第六章 夕星 ~眠りにつく~

第31話 夕星・16 ~ミハイル伯~

1.


 シオと別れたあと、夕星は庭に面して置かれた長椅子に腰掛け、一人でぼんやりと夜の光景を眺めていた。


 突然魂が抜け、虚無に支配されたかのような様子になった夕星を、シオはひどく心配した。

 宿直をしている小姓か侍女を呼んでくると言われたが、夕星は首を振り断った。

 少し横になれば大丈夫だ。だいぶ時刻も遅いので、朝まで休む。

 そう伝えると、シオは納得したように頷いて帰っていった。


 夕星は、去っていくシオの後ろ姿をずっと見つめていた。

 黒い狼に姿を変えたシオが戻ってきて、自分の体を跡形もなく食いつくしてくれればいい。

 そう願った。


 だがシオは、一度も振り返ることなく自分の棟に去っていった。

 ちょうど月が陰り、縄梯子を上ったかどうかもわからなかった。


 夕星は、シオが戻ったはずの向かいの棟をジッと見つめた。

 幼いころは、シオが弾く作法も何もない無茶苦茶な、だが溢れるような活力に満ちた東弦の音を聞くだけで幸せな気持ちになれた。

 いかにも気が進まなそうにブスッとした顔つきで練習をするシオの背中を、どこからかソッと見守っているような、それがこの世界で自分に与えられた役目のような、居場所のような、そんな気がしていた。


 夕星は目を閉じ、その音を最後に聞いた記憶を思い出した。




2.


 その夜遅く、ミハイル伯が夕星のいる棟にやって来た。

 ミハイル伯が知らせを寄越さずに来るのは初めてだった。

 慌てて座の準備をし、酒膳を用意しようとするミトに、老貴族は「顔を出しただけだから」と言った。いつも通り側仕えの者たちのための心尽くしを渡すと、休むように伝える。

 ミトが礼を言って下がると、ミハイル伯は口を開いた。


「ククルシュ公が先ほど帰られた。お見送りをしてきたよ」


 酌をしていた夕星の手が一瞬、止まった。最後まで酒を注ぐと、酒壺を膳に置く。

 ミハイル伯は酒杯の中で、波紋が広がる様子を眺めながら穏やかな口調で話を続けた。


「とてもお若く、誇り高いかただ。私が陛下に話をしなければ多くのものを失うところだったというのに、卑屈にならずに堂々としていらした。宮廷では、さぞや目障りだと思われているだろう。宮廷人が考える貴族や女性という存在とは、まったく違うからね」


 ミハイル伯は杯から顔を上げ、夕星のほうを見た。


「そなたから聞いていた通りのお人柄だった」


 夕星は長椅子から立ち上がる。

 ミハイル伯の前に膝まづくと、その手を取り、思いを込めて頭を下げた。


「願いを聞き届けていただき、ありがとうございます」


 ミハイル伯は手を取られたまま、自分の前で下げられている金色の頭を見つめる。


「東弦の音は届いたか?」


 そう言って、目元に柔らかな笑みを浮かべた。


「楽器を弾くことに、余り興味がないようだね。不本意そうな顔をされていた」

「昔からそうでした。練習していてもすぐに飽きて止めてしまうのです。もう少し聞いていたいのに、といつも思っていました」


 夕星は頬を染めた。


「今日は、全部聴くことができました」


 ミハイル伯は、俯き加減に微笑む夕星の横顔をしばらく見てから口を開いた。


「恋の話をしたら、ポカンとした顔をされたよ。こんな老人と話しても仕方ない、と思われたのだろうが」


 ミハイル伯は、遠くを見るような眼差しで言葉を続ける。


「公が東弦を弾かれている時に、もし、私が若い時にそなたと出会っていたらどうだったろう、とふと頭に浮かんだ。とても声などかけられず、きっと遠くから見ているだけだったろう。

 何も出来ないうちに、公のような勢いのある眩しいかたにそなたを連れて行かれてしまい、今のような年になって、あの時こうしていれば、ほんの少し勇気を出していれば、とあれこれ考えていただろうな」


 ミハイル伯は、自分のことをジッと見つめる夕星のほうへ視線を向けた。


「こうやって暮らす日々は、そなたに声をかけられなかった私が見ている夢なのではないか、と思うことがある。昔、声をかけられなかった美しい人を不運から救うことが出来て、その人のそばにいることが出来る。随分、都合がいい夢だなと」


 ミハイル伯はそこで言葉を途切らせた。

 しばらく夕星の美しい姿を眺めてから、そこから視線を逸らした。


「私が死んだ後は、……私が遺すものを公にお任せしたい、とお願いしようと思う。ミハイル家のことも、そなたのことも」


 ミハイル伯は、軽く見開かれた夕星の紫色の瞳から目を逸らして、酒杯に形だけ口をつける。

 その声は、よくよく注意深く聞かなければわからないくらい微かに震えを帯びていた。


「もし公が承諾して下さったら……すぐにあちらへ行っても良いが」


 問うような眼差しを向けられて、夕星はまるで風に揺らされたかのように微かに首を振る。

 ミハイル伯は、その美しい顔を見つめた。


「私に遠慮する必要はないよ」


 夕星は再び、先ほどよりもはっきりと首を振った。その表情が、寂しげに翳る。


「公は、私のことを何も知りません。ただ私が話を聞いて、いつか結婚するかたなのだと思い込み……一方的に慕わしく思うようになった、それだけのご縁なのです」

「公のほうも、そなたのことを聞いているかもしれない。情のないお方ではないようだから、そなたが昔、ククルシュの家にいたことを知れば、きっと力になってくれる」


 夕星が何も答えないので、ミハイル伯は、半ば独り言のように言った。


「公は強く勇敢なおかただ。だがそれでも……若くして、公家を継ぐということは並大抵のことではない。ましてや女性だ。公家の当主として生きていくのは、男以上に大変だろう。ご自身に野心があるならなおさら、誰かそばで支える人間がいたほうが良いと思う。公のことを愛して献身し、疲れた時に休ませられる者が」


 夕星は呟いた。


「私では……きっと、公の役には立てません」


 風のそよぎと間違えそうな、密やかな声だった。

 ミハイル伯は、目を細める。


「私はそなたの存在に、随分、心を慰められているよ」

「公は……強い人が好きなのです」


 夕星は、目ににじむものを見られないように顔を伏せる。


「……どこまでも一緒に行けるような……いざという時は、一緒に戦えるような……そんな人が好きなのです」


 何かを必死にこらえるように下を向いたまま顔を上げない夕星の姿を、ミハイル伯はしばらく眺めた。

 夕星ではなく、別の何かに語りかけるような口調で話し出す。


「人には、帰れる場所が必要だ」


 夕星は顔を上げると、ミハイル伯の穏やかな瞳が目の前にあった。

 

「強く見える人ほど、いつでも帰ることが出来る場所を必要とする。行く場所でも戦う場所でもなく、ただ誰かがそばにいて、同じものを見て、同じ空気の中にいるだけの、そんな場所を」


 ミハイル伯は手を伸ばし、夕星の白い頬を優しく撫でた。


「そなたは、私の帰る場所になってくれた。とても感謝している」


 白い頬を伝うものを隠すように下を向いた夕星の顔を、ミハイル伯は覗き込む。


「だから今度は、そなた自身がそういう居場所になってあげたいと思う人の下に行きなさい」


 夕星は、涙がにじむ声で呟いた。


「伯がいらっしゃる限りは、私は伯のお側におります。最後までお仕えいたします」


 ミハイル伯は、ソッと流れ落ちる雫を拭って微笑んだ。


「そなたは優しい子だな」


 ミハイル伯が笑った瞬間、夕星はしがみつくようにその胸に顔を埋めた。

 ミハイル伯は寂しそうに、だが同じくらい愛しげな眼差しをして、自分の胸の中で声を殺して泣く夕星の背中を撫でる。

 その姿は、夕星より三つ四つばかり年上なだけの、少し頼りなげな青年のように見えた。

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