第26話 シオ・11 ~東弦を奏でる~
礼に訪れたシオのために、ミハイル伯は大仰さはないが、心のこもったもてなしの席を用意していた。
シオは酒食が用意された席で、改めて老貴族に丁重な仕草で頭を下げる。
「伯爵、我が家が存続することが出来ましたのは、伯のお力のお陰です。この御恩は決して忘れません。この先、ククルシュの力が必要な時は、いつでもおっしゃって下さい」
礼儀以上のものがこもった口上を述べ頭を下げたシオに、ミハイル伯は穏やかな表情を向けた。
「今後も陛下を支えていただきたい」という決まり文句を述べた後、なおもジッとシオの姿を見つめ続ける。
こういう力添えの見返りの一部として、性的な関係を要求されることがよくある。
ミハイル伯がククルシュのためにしてくれたことを考えれば、一夜を共にするくらい何でもない。与えられた物に対して支払いが生じるのは当然だ、というのがシオの信条だ。
だが。
ミハイル伯の視線には、シオを女として値踏みするようなものは一切含まれていなかった。
遠くから懐かしい風景を見るかのような、もう戻ることが出来ない故郷の話を聞いているかのような、そんな哀愁と仄かな温かさを感じた。
そのことは、むしろシオの居心地を悪くさせた。
それなりの見返りを要求してくるに違いない、と当然のように考えていたことに、決まり悪ささえ覚える。
しばらくした後、ミハイル伯は目元を緩める。遠くを見るような眼差しから、目の前の物事を観察する表情になった。
「公はお若いですな」
そりゃああなたに比べれば、と内心では思ったが、もちろん口には出さなかった。
ミハイル伯は、そんなシオの内心を読み取ったかのように笑みを浮かべた。
「もちろん、私のような老人に比べればそうでしょう。つまらないことを申し上げました」
「いえ、そのようなことは」
シオは慌てて手を振ったが、ミハイル伯は気にしていない様子だった。少し黙ってから、独り言のように呟く。
「私にも若いときがありました。公のように才気煥発で活力に満ち溢れていたわけではありませんが……皇帝のお側近くに召し抱えられ、身に余るような厚遇をいただいた。私には特に秀でた部分があるわけではないので、幸運だったのでしょう」
シオはここぞとばかりに、伯の忠義に厚い誠実なお人柄を陛下も信頼されていたのでしょうと力強く述べたが、ミハイル伯の耳には届いていないようだった。
再び、遠くを見るような眼差しになる。
「公は、恋をされたことはありますか?」
「は……」
ポカンとした表情を浮かべるシオを見て、ミハイル伯は照れ臭そうに笑った。
「これは……公のようにお若く美しい、花の盛りの女性には当然のことでしょうな。愚問でした」
「あ、いえ」
シオはそれ以上は言葉を続けず、目の前の老人の顔に浮かんだ夢見るような表情をジッと見つめた。
「恋とは不思議なものです」
ミハイル伯は呟いた。
「何度しても、初めてしたかのような気持ちになる」
言葉だけを受け取るならば、宮廷の内外で日夜繰り返される恋愛遊戯の始まりのように聞こえる。
だが。
ミハイル伯は、シオのことを見ていなかった。
というより、本当の意味ではここに存在すらしていなかった。
誰か別の人のそばで、その人のことを見つめている。
シオはミハイル伯の老いた横顔に視線を向ける。その中に自分より少し年上の、穏やかで優しげな青年が恋をする表情が見えるような気がした。
ミハイル伯は、ふと夢から覚めたようにシオのほうに視線を向ける。
「公、一曲、所望しても良いですか?」
ミハイル伯はあらかじめしつらえられた、窓辺の席をシオに指し示す。
部屋と庭の敷居が空けられ、冴え冴えとした月明かりが楽器を照らしていた。
「縁があって、見事な作りの東弦が手に入ったのです。お若いかたに弾いていただいたほうが、楽器も喜びましょう」
貴族同士の宴の席では、曲を奏でることを求められることはよくある。詩でも曲でも舞いでもその場にふさわしいものを即興で演ぜられることが、社交場での地位を高めるのだ。
しかし。
(よりによって東弦か)
元々楽器は不得手だが、この異国から伝わってきた弦楽はその中でも特に苦手だった。早く流行が去ってくれないか、というシオの願いとは裏腹に、一向に廃れる気配がない。
普段ならば適当なことを言って誤魔化すか、
仕方なく、窓辺の東弦の前に置かれた椅子に座った。
「公」
楽器用の爪をはめている時、ミハイル伯が口を開いた。
「庭に向かって弾いていただけますか。今夜は月の光で花がいっそう映えている」
「はあ」
シオはわかったようなわからないような返事をし、息を吸い込んで弦に爪を当てた。
シオが短い曲を弾き終えると、ミハイル伯は庭を見たまま笑った。
「音楽とは不思議なものですな。お人柄がそのまま出る」
(まあ、そうだね。そう言うしかないよね)
シオは内心で肩をすくめる。触れたのが久しぶりなこともあるが、我ながらひどい出来だ。
「大変、お耳汚しを致しました」
恐縮して呟きながら爪を外そうとしたシオのほうを、ミハイル伯は振り返った。
「もう一曲お願いしてもよろしいですか」
「え……」
言われてシオは、爪を外そうとした姿勢のまま固まる。
嫌がらせか、とも思ったが、ミハイル伯にはそんな様子は微塵もない。声にはどこか切実な響きがあった。
「しかし……その……このような不調法な音では伯も退屈ではございませんか? 私の随員の中に東弦の名手の侍女がおります。その者の音色のほうが、お心に適うと思いますが」
「いいえ」
ミハイル伯はシオの瞳を見つめて、穏やかに、だがはっきりとした口調で言った。
「ぜひ、公にお弾きいただきたい」
いやあ……と口ごもるシオに、ミハイル伯は微笑みかけた。
「奏でる音を聞くと、そのかたがどのようなかたで、どのように話され、日ごろどのようなご様子なのか知ることが出来る。……時に、実際に会い話す以上に、お人柄がわかる。だから、こういった社交場でよく奏でられるのでしょうな」
「はあ、そうなのでしょうね」
シオが仕方なく頷くと、ミハイル伯は再び夜の庭に目を向けた。
「公は、本当に聞いていた通りのかただ。東弦の音を聞くと、それがいっそうわかります」
きっと風の噂で、ククルシュの女当主は餓えた狼のように強引で強欲で抜け目がない、とでも聞いたのだろう。
シオは軽く肩をすくめると、仕方なく楽器の前に座り直した。
その間、ミハイル伯はずっと月明かりに照らされた庭と、その先に見える反対の棟を見ていた。
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