抱きしめた。
声を殺して泣き続ける夕星の細い体に、シオは宥めるように顔をこすりつける。
しばらくして夕星の微かな嗚咽が収まってくると、シオは自分の獣の首に夕星をしっかりとつかまらせた。
そうして身軽な動きで垣根を飛び越え、自分の部屋のある棟へと戻った。
3.
部屋に戻ると、夕星を寝台に腰かけさせ、震えているその肩を羽織りと肩掛けで覆った。
肩掛けに指を滑らす夕星の姿を見て、シオは照れ臭そうに笑う。
「夕星さまからいただいたものです。ありがとうございます、とっても暖かいですよ、それ」
夕星は何か信じ難いものでも見たかのように、涙で潤んだ瞳でシオの顔を凝視する。
シオはたじろぐように目を僅かに横に逸らした。
「その……夕星さま、色々と伺いたいことが……」
あるのですが、という言葉を、シオは最後まで口にすることは出来なかった。
突然、夕星が立ち上がり、シオの体に抱きついた。
小刻みに身を震わせながら、夕星は言った。
「シオどの……私は……私はどこにも行きたくない。もうどこにも……。私をどこかに行かせるなら、殺して欲しい。殺して、ここから見える庭のどこかに埋めて……」
夕星は涙で掠れた声で言葉を続ける。
「お願いだ、シオどの。そうしてくれ……。私を殿下に渡さないでくれ……」
シオは夕星にしがみつかれたまま、ぼんやりとした表情でその声を聞いていた。
不意に。
夕星が驚くほどの強い力で、その細い体を抱き締めて涙に濡れた顔を覗き込んだ。
「渡しません」
シオは夕星の紫色の瞳を、ジッと見つめたまま言った。
「誰にも渡しません、夕星さま。大丈夫です、私があなたのことをお守りします」
夕星の震える唇から、小さな呟きが零れ落ちる。
「……本当に?」
シオは夕星の紫色の瞳から流れ落ちる涙を、ソッと
「本当です。ですから……」
もうそんなに震えないで下さい。
泣かないで下さい。
大丈夫です、ちゃんとお守りしますから。
シオはそう囁いたつもりだった。
だが、気付けば夕星の唇に自分の唇を重ねていた。
そうすることで、言葉よりもはっきりと、夕星の体内に自分の言葉が流れ込んでいくことを感じた。
夕星は、シオの腕の中ですぐに目を閉じた。
シオの言葉を迎い入れるように唇を開き、潜り込んできた舌を受け入れ、微かに声をもらす。体から安心しきったように力が抜け、温かさが戻ってくる。
それを確認するとシオはそっと体をはなそうとしたが、夕星はすがりつくようにさらに深く唇を重ねてきた。
シオどの、私を誰にも渡さないでくれ。
私はあなたのものなのだ。どこにいても、何に囚われていても。
声なき夕星の訴えに応えるように、シオは再びその体を抱きしめた。
その時、黒い影が回廊から室内へ入って来た。
ハッとしてそちらへ目を向けた二人に、入って来た影は悪意のこもった笑いを投げつける。
その声は聞き覚えがあるようでいながら、同時に初めて聞いたもののようにも思えた。
「こんなところで何をしているんですか? 夕星さま。余りを手間をかけさせないで下さいよ」
声の主は、巨大な黒い狼からゆっくりと姿を変えていく。
月明かりの中で浮かび上がったその姿を、シオは瞬きもせずに凝視する。
そこに立っていたのは、シオ自身だった。
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