第27話 シオ・12 ~笛の音~

1.


 あの後。

 結局、東弦を弾くこと以外は何ひとつ要求も依頼もされず、シオは館を辞した。

 ミハイル伯は門まで見送りをしてくれ、丁重な挨拶をし馬車に乗り込もうとしたシオに言った。


「公、お忙しい身の上かとは思いますが、またお越し下さい」


 ミハイル伯は、そこで一度口を閉ざした。日常の作法から考えれば、奇妙なほど長い間だった。

 やがて老貴族はシオのほうに視線を向けないまま、呟いた。


「きっと東弦も、公にまた弾いていただくことを望んでいましょう」


 シオは礼儀に則り「またぜひ」と答えたが、結局その後は一度もミハイル伯の館を訪問しなかった。

 ミハイル伯が自分という人間にそれなりに好感を持ったのと同時に、存在を遠ざけたいという複雑な心境を持っていることをシオは敏感に感じ取った。

 伝わって来たその相反するものを、既に老齢になった身の上で複雑な物事に巻き込まれたくないという気持ちの表れだろうとシオは受け止めた。

 ミハイル伯の立場であれば、ごく当然の思いだ。

 

 だからその後は季節ごとの挨拶と贈り物は欠かさなかったものの、それ以上の交流は特にしなかった。




 不思議だ。

 シオは回廊を取り囲む欄干に座り、眩しい月明かりが照らす目下の庭を見つめながら物思いにふける。

 思えば自分がミハイル伯の館で東弦を弾いたとき、夕星は同じ館のどこかにいたのだ。

 信じられないほど下手くそな演奏が聴こえてくる、と思っただろうか?

 あの時、ミハイル伯はシオの隣りに立ち、庭を見つめていた。


「笛が……」


 途中でそう言ったのが聞こえたが、頭の中の譜面を追うことに必死で聞き返すどころではなかった。

「笛を合わせる者がいたら良かった」そう言いたかったのかもしれない。シオとしては、そんな者がいなくて幸いだったが。


 欄干に腰かけたまま、シオは一階の庭を……その先に広がる敷地の裏庭を眺めた。

 こうして見ていると、自分があの時のミハイル伯と同じものを見ているような気持ちになる。

 あの時ミハイル伯は、月明かりの下に何を見ていたのだろう?


 不意に。

 夜の静寂を破って、下の庭から柔らかな音が響いてきた。

 シオはハッとして、その音がするほうへ視線を向け瞳を凝らす。


(笛……?)


 こんな夜更けに?

とは思ったが、一体、誰が? という思いはまったく浮かばなかった。

 何故なら。

 その笛の音は、シオにとっては記憶の一番奥底に染み込み、普段忘れることはあっても失われることは決してない、自分の一部でもあるものだからだ。

 その音色を聞くと、一瞬で心が十二歳の時のものに戻る。


 いつか、この笛の音を奏でる人と結婚する。

 自分のことを気に入ってくれるだろうか、好きになってくれるだろうか?

 初めて会ったときは何をどんな風に話せばいいだろう? 

 こんな美しい音色を奏でる天女のような人と、うまく話せるのだろうか?


 余りに考えすぎて、その瞬間が来ることが恐ろしく感じられた。

 こんなに想いを募らせて、もし会ったときに相手に興味がなさそうな顔をされたら、つまらない子だと思われたら、忌まわしいもののように見られたら。


 きっと今まで生きてきた自分の世界の、全てが崩れ落ちてしまう。

 だから言えなかった。

 夕星に会わせて欲しいと。

 いなくなった後、どこへ行ってしまったのかとも聞くことができなかった。

 もし一度でも会っていたら。

 勇気を出して夕星に会いに行きたいと言っていれば、今とはまったく違う世界が待っていたのかもしれないのに。



 シオは、頬を伝い流れ落ちていく涙を乱暴に拭った。

 そうして子供のころ、侍女に見つからずに部屋からこっそりと抜け出すために作った縄梯子を持ってきて、欄干から庭へ下ろす。

 夕星がいる離れに行くためには、シオの自室がある棟から館の中心にある表殿に出て、そこからシオの両親が使っていた奥殿を通り抜けなければ行くことは出来ない。宿直の侍女や小姓、警備兵に見つからずに行くことは不可能だ。

 だが庭はつながっているので、間にある高い垣根を乗り越えれば屋敷の中を回るよりもずっと楽に行くことが出来る。


 縄梯子の強度を確かめながら、シオは苦笑する。

 大人になってからも、これを使うことになろうとは思いもしなかった。

 縄梯子をほとんど滑り落ちるように下りると、まるで自分が十二歳のころに戻ったような気がした。

 あの頃、本当は垣根を乗り越えて夕星がいる場所に行きたかった。庭に降り立つたびに、行ってみようかと何度も悩んだ。

 いつも夕星のいる場所に引かれる自分の心を無理に抑えつけるように、裏門から外へ出ていたのだ。


 でも今は。

 シオは大きく息を吸い込むと、笛の音が聞こえるほうへ足を一歩踏み出す。



 二つの庭を区切る垣根は、シオの背丈よりもかなり高いが、乗り越えることは訳なかった。

 自分はククルシュの狼なのだ。

 笑った口元から犬歯のように長く鋭い歯がのぞいていることが、シオにはわかる。

 こんな垣根など、何ほどのものでもない。


 離れの庭に降り立ったとき、シオは一瞬動くことを躊躇った。

 だがすぐに意を決し、夜の空気の中を美しく流れる笛の音を乱さないように、月明かりの中を静かに歩く。

 調和のとれた木々の合間を縫って歩くと、冴え冴えとした月光が視界全体に広がった。

 思わず細めた視線の先に、横笛を口に当てたほっそりとした人影が見える。

 シオはまるで何か見えない壁に遮られたかのように、その場に立ち尽くした。

 その姿は、シオの記憶にある天女の姿よりもずっと美しく、月明かりによって輪郭をかりそめに与えられた儚い幻影のように見えた。


 シオがその場に立ちすくんでいると、笛の音が止まった。

 夕暮れのように煙る紫色の瞳が、シオのほうへ向けられる。

 

「シオ……どの?」


 シオは凍りついたように動けないまま、自分の前でその瞳が驚いたように軽く見張られる様子をただ見つめていた。

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