第32話 夕星・17 ~どこへ行っても~


(人にはね、帰れる場所が必要なんだ)

(ただ誰かがそばにいて、同じものを見て、同じ空気の中にいるだけの、そんな場所を)


 一人で夜の庭を見ている夕星の胸の中にミハイル伯の声が響き、やがて空気に溶けるように消えていった。

 あの時誓った通り、夕星はミハイル伯が死ぬまで、そのそばを離れなかった。



「夕星さま」


 遠慮がちに名前を呼ばれて、夕星は顔を横に向ける。少し離れた場所で、ミトがかしこまって礼をしていた。


「シオさま付きの侍女から、夕星さまの様子を見に行って欲しいと言われたのですが……起きてらしたのですか?」

「目が冴えてしまった」


 夕星はミトに微笑みかけ、そばに招いた。


「ミハイル伯さまのことを思い出していた」

「伯爵さまのことを?」


 夕星は、ミトの端整な、だがまだ多分に未完成さが残る顔を見つめた。


「お前は伯爵さまが私に付けてくれて、それ以来、ずっとそばにいてくれたな。イヴゲニの下にいた、あの一年のあいだも」


 イヴゲニの名前を聞くと、ミトの表情は暗くなった。その一年間の記憶は、ミトにとっても思い出すことが辛い、忌まわしいものだった。

 夕星は、そんなミトの姿に労るような視線を向ける。


「本当に、お前には色々と助けられた。礼を言う」


 ミトは驚いたように目を丸くした。


「夕星さま……そんな、急に……どうされたのですか?」


 それから半ば心配そうな、半ば強情そうな表情になる。


「あの……皇弟殿下のお城へ行っても、夕星さまの身の回りのお世話は、私がいたします。どこへ行っても……ずっと、夕星さまにお仕えするつもりです」


 夕星は、決意に満ちたミトの顔から視線をずらした。それからひどく寂しげに笑った。


「どこへ行っても、か……」

「夕星さま?」


 訝しげなミトの問いかけには答えず、夕星は庭の向こうに見えるシオがいるはずの棟を見つめた。

 縄梯子は仕舞われたのか見えなくなっており、いくら待っても東弦の音も聞こえて来なかった。

 夜の中に冷たくそびえ立つ棟を、夕星は無心に見つめ続ける。


 なぜ、自分には垣根を越える力も、棟を上る力もないのだろう。

 にいる力さえない。

 僧院に行かされ、ミハイル伯に引き取られ、イヴゲニにさらわれ、やっとここに戻ってこられたと思ったら、今度は皇弟の下へ連れて行かれる。 

 シオのそばにいたい。

 何でもいい、何か力になりたい。

 願うことはそれだけなのに、なぜ、それすら叶えられないほど無力なのだろう。


 自分に出来ることは、夢を見ることだけだ。

 夢を見て、自分の居場所を守ることだけ。

 例えそれが、自分一人の虚しい妄想に過ぎなかったのだとしても……。


「ミト、私は眠ろうと思う」


 夕星は、夜の中に見える向かいの棟を見つめながら言った。

 ミトは何かハッとしたように夕星の顔を見たが、すぐに自分の過敏さを恥じるように平静さを取り戻す。


「かしこまりました。ご寝所を整え直して参ります」

「ミト」


 すぐに室内に向かおうとしたミトに、夕星は声をかける。

 振り返ったミトの姿を見つめ、優しく笑いかけた。


「本当によく仕えてくれた。ありがとう」


 月の白い光に包まれたその姿に、ミトはしばし見とれた。

 何か言おうとしたが、結局何も言えず、無意味に頭を下げて寝所へ向かった。



 その少し後に、夕星はミトが整えた寝所に入った。羽織っていた長衣を脱ぎ、夜着一枚の姿になって、寝台の上に横たわる。

 かけ布で肩まで体を覆い、薄闇の中で瞳を閉じた。

 眠ることも、シオにとっては迷惑だろうか。

 そんな考えがチラリと頭に浮かんだが、すぐに混濁した意識の中へ吸い込まれるように消えていく。


 もう、何も。

 何も考えたくなかった。

 ただ、夢だけを見ていたかった。

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