第29話 シオ・14 ~現実と似た夢~
夕星は顔を上げて、シオのほうを見つめた。
微かな不安とそれ以上の期待で、透き通るように白い頬が鮮やかに上気している。
「私はずっと前からシオどののことを知っていた、そう伝えるところを想像していた。シオどのは私がここにいることを知らないだろうから、それを聞いたら驚くだろう、何と言うだろうかと、いつも考えていた」
夕星は頬を赤く染めたまま、何かを探し求めるかのようにシオの表情を伺う。
シオが顔を伏せると、何度か口を開きかけては閉じるということを繰り返した後、夜の中に消え入りそうな声で囁いた。
「シオどのは……夢は見ないだろうか?」
「夢……」
「現実と似ている、でも今とはまったく違う夢を……」
夜風が流れ、夕星の長い金色の髪と長衣の裾を柔らかくなびかせた。
煙るように美しい紫色の瞳に見つめられていると、夕星に初めて出会った今が夢なのか、それとも十二の時から夕星と夫婦として生きてきた日々が現実なのか、わからなくなってくる。
(シオどの……)
夕星が白い腕を差し伸べて、一歩足を踏み出す。
(ミハイル伯のこと……あなたを裏切ったことは、許してもらえなくても仕方がない。私の顔など……もう二度と見たくはないだろう。
ただもし、あなたが何か私を必要とする時は……言ってくれないだろうか。少しでも私に出来ることがあれば、力になりたい)
(ミトに言われた通り、私は夫であるあなたを、よく理解出来ていないのでしょう)
ありうるはずがないことが目の前に浮かび、自分ではない自分の心が苦しみに身をよじる。
(でも同じくらい、あなたはあなたの妻である私のことを何もご存知ない)
(夕星さま、なぜあなたは、そんなに私のことを知らないのですか? ずっとそばにいたのに)
胸の奥底からわいた叫びを危うく唇からほとばしらせそうになり、シオはハッとした。
違う。
夕星と自分が夫婦になったのは、夢の中の話だ。
実際は自分たちは、今日初めて会ったのだ。
しっかりしなければ。
こっちが、現実なのだ。
シオは自分の心に強くそう言い聞かせ、夢想を振り払う。
現実に集中するために、筋肉のひとつひとつの動きを意識して社交用の笑みを作る。
「私は、夢は見ません。いつもぐっすり眠るものですから。体質なのでしょうね」
わざと冗談めかした口調でいい、夜の空気の妖しさを吹き飛ばすように声を上げて笑った。
しかし、不意に口を閉ざした。
シオが見ている前で、夕星の紫色の瞳からはまるで夜空が暗闇に覆われていくかのように、光が喪われていった。後には、虚ろで寂しげな気配だけが残った。
「そうか……」
夕星はかすれた声で呟く。
「シオどのは……夢を見ないのか」
世界中の生物が死に絶えてしまったかのように、辺りがひどく静かになった。
世界のどこかにぽっかりと開いた暗い穴を一人で見つめているかのような夕星の姿に、シオがたまらず手を差し伸べそうになる。
その時、夕星が口を開いた。
「もしよろしければ、これからもこうして……お会いできないだろうか?」
シオが思わず顔を上げると、夕星は慌てたように顔を背ける。
ありたけの勇気をもって、言葉を振り絞っていることがその声が震えていることでわかった。
「ここにずっと置いていただけるなら……シオどのが来たいときに来ていただいて、ゆっくりくつろげる場所したい」
その未来を想像したのか、夕星の瞳に光が戻ってきた。頬を染めて、細い糸をたぐるように小さな声でたどたどしく言葉を紡ぐ。
「私は何も出来ないが……話を聞いたり、庭を案内したり、笛を奏でたりして、シオどのの心を安らがせることは出来ると思う。何もしたくない時でも、あなたのそばにいることは出来る。同じものを見て、同じ空気の中にいて……そういう風に過ごしたい。半月に一度でも、ひと月に一度でも顔を見せてくれれば……」
夕星は、言葉の語尾を空気に細く溶けさせ、ジッとシオの顔を見つめた。
その切なそうな眼差しに見つめられると、再び別の世界に引き込まれそうになる。
(そうですね、あなたに出来るのはせいぜいそれくらいですからね。何もお分かりにならないし、何も出来ないのですから)
夢の世界の自分は、皮肉と冷たさを装おうことで、何とか怒りを押さえつけようとしていた。
夕星は、そんなシオを気遣わしげに見つめる。
(私は、あなたの夫なのに……あなたのことを理解できず、何の役にも立たない。あなたのことを、また傷つけてしまうかもしれない。でも……それでも、あなたのそばにいたい)
(私は傷ついてなんかいませんよ。あなたみたいな何も出来ないお人形さんに、私を傷つけることなど出来るはずがないじゃないですか)
怒りの波に飲み込まれそうになった自分の心を、シオは何とか現実につなぎとめる。
(そうだ)
夢と
その思考だけが確かな現実のものに思え、シオは自分の心に生まれた夢想を振り払うように、勢いよく口を開いた。
「夕星さま、お喜び下さい」
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