第28話 シオ・13 ~初めて来てくれた~
初めて会ったはずなのに、ずっと昔から知っていた気がする。
まったく相反する二つの感情が同時に、同じくらいの強さで胸の中に生まれる。
二つの感覚の間に立たされて、シオはどう振る舞っていいか、一体何を言うべきなのかわからず声を出せずにいた。
それは夕星も同じであるように見えた。
二人は言うべき言葉が見つけられないように、同時に伝えたいことが余りに多すぎて選べないかのように、ただその場に立ち尽くし、瞬きもせずにお互いの姿を見つめ合った。
私はずっと、この人のそばにいた。
ただ一人、守り仕える姫君にだけ馴れる黒い狼として。
体の一番奥深い部分に眠る何かがその想いの正しさを訴えていたが、結局は眼に見える現実のみを尊ぶ理性が勝利を収めた。
シオは軽く首を振ると、館の主人として客人に相対するのにふさわしい、愛想の良い笑みを作り上げる。
「このような夜更けに申し訳ございません。美しい笛の音に誘われて、ついお邪魔してしまいました」
ともすれば自分を見つめる夕星の紫色の瞳によって、現実から夢想の世界に引き込まれそうになりながら、シオは何とかうわべを取り繕った礼儀正しい態度を保つ。
「夕星さま、ですね。お初にお目にかかります。
夕星は、しばらくシオの姿を眺めていた。
シオが礼儀に反して何度か身じろぎしたくらい、それは長い時間だった。
自分から何か言ったほうがいいのだろうか。
シオがそう思い顔を上げた瞬間、夕星は微笑みを浮かべて風に揺らされただけだと思えるほど僅かに首を振った。
「何も……。シオどのには良くしていただいて、とても感謝している」
「そ、そうですか」
夕星が口を閉ざす気配を感じて、シオは慌てて言葉を紡ぐ。何故か沈黙が下りることが怖かった。
「そのう……ミトには色々と伝えてありますが、遠慮はなさらないで下さい。私どもの調べでは、夕星さまが尊きご身分のかたであることは間違いございません。ククルシュ公家は、主筋に当たられるお方としてお仕えするつもりです。
今までの様々な……事情を鑑みて、このような場所にいていただいておりますが、ゆくゆくはご身分にふさわしい場所に移っていただくつもりです」
力を込めて語るシオの前で、夕星はふと顔を上げる。
つられてシオが視線を追うと、先ほどまでいた向かいの棟と、今さっき下に下りるために使った縄梯子が見えた。
夕星は夜風の中で、僅かに揺れている縄梯子をジッと見つめる。
不意に。
夕星は嬉しそうに笑った。
「今もあの梯子を使われているのだな」
それから、祈りの対価として信じがたい恩寵を授かった熱心な信者のように、胸の前にそっと手を当てて囁いた。
「初めて……シオどのがここに来てくれた」
申し訳ございません、本来ならばもっと早くご挨拶に伺うところを。
そう言いかけて、シオは途中で口をつぐんだ。
自分が下りてきた縄梯子を見つめている夕星が、まったく別のことを考えて話していることが明らかだったからだ。
夕星は、シオのほうへ微笑みを向ける。白い頬がうっすらと染まり、紫色の瞳が抑えがたい感情でわずかにうるんでいるその姿は、可憐な少女のように見えた。
「シオどのはご存知ないだろうが、私は……ここから、シオどのが庭に下りる様子をよく見ていた」
子供が大切な宝箱を開けて中身を見せるような表情で、夕星は言った。その声は、恥ずかしさと嬉しさで弾んでいた。
そうして、自分の中の温かな記憶を辿るかのように瞳を閉じる。
「どこに行かれるのだろうといつも思っていた」
シオは顔を赤くする。
あの頃は裏門から外に出て、街によく遊びに行っていた。
街や市場の様子を見て、人々がどのように物を売り買いするのか、どういう風に金銭が流通するのかを熱心に観察した。街をうろつく浮浪児の集団とも仲良くなり、彼らがどういう風に生活し、生計を立てているかを聞き出したりした。
そのうち何人かは、長じてシオの配下となり、表には出せない裏側の物事を処理する役目を負っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます